第八話 君を追いかける夏(3)
雑談に興じてお会計することを忘れていて、慌てて財布からお金を取り出す。壁にかかった時計を見ると、もう結構な時間お兄さんと店長と話をしてしまっていたようだった。平日の午前中ということもあり、その間他の客が来ることはなく、すっかり盛り上がってしまっていた。
お兄さんの友達割ということで、今日も値段を安くしてもらってしまう。毎回申し訳ないなと思いつつも、金欠のわたしにはありがたい。お兄さんからレシートを受け取った時、背後に他の客が並んだ気配を感じた。
「……あれ。もしかして、美奈ちゃん?」
柔らかな声が、背中に投げかけられる。鈴のように響いた声は、馴染みのある声だった。カウンターにいた二人は、背後の客を見て気さくに話しかける。
「おー、ほのかちゃん。お疲れ様」
「ほのかちゃん、久しぶりだねえ! 一年ぶりくらいかな」
「ふふっ。店長さん、ご無沙汰しています。久しぶりに、練習しに来てしまいました。……お兄さん、お会計お願いします」
ほのかはわたしの横にすっと並び、カウンターに伝票を差し出した。絹糸のようなロングヘアを爽やかに靡かせ、東高の夏服に身を包んでいる。わたしとお揃いの楽器ケースを軽やかに持つほのかを見て、わたしのケースがひどく重たく感じられた。そっか、ほのかは……カナデのお兄さんとも知り合いだったのか。長年の付き合いだろうし、当たり前といえば当たり前だ。ほのかとお兄さんが自然に言葉を交わす姿に、わたしの知らない時間の積み重ねを感じてしまった。わたしは動くことができないまま、なんとか笑顔を貼り付ける。
「……ほのか、さん」
「奇遇だね! 美奈ちゃんも、ここに練習しに来てたんだ。奏ったら、相変わらずこのカラオケの常連なんだね……」
どこか呆れたように息を吐いて、ほのかはわたしに天使のような笑顔を向けた。それはわたしのことなんて、何も気にしてなさそうな――余裕のある表情だった。ほのかのような優しい子は、きっと……嫉妬なんて、しないんだろうな。わたしは後ろめたさを隠しつつ、愛想笑いを返した。
「あっ。……そうだ、美奈ちゃん。この後、時間ある? 部活が二時からなんだけど、良かったら一緒にお昼どう? 仲良くなりたいし、こないだのお礼もさせてほしいの」
会計を終えたほのかが、暑さを吹き飛ばす笑顔でわたしに向き直った。裏表のないほのかの姿を見て、わたしはどんどん自分が惨めに思えてしまう。ほのかと一緒にいると、わたしの知らないカナデの姿が見えてくるようで……苦しくなる。それでも、わたしは知らないままでいる方が、もっと嫌だろう。
「そんな、別に、いいのに……。でも、わたしも……ほのかさんと仲良くなりたいな」
声の震えを隠しながら笑顔を繕うと、ほのかは「やったあ、ありがとう!」と無邪気に声を上げる。真面目で大人びた印象だけど、時々見える素直な一面がギャップを帯びて可愛らしい。わたしと仲良くなっても、良いことなんて何もないのに……どこまでも優しくて、可愛くて。こんなに素敵な子――夢中にならない方が、おかしいんじゃないのかな。
身体が、重力に引っ張られていく。店内は流行りの曲がBGMとして流れていたけれど、ボリュームが一段と大きくなったような気がしていた。この空間の中、わたしだけが、一人、重たい。
何を食べに行こうか、とはしゃぐほのかに話を合わせつつ、受付の二人に挨拶をして自動ドアを開ける。喉の奥に絡まる何かを飲み込んで、私はほのかの隣を歩き出す。真夏の空が、やけに重くのしかかる気がした。