第一話 金色の色と灰色のわたし(4)
「な……何言ってるの。無理だよ。そんな……できるわけないじゃん」
わたしは差し出されたトランペットを、反射的に押し返した。冷たい金属の感触が、指先から胸の奥まで突き抜けてくる。きらきらと光を弾くこの楽器に、わたしなんかが触れていいはずがない。眉をひそめるとカナデはまるで子どもをあやすみたいに笑って、わたしの手をそっと押さえた。
「大丈夫。まずは口を付けるマウスピース……その銀色のやつ。それだけ抜いてみて」
「ちょっと……ええ……?」
「少しでいいからさ、暇つぶしに。気分転換に、やってみない?」
まるで魔法のような軽やかさで、カナデはわたしの抵抗をくぐり抜ける。気づけば、わたしはカナデの手に導かれるまま、銀色の部品を抜き取っていた。
カップのようなそれは、ひやりと冷たくて――まるで、知らない世界への鍵みたいだった。
さっきの音が、脳裏に焼きついている。海の上に響き渡った、あの眩しい音。わたしにはきっと一生、届かない世界。なのに、なぜだろう。少しだけでも、触れてみたいと思ってしまった。
「それを唇の真ん中に付けて、息を入れてみて」
カナデの声は、優しくて、楽しげで――その響きだけで、なぜか心がほどけていく。わたしはそっと、マウスピースを唇に近づけた。潮の香りと、金属の匂いが入り混じった空気。ぬくもりを残した冷たい器の感触が、くすぐったくて落ち着かない。
頭の中には、失敗する未来しか浮かばない。できない。恥ずかしい。壊したらどうしよう――。だけど、カナデは何も言わずに、わたしを見ていた。その瞳が「大丈夫だよ」と言っている気がして、わたしは試しにそっと、息を吹き込んだ。
そして、スーッという情けないほど気の抜けた音に、慌てて口を離す。
「なにこれ、やっぱり無理」
「ううん、いい感じだよ。次はもっと力を抜いて、唇を震わせるように……そうだな、頭の中でトゥーって音をイメージして」
カナデはくすくす笑いながら、わたしの手元を覗き込んでくる。トゥーって何? どういうこと? 意味が分からない。わたしには無理。頭が追いつかなくて、本当は今すぐ逃げ出したい。
でも――その横顔が、あまりにも楽しそうで。さっきの演奏の余韻が、まだ胸の奥で輝いていて。
だからこそ、少しだけ悔しかった。わたしには何もなくて、ただ見ているだけで。いつだって、誰かの光に目を細めて、見上げる側で。
ちょっとだけでいい。わたしだって、あの世界に触れてみたい。
もう一度、マウスピースを唇に当てた。頭の中で、カナデの言う音を想像する。何度か息を吐いて、唇を震わせるイメージで力を抜く。すると、変な震えが管を通って、小さく「プッ」と一瞬だけ空気が音に変わった。
「そう、それだよミナ! 今の感じ!」
ぱっと目を輝かせて、カナデが叫ぶ。その声に驚いて、わたしはマウスピースを握ったまま固まってしまった。
今の……本当に、わたしが鳴らした音? まぐれかもしれない。偶然かもしれない。だけど身体の奥が、まだ小さく震えていた。信じられなくて視線を落とすと、カナデはもう一度、と促すように微笑んでいた。
「ええ……もう無理だよ。だって、わたし音楽の才能とかないから……」
そんな情けない言い訳みたいな言葉が、勝手に口から漏れていた。それでも、カナデは少しも表情を曇らせずに笑っていた。
「そんなの関係ないって。今できたじゃん。それに私だって、最初は全然ダメだったし」
そう言いながら、カナデはすっと指を伸ばし、わたしの手元のトランペットを軽く弾いた。かつんと、小さな音が鳴る。その響きを聞きながら、カナデはふっと視線を落とした。
「……そうなの?」
「ははっ、信じられない?」
くすりと笑ったカナデの前髪が風に揺れて、黒い瞳に影が差す。さっきまでの眩しさとは、少し違う。その笑顔はほんの少しだけ、痛みを含んでいた。
「……最初は音なんて、全然出なかったよ。今のミナのほうが、ずっとすごい。空気ばっか吹いててさ……悔しくて、泣きながら練習してた。でも、辞められなかったんだよね」
「……どうして?」
わたしの声が、自然とこぼれた。カナデは遠くを見つめながら、淡く笑っていた。
「たぶん……辞めたら、自分が消えちゃう気がしたからかな。諦めが、悪かったのかもしれないね」
ははっと自嘲的に声を漏らし、カナデは軽く肩をすくめる。ゆっくりと前に向き直り、カナデの視線は遠くの水平線に吸い寄せられた。
「でもさ、続けてるうちに、音が出るようになって、どんどん夢中になっていって。それで、知らないうちに……音楽が、私の居場所になってた」
「……居場所」
その言葉を、思わず反復する。音楽が、カナデの居場所。わたしの居場所って、どこなんだろう。何もない、何もできない。わたしはただ流されて、ただ周りに合わせて、何者にもなれないまま。いつも他人の輪の外にいるような、宙ぶらりんな存在で――わたしの居場所なんてそんなもの、この世界にあるのかな。そう思うと、途端に胸がきゅっと詰まるようだった。わたしって本当に……つまんない。




