第一話 金色の色と灰色のわたし(2)
交差点を抜けると、海沿いの大きな公園が見えてきた。防砂林が生い茂る朝の公園は、人の気配がない。潮の匂いが濃くなる。波の音が、遠くから近づいてくる。彼女は迷いなく、どんどん奥へ進んでいく。わたしは、胸の鼓動を持て余しながら――それでも、後ろを追っていった。
砂を含んだ風が、制服の裾を引っ張る。松林の影が長く伸びて、朝の光と暗さがまだらに地面に落ちていた。
――こんなところまで来て、知らない女の子を追いかけて、わたしは本当に、何をしているんだろう。こんなの、普段なら絶対にしないこと。気づかれたら、言い訳もできない。なのに、今だけはどうしても、見届けずにいられなかった。
あの人が、わたしの知らない何かを持っている気がして――。
わたしの足は止まらない。止まった瞬間に、全部が怖くなる気がした。追いかけてしまった自分も、ここまで来てしまった現実も。だから、考えないようにする。考えないふりをする。
彼女は振り返らない。自分の道を歩く背中は迷いがなくて、遠い。追いつけない距離じゃないのに、わたしはずっと追いつけない。
木々の間を抜けた先で、海が開ける。潮の匂いが一気に濃くなる。波の音が、もう遠くじゃなくなった。
砂浜だ。朝の砂はまだ冷たそうで、足跡がほとんどない。彼女はその砂を平然と踏み、浜辺の端へ向かって歩き続ける。防波堤が見えてきた。灰色のコンクリートが海に突き出していて、そこだけが別の世界の入口みたいだった。
彼女は軽そうなスクールバッグを放り投げ、防波堤に腰掛ける。座る動作すら迷いがない。そこが自分の居場所だと、最初から知っていたみたいだった。
わたしは咄嗟に、少し離れた岩場に身を潜めた。自分の身体が、思っていたよりも小刻みに震えていることに気がついた。怖い。近づきたい。逃げたい。全部の感情が、同時にある。胸の中が忙しすぎて、息の出し方がわからない。
彼女は背負っていたケースを地面に下ろし、留め具を外した。ぱちん、ぱちん、と乾いた音がする。開かれた蓋の内側から、光が現れた。金色の楽器。太陽の光を受けて、燦々と反射している。眩しくて、思わず目を細めた。
――トランペットだ。
映像や本の中では見たことがあるのに、こんなふうに誰かの手の中で見ると、まるで違うものに見えた。
彼女はその金色を、慣れた手つきで抱き上げた。だけど、それは大事なものを扱うときの手だった。それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。彼女は立ち上がりながら、無造作にヘッドホンを外す。潮風が、短い髪をふわりと持ち上げた。その動きに、思わず目を奪われる。
長く垂らしたスカートの裾が風に揺れ、すらりとした脚がのぞく。彼女はゆっくりと脚を開き、背筋を伸ばす。余計な力の入っていないその動きが、逆に目を奪うほどに自然で、かっこよかった。金色の楽器を持ったその姿は、制服を着ているのに――舞台に立っている人みたいだった。
彼女はまるで恋人に触れるように、トランペットに唇を寄せた。その仕草が静かで、美しすぎて、心臓が一度だけ大きく鳴った。
次の瞬間、澄んだ音が空気を切り裂いた。ひときわ高く、鋭く、どこまでも真っ直ぐで――それは音というよりも、光だった。
視界が一瞬、白く弾けた。鼓膜が震えると同時に、息の奥まで鋭い衝撃が突き刺さる。呼吸が止まる。いや、身体の奥の奥まで、全部が一気に掻き乱されたような、そんな衝撃だった。
金色のトランペットのベルが朝日に照らされ、強く跳ねる。矢のような一音が、水平線の向こうへと射抜かれるのが見えた気がした。
潮風さえ、一瞬だけ止まる。波の音が、ほんの一拍だけ遅れて戻ってくる。世界そのものが彼女の音に呑まれて、一度だけ息を止めたかのように。
彼女の立ち姿が、信じられないほど眩しかった。金色の光の中、風に舞う短い髪、揺れるスカート、そのすべてが、トランペットの音と一緒に動いている。わたしは、呼吸の仕方を忘れていた。
すごい。こんな演奏を、こんな場所で、こんなふうに。
胸の底が、熱く震える。感動、という言葉だけじゃ足りなかった。それはもっと乱暴で、もっと生々しい何か。音が胸を打った瞬間、なにかが剥がれた。熱を持った衝撃が、平気なふりをしていた殻を割っていく。
――この音は、わたしの灰色を壊していく。
どうして、こんなにも胸を打つんだろう。痛い。わたしなんかとは、全然違う。手が届かない。見上げるしかない。それなのに、目を逸らせない。
彼女の最後の音が、空に溶けて消えた。静けさが戻ってくる。波の音が、遅れて自分の存在を思い出したみたいに聞こえ始める。
その瞬間、気づけばわたしは立ち上がっていた。そして――拍手をしていた。ぱちぱちと控えめな音が、海に吸われていく。
拍手なんて、するつもりじゃなかった。なのに――それは、心の底に積もっていた何かが、勝手に形を持って飛び出してしまったみたいで。
あの音は、わたしを逃げられない場所に縫いつける針のようだった。頬が熱い。指先が熱い。まるで雷に打たれた直後のような、身体の芯からの痺れ。胸の中心が、まだびりびりとしている。音の余韻が、神経に焼きついて離れない。
「……えっ?」
その拍手に気づいて、彼女が振り向く。金色の楽器を手にしたまま、目を丸くしてわたしを見た。黒い瞳が真っ直ぐわたしを捉えた瞬間、全身がびくりと跳ねた。息が詰まり、口の中がからからに乾いていく。
――見つかった。逃げなきゃ。そう思ったのに、どうしても目を逸らせなかった。怖いのに、身体が動かない。見透かされた気がした。隠していたはずの衝動も、ここまで来てしまった事実も、ぜんぶ。
頭が真っ白になって、全身の血が一気に沸騰したみたいだった。喉がひりつく。まぶたの裏が、じんわり熱い。掌が湿って、心臓がうるさい。目が潤んでいるのか、揺れているのか、自分でもわからない。とにかく、顔が熱くて仕方なかった。
「あっ、あの……」
声が上ずる。言葉が散らばる。拾い集めようとすればするほど、ばらばらになる。恥ずかしさで泣きそうで、でも、どうしても伝えたくて――。
「あまりにも素敵な演奏だったから、聴き入ってしまって……! えっ、ええと……ご、ごめんなさい……!」
言葉の選び方を間違えた気がして、思わず頭を下げた。でも違う、わたしは謝りたいわけじゃない。本当は――あなたの音を聴けてよかったって、それだけを伝えたかったのに。
目を閉じたままの時間が、とても長く感じられた。怒られるかもしれない、何かを言われるかもしれない。わたしの中で後悔と不安がせめぎ合っていた、そのときだった。
「ははっ……そんな、緊張しすぎじゃない? がっちがちじゃん」
思っていたよりもずっと軽い声が、海風に乗って届いた。おそるおそる顔を上げると、彼女が笑っていた。お腹を抱えるように、あたたかく、肩を震わせながら。さっきまでの凛とした演奏の姿とは、まるで違う。あの音を出していた人と同じだとは信じられないくらい、彼女の表情はころころ変わる。その笑顔は、ずるいくらいに優しかった。
――同じ人なのに。
彼女は笑いながら、わたしとの距離を縮めてくる。近い。反射的に後ずさりそうになったのに、足が固まって動かなかった。
「っていうかさ……君、すごいね。私の後を、こっそりつけてきたんでしょ?」
「……えっ」
「バレバレだって。後ろから、なんか視線感じるなーと思ってたんだよね……。まさか、ついてくるとは思わなかったよ」
その言葉に、空気が一瞬で沸騰する。恥ずかしさのせいなのか、視界がじわりと滲んだ。だけど彼女は怒った様子もなく、目尻に溜まった涙を拭いながら、トランペットのベルをわたしの身体に控えめに当てた。金属の冷たさが制服越しに伝わって、身体が震えた。
「君も変わってるね。……演奏、聴いてくれてありがとう。まだ練習中だから、あんまり上手くなかったと思うけど」
その軽い言葉に、胸がざわついた。
――そんなこと、ない。だって、さっきの音は、あんなにも。
「ぜ、全然そんなことありません!」
思わず、わたしの声が大きくなった。その声に驚いたように、彼女が目を見開く。
「……本当に、すごかったです。キラキラしてて、まぶしくて……すごく、かっこよかったんです……! わたし……初めて、あんなふうに音を聴いて、こんな気持ちになって……」
そう言っている自分が、一番驚いていた。気づいたら、胸の奥から言葉が次々に飛び出していて――取り繕う暇なんて、ない。
「あのっ、だから……ほんとに、すてきでした……」
声が震える。目が熱い。それでも、伝えたかった。あの音を、否定されたくなんてない。だって、それは――わたしの世界を変えた音だったから。
「……大げさじゃない? 照れるんだけど。でも、まあ……私にはこれしか無いからね。ありがとう」
彼女は頬を掻いてそう言うと、何かを振り払うように視線を逸らした。その横顔は、演奏していたときの自信とは違う。遠くを見ているみたいで――触れてはいけないような痛みを、少しだけ含んでいた。
わたしの身体は、まだ熱を持っている。音の余韻が、胸の中に張りついたまま離れない。
彼女は、どうしてこんなにも眩しいんだろう。本当に、わたしと同じ高校生なんだろうか。それはもっと遠くて、もっと自由な存在に見えた。
彼女の姿をぼんやりと眺めていると、ふいに視線が交わった。真っ直ぐに向けられた大きな瞳が、わたしの中をするすると覗いてくる。彼女の視線が、わたしの表面をゆっくりと――まるで筆で撫でるみたいに――なぞっていく。
隠していたはずの傷が、そこだけ白く浮かび上がるみたいだった。呼吸が止まった。指先が、かすかに震えた。このままじゃ、全部がばれてしまう。平気なふりも、普通のふりも。だから慌てて、視線を逸らす。その瞬間だった。
「君は……一年生? こんな時間にここにいるなんて、サボりだね」
彼女が言った突然の指摘に、心臓が跳ねた。図星だった。なのにわたしは、何も言えない。ただ肩がびくりと揺れて、視線が宙を彷徨う。
まさか、サボっている自覚すらなさそうな彼女に、そんなことを言われるなんて。言い返したくても、言葉が喉元で詰まって出てこなかった。呼吸の仕方まで忘れてしまったみたいで、口が乾いていく。
彼女はそんなわたしの様子を見て、くすっと笑った。唇の隙間から覗く白い歯が、いたずらっぽく光っていた。
「大丈夫。私も一年だし、すごいサボってるから。仲間だね」
その無邪気な笑顔に、やっとほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩んでいく。
「えっ。一年なんですか……?」
やっとの思いで返した声は、自分でも情けないほど小さかった。
「一年C組、松波奏」
――松波奏。その名前が、脳内で何度も反響する。クラスメイトの名前をまだほとんど覚えていないわたしが、全く接点のないC組の彼女のことなんて、知らなくて当然だ。わたしは俯いたまま、彼女に視線を移す。
さっきまで知らなかった存在に、音が宿った。それだけで、その人がぐっと近くに感じられる。でも、同時に――名前を知ってしまったことが、少しだけ怖かった。こんな子……これから、忘れられなくなる気がしてしまって。堂々とした彼女の立ち姿は、どこまでも自由で、大きく見えた。
「一年G組の春日美奈で……す」
同じ学年の相手に敬語を使うのも変だし、かといって砕けた口調は、緊張して無理で。わたしの声は、相変わらず頼りなく揺れていた。そんなわたしを見て、松波奏は軽く笑った。




