第九話 響き合う距離(1)
ほのかとの初練習の日、わたしはどきどきしながらトランペットを構えて音出しをしていた。わたしの音を聴いて、ほのかはどんなふうに感じるんだろう――そんなふうに思っていた矢先、ほのかがぽつりと呟いた。
「美奈ちゃんの音って……奏に似てるね」
「えっ……そうなの?」
わたしはマウスピースから唇を離し、ほのかを見た。ほのかはケースから銀色のトランペットを取り出して、膝の上に置いている。指先が楽器をそっと撫で、優しく目を細めたあと、静かに頷いてわたしに向き直った。
「うん。音が明るいし、華やかな感じがする。まっすぐで、ちょっと眩しくなっちゃうほど。やっぱり……奏に教わってるから、影響を受けてるんだろうね」
その言葉を受けて、わたしは金色のトランペットを胸に抱える。カナデ以外の人前で吹くのは初めてで、緊張で手が震えそうだったけど――カナデの音に似ていると言われるのは、お世辞でも嬉しかった。
「私は奏みたいな音色……出せないからなあ。羨ましいな」
ほのかの声は小さくて、どこか遠くを見ているようだった。俯いて、銀色の楽器をじっと見つめる瞳は、照明の光を受けて少しだけ揺れているように見えた。
「奏と並んで吹いてた頃、本当に楽しかったんだ。奏の音って……昔から誰よりも自由で、力強くて。一緒にいると、こっちまで引っ張られるような感じがして。だから、似た音を聴くと……少しだけ、懐かしくなっちゃうね」
段違いに上手いほのかが、そんなふうに語るなんて。わたしにはない、たくさんの時間がふたりにはあったのだと痛感して、胸がぎゅっと疼いた。
「……でも、ほのかちゃんの音って優しくて柔らかくて、憧れちゃう。本当に……こないだの演奏も、すごく素敵だった」
「えへへ、そうかな? ありがとう。あんまり言うと、奏に怒られちゃうかもよ?」
ほのかは楽器を持って、おどけたように笑う。カナデの音が好きなのはもちろんだけど、ほのかの音に憧れているのも本当だった。まるで、ほのかの人柄を体現しているような音で――わたしも、ほのかみたいになれたらいいのに。
「……それにしても、あの奏が……弟子を取るなんてねえ」
「だから、弟子ってほどじゃないよ……」
ほのかはしみじみと呟き、視線を宙に向けた。まばたき一つ分、思い出をたぐるようにしてから、ふっと柔らかく笑う。
「奏って、昔からすごく自由人で……。他の子とは、あまり馴れ合わなかったし……。前は結構、ピリピリしてたの。自分の世界にしか興味がないって感じで、近寄りがたい時もあったなあ」
笑いながらも、どこか遠くを見つめるようなその目には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
「こないだ奏と、ちょっと話したけれど……。話し方も柔らかくなってたし、すっかり丸くなって……びっくりしちゃった」
その言葉が、わたしの心にすとんと落ちる。確かに――学校でカナデが誰かと親しくしているのは、見たことがない。気まぐれなようでいて、人に深入りしない距離感を保っていた。ピリピリはちょっとよくわからないけれど、今のカナデは……わたしにとって、あたたかくて、優しい人だ。こないだお兄さんの話をしていた時は、珍しく子どもっぽかったけれど。
わたしは言葉を失って、手元の楽器に視線を落とす。そんなカナデが――どうして、わたしと一緒にいてくれるんだろう。どうして、わたしにトランペットを教えてくれているんだろう。あの日の気まぐれ? それとも、何か理由があるのかな。
「……美奈ちゃん、奏に相当気に入られてると思うよ。だって……」
ふわりと微笑みながら、ほのかがわたしを見る。その瞳の奥が、一瞬だけ揺れた気がした。そして、何かを思い出すように静かに頷く。
「……さて! まずは美奈ちゃんの演奏を、聴かせてもらおうかな。奏から課題、出されてるんだっけ?」
ぱんと手を叩いて空気を変えるように、ほのかが明るい声を出した。わたしの持っていた譜面を覗き込み、微笑む。カナデがわたしのために用意してくれた、練習曲。五線譜の上には、昔カナデが書き込んだ幼い文字が残っていて――その小さな筆跡が、なぜかとても愛おしく感じた。
ほのかに見守られながら、わたしは楽器を構える。「失敗しても大丈夫だよ」と、ほのかは優しく声をかけてくれた。だけど、あんなにも澄んだ瞳で見つめられると、やっぱり緊張してしまう。
心臓の音をなだめるように、わたしは深く息を吸い込んだ。音を一つずつ、譜面通りに、丁寧に吹いていく。大丈夫、大丈夫、吹けてる。そう言い聞かせながら、わたしは高音のフレーズへと向かっていく。頭の中で音をイメージして、そこをめがけて――。
「……あっ」
音が外れた。わたしの狙いから逸れて、別の音が部屋に響く。咄嗟にマウスピースを外して、顔を俯ける。頬がかっと、熱くなるのがわかった。




