第一話 金色の色と灰色のわたし(3)
「ミナだね。覚えとく。私のことも、カナデで良いよ」
「はあ、カナデ……?」
音に出してみた名前は、舌の上で少しだけ跳ねた。不思議な響きだった。あたたかくて、でもどこか鋭い。わたしが初めて出会った、「カナデ」という名前。これから、きっと何度も呼ぶことになる。そんな気がした。
「うん。……で、ミナはこんな時間までここに居ていいの? もう二時間目始まるけど」
その言葉に、「えっ」と声が漏れる。慌ててスマートフォンを取り出すと、もうすぐ二時間目が始まる時間だった。今から走って戻ったって、到底間に合わない。
わたしは、ゆっくりと息を吐いた。息というより、どこか諦めに似た空気を喉から吐き出す。画面を伏せるように鞄に戻し、視線を逸らした。
「もういいよ、どうせ間に合わないし……」
それは、何度も繰り返してきた言い訳だった。本当は、自分でも間に合わせる努力なんてしていない。最初から諦めて、それでも怒られないように息を潜めて、誰にも気づかれずに通り過ぎることだけ考えていた。そうやって無難な生徒の皮を被って、何も見せないように。
でも本当は――わかっている。そんな自分が、いちばん嫌いだった。
「そう? じゃあ一緒に、サボっちゃおうか」
彼女――カナデはまるで大したことじゃないみたいに、笑ってみせた。その笑顔が真っ直ぐで、直視できないほどだった。光みたいで、どこか怖い。わたしが必死に守っている「普通」を、カナデはいとも簡単に飛び越える。
カナデはトランペットを抱えたまま、地面にどさっと腰を下ろした。灰色のスカートが無造作に崩れて、足を軽く投げ出すように――脚のラインも気にせず、膝を抱えるでもなく、ただ好きなように座っている。地べたが指定席みたいに、慣れた動作だった。その姿は、まるで男の子みたいで――けれど不思議と、様になっていた。
わたしと同じ、女子高生のはずなのに――カナデはやっぱり、どこか違う。あんなにも自由に笑えて、あんなにも真っ直ぐに言葉を投げられて。あんなにも、眩しい。
太陽の光を反射していたのは、あのトランペットだけじゃない。カナデの存在そのものが、音と一緒に輝いていた。
「いいよね、この場所。人も少ないし、静かだし。気に入ってるんだ」
水平線を見つめながら、カナデが言った。湿気を帯びた風が、潮の匂いを運んでくる。綺麗なその横顔は、まるで映画のワンシーンみたいだった。わたしは髪の毛を片手で押さえながら、なんとか言葉を探す。
「……カナデは、吹奏楽部に入っているの?」
「いや、入ってない。これは個人的な、趣味みたいなものだから」
どうして? ――とは、言えなかった。その声色に、わずかに鋭さが混じった気がしたから。どこか気まずくなった空気をほどくように、カナデが小さく息を吐いた。
「……ていうか、うちの高校の吹部ってすごい厳しいじゃん。制服も着崩したらいけないし、小テストも毎回合格しないと怒られるし、もちろんサボりも厳禁だし。人間関係も面倒でさ。……そんなルールに縛られて音楽するのが、嫌で」
俯いていたカナデが、顔を上げた。その目が真っ直ぐに、海の向こうを見つめている。その黒い瞳には――確かな意思が宿っていた。それにわたしは思わず、息を呑んだ。
「……私はただ、自由に演奏してたいだけなんだ。楽器吹くだけだったら、どこでもできるしね」
カナデの言葉を聞いた瞬間、胸の内側がわずかに縮んだ。
わたしたちが通う海浜高校の吹奏楽部の噂は、知っている。制服の着方から、成績から、態度から――ちゃんとしていることが、息をするみたいに当たり前で。少しでもずれたらすぐに目立って、すぐに正される。
わたしはきっとそういう場所に、なんとなく安心してしまう側だろう。正解が決まっていて、間違えなければ怒られない。合わせていれば、浮かない。輪から落ちない。
だけどカナデは、そこに入った瞬間に窒息してしまう。縛られたら、きっと自分が壊れてしまう。だから最初から選ばない。ひとりでいることを、選ぶ。
それが――羨ましかった。怖いのに眩しくて、まぶたの裏が熱くなる。ひとりを選ぶ強さも、自由でいる痛みも、わたしにはどれも持てないのに。なのに、あの音はあんなにも伸びやかで、あんなにも真っ直ぐで。
「自由に演奏してたいだけ」。その言葉が波の音よりも深く、わたしに刺さった。カナデは、言い訳をしない。嫌なら嫌と言って、ひとりになることも受け入れて――その代わり、音だけは手放さない。
わたしは逆だ。嫌なことほど曖昧にして、笑って、やり過ごす。そうしていれば傷つかないと思っていたのに、結局いちばん息が苦しいのは、自分だった。
カナデは不器用だけど、真っ直ぐで、真剣で。こうでしかいられない自分を、ちゃんと知っている人なんだ。きっとわたしにはないものを、たくさん持っている人。
わたしの沈黙に気づいたのか、カナデがちらりとこちらを見た。
「ミナは何か、部活やってないの?」
答えようとして、声がつかえた。言いたくないわけじゃない。ただ自分のことを口に出すのが、なんだか急に恥ずかしくなった。
「わたしは……帰宅部。特にやりたいこともないし……何もできないし。人間関係とかも……大変そうだったから」
そう口に出した途端、自分が惨めに思えてしまった。カナデと違って何かに夢中になっているわけでもなく、逃げる理由ばかりを並べて生きている。そういう自分が、急に輪郭を持ってしまう。
カナデの隣にしゃがみ込んで、膝を抱えた。東京湾の水面が、思っていたよりもずっと綺麗に光っていた。太陽の反射で、水面がちらちらときらめいている。その光は、さっきのトランペットみたいで……ううん、カナデ自身みたいだった。
眩しくて、真っ直ぐで、触れるのが怖いのに――どうしようもなく、惹かれてしまう。そう思った瞬間、心の内から苦さが滲んできた。
わたしって、つまんないな。何もないくせに、すごい人に憧れてばかりで。行動する勇気もなくて、逃げる理由ばかりを作って。
どうしてこんなに、何も持っていないんだろう。自分でも呆れるくらいに、情けない。
胸の奥が重たくて、何も言えなくて。ため息だけが、自然と零れ落ちた。そのときだった。隣にいたカナデが、突然立ち上がった。わたしは思わず、顔を上げる。
カナデは金色のトランペットを片手に、もう片方の手を、わたしに差し出していた。一瞬、意味がわからなかった。
わたしも……立てってこと? こんなわたしに?
戸惑いながらも、そっと手を伸ばす。陽光を浴びるその指先に触れた瞬間――カナデの手が、わたしの手をぎゅっと握った。
思わず息が詰まる。握られた手から、あたたかさが伝わってくる。それは強くて、優しくて。さっきまで自分が嫌で仕方なかったことも、一瞬だけ、遠くに押しやられていく。
この人は、わたしなんかに手を差し伸べてくれるんだ。何もできないわたしに。逃げてばかりのわたしに。立ち上がろうとした身体と一緒に心まで、ぐらりと引っ張られた気がした。
「……ミナも、やってみなよ」
「え?」
反射的に漏れたわたしの声は、波の音にかき消された。カナデは立ち上がったわたしの目を、真っ直ぐに見つめていた。その瞳の色は、冗談でも、お遊びでもなくて――ただ、本気だった。
そして次の瞬間、カナデは両手でトランペットを持ち直し、まるで何かを託すように、わたしの胸元へ差し出してきた。
金色の光が太陽を跳ね返して、眩しくきらめく。それは、わたしにとって――世界でいちばん、遠いもの。触れることができないもの。それなのに今、それが、わたしの手の届くところにある。
鼓動が、跳ねる。




