第八話 君を追いかける夏(2)
受付に戻ると先ほどの男性店員――そして店長が並んで、ゆるく雑談をしていた。見慣れた店長の顔に、ほんの少し緊張がほぐれる。店長もわたしに気づき、気さくに話しかけてきた。
「美奈ちゃん、練習に来てたんだね。お疲れ様。今日、奏ちゃんはいないの?」
「あっ、はい……。ひとりで、練習しておこうかなと思って……」
「そうかあ、えらいねえ。奏ちゃんも美奈ちゃんも、頑張り屋だ」
店長が微笑む横で、あの男性店員がふとわたしの方を向いた。先ほどよりもどこか近くなった視線に、心臓が跳ねる。
「えっ、この子……奏の友達なんですか?」
低く、抑えた声だった。丁寧なのに、響きだけがすっと鋭い。「奏」という名前を口にした瞬間だけ、空気が少し硬くなる。まるで、反射みたいだった。彼の口から出たカナデの名前に、思わず彼を見つめてしまう。
視線が合うと、彼の前髪の奥の目が、じっとこちらを測るように動かない。綺麗な顔に見つめられた瞬間、背筋がひやりと冷えた。――怖い、というより、何かを見抜かれそうだった。
「あれ、会うの初めてだっけ? この子は、奏ちゃんのお兄さんの、律くん。で、こちらが美奈ちゃん。奏ちゃんの教え子なんだって」
言葉を失っているわたしに気づいて、店長が慌てて隣の男性を紹介する。カナデのお兄さん? そういえば、カナデは以前お兄さんが、このカラオケで深夜にバイトをしていると言っていた。わたしを見つめたまま、お兄さんは頬を掻いて、困ったように笑った。けれど――その笑顔の奥が、どこか真剣に見えた。
「どうも、奏の兄の松波律です。うちの奏が……お世話になってるみたいで」
「そっ、そんな……! ええと……春日美奈です……。わたしこそ、いつも……か、奏さんに、面倒を見てもらっていて……」
慌てて名乗りながら、鼓動が速くなるのを自覚する。低めの声と、涼しい目元。静かに笑う仕草はどこかカナデに似ていて、それが余計に緊張を煽る。しかも――きっと似てるのは、顔だけじゃない。わたしを真っ直ぐ見つめてくるその視線が、カナデにそっくりだった。
「律くんは大学一年生だっけ。医学部に通ってるんだよね。いつもは夜入ってくれるんだけど、夏休みだからって日中も入ってくれてるの」
「まあ、新しいギターも欲しいですし、家に防音室も欲しいんすよ。だから稼がないと」
会話を聞きながら、余計驚く。医学部? それに、ギター。松波家の血筋は、優秀な人が多いのだろうか。カナデの優れている部分に納得して、わたしはつい頷いてしまう。店長と話すお兄さんの口ぶりは軽かったけれど、彼は会話をしつつも何かを測るように、わたしを見ていた。そして――その声色が、ふいに変わった。
「……えーと、美奈ちゃん? 奏に、楽器教わってるって……それ、本当に大丈夫?」
その一言に、思わずひとつまばたきをする。「大丈夫?」――その言葉に戸惑っていると、お兄さんは一度だけ小さく息を吸って、まるで言葉を選ぶみたいに視線を落とした。
「奏……アイツは昔から我儘で自分勝手だし、押しが強すぎる。相手の都合とか、空気とか、平気で無視して突っ走る癖があるんだよ。迷惑だったら……ちゃんと言うんだよ。俺にでもいいから」
それは静かだけれど、真っ直ぐな声だった。言葉の裏に、妹を守りたいという――切実な感情が滲んでいるようだった。
「……ていうか、その楽器も……奏が使ってたやつじゃないか……」
お兄さんはわたしの楽器ケースに視線を移し、頭を抱えた。「部活入ってないと思ったら、こんなことやってたのかよ……」と呟き、前髪に隠れた目元が、一瞬だけ険しさを帯びたように見えた。彼は真面目な顔をして、わたしに向き直る。
「美奈ちゃん。奏の自己満足に付き合う必要なんて、ないんだよ。君は、君のやりたいことをやっていい。奏の勝手な期待に応えるだけのために、無理して何かを続ける必要は……ないからね」
その声は柔らかいのに、どこか切実だった。まるで――本気で、妹が誰かを巻き込むのを、怖がっているような声。一瞬だけ、わたしの心の奥がすっと冷えた。その言葉は――優しい盾だった。お兄さんがわたしを心配してくれているのは、わかっていた。
だけど同時に、「奏の自己満足」という一言が、わたしが必死に守ってきた居場所を穏やかに、でも確実に否定した。
お兄さんの言うとおり――確かに、カナデは強引なところがあった。
『……ミナも、やってみなよ』
出会った頃のわたしには、それが半分、無理やりに見えたのも事実だった。だけど、あの時。わたしに「できるかもしれない」と、初めて思わせてくれたのも――カナデだった。何もないわたしを、音のある場所へ引っ張り上げてくれたのも。
わたしは――カナデに救われた。
視線を落とし、そっとトランペットのケースに手を添える。冷たい金具の感触が、今ここに立っている現実を確かめさせた。そしてわたしは、顔を上げる。
「……お兄さん。わたし……カナデに無理に付き合ってるとか……そんなことは、ありません」
声が、少しだけ震えていた。でも、目だけは逸らさなかった。
「カナデは、わたしに……居場所をくれたんです。カナデが楽器を教えてくれなかったら、わたし、何もなかった……。だから、わたし……自分で選んで、カナデの隣にいます。そして、これからも……一緒にいたいって、思ってます」
胸の奥から湧き上がる想いを、全部そのまま言葉にした。楽器ケースの持ち手を握る手に、自然と力が入る。お兄さんはしばらく何も言わずに、わたしを見つめていた。それから、ふっと――ほんの少しだけ、目元が和らいだ。
「……美奈ちゃんは、良い子だなあ。ははっ。そうかい」
くしゃりと笑って、前髪が揺れる。その無邪気な笑顔が、カナデの笑顔とよく似ていた。
「奏のこと……これからもよろしく頼むよ。アイツ、本当に不器用だから。美奈ちゃんの無理ない程度にね」
苦笑したついでに、お兄さんはひとつため息を零す。カナデに面倒を見てもらっているのはわたしの方だと思いながら、「こちらこそ、よろしくお願いします」と頷いた。
カナデは以前、お兄さんには絶対会わせたくないと言っていたけれど――妹思いで、優しい人なんだと思った。




