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第一話 金色の色と灰色のわたし(1)

 改札を抜けた瞬間、頭上で明るい発車メロディが鳴り始めた。


――間に合わない。


 身体が「急げ」と言うより先に、心が「もういいや」と言ってしまう。茶色いローファーは勝手に速度を落としていて、ホームへ向かう人の波に置いていかれる。八時七分。逃したのは電車じゃなくて、今日という一日のリズムだった。


 鉛色の階段をゆっくりと上り、一段ごとに、脚が重たくなっていく。空が晴れていても、世界は妙に白かった。蛍光灯の光を浴びているみたいに、すべてが無機質で、色の温度がない。


 すれ違う学生たちは談笑しながら、迷いなく前へ進んでいく。笑い声がぶつかり合って、輪になって、膨らんでいく。その輪の外側を歩くたび、肩がすぼむ。視線が向く前に、自分から先に消えたくなった。


 ホームに出ると、ひんやりした朝の空気が肌を撫でる。眠たげな太陽の光が線みたいに差していて、わたしは古びた黄色いベンチに腰掛けた。二回折ったスカートの下、冷たいプラスチックの感触が太ももに伝わって、現実だけがやけに鮮明だった。


 次の電車まで、十分。だけど、その十分が長い。考えたくないことほど浮かぶから、スマートフォンの光に逃げた。けれど、画面を開いた途端、心臓がきゅっと縮んだ。


 教室に姿を見せないわたしを気にかけてくれる、クラスメイトからの連絡。画面に浮かぶ吹き出しを見つめて、指が止まった。


 きっと、心配してくれている。それでも、その「きっと」の中に踏み込むのが、怖い。もし違ったら? 気を遣わせているだけだったら? 考えすぎかもしれないのに、それを確かめる勇気も、わたしにはない。


 打ち込んだ返事を、何度も見直しては打ち直す。無難な遅刻の言い訳。いつもの猫の『ごめんね』スタンプ。それを躊躇いながらも、送信した。すぐに既読がついて、『了解!』のスタンプが返ってくる。


 会話は、そこで終わった。わたしの不安も、戸惑いも、ぜんぶ「了解」のひと言で、あっさり閉じられてしまう。そういうものだ。メッセージのやり取りなんて、たいていはそれで終わるのに。


 なのにどうして、こんなにも虚しいんだろう。


 スマートフォンの画面を伏せて、学生鞄にしまい込む。大丈夫。きっと今日も、うまくやれる。たまたま同じクラスになって、なんとなく入れてもらったグループ。移動教室も昼休みも一緒で、誰かの話に笑って――笑っているふりをして。周りから浮かないように、みんなに置いていかれないように。


 その輪の中にいれば、わたしはきっと「普通」に見える。


 合わせてさえいれば、気にされることもない。ひとりでいたら、目立つから。笑われたり、同情されたり、それが怖くて――わたしはただ空気みたいに、輪郭をぼかしてそこにいる。


 知り合ってもうすぐ、三ヶ月。毎日顔を合わせて、毎日言葉を交わしているのに、彼女たちのことはまだよくわからない。わからないのに、わかったふりだけうまくなる。笑うタイミングも、頷き方も、相槌も。どれも、自分のものじゃないみたい。でもそれが、わたしの学校での在り方になっていた。


 今年は、こんな関係が続くんだろう。そして学年が変わった瞬間、その絆は緩く結ばれた糸のように――はらはらと解けてしまうんだろう。


 春が来るたびに、同じことを繰り返す。適当に紡いで、適当に切れて、また紡ぐ。わたしの人生の人間関係なんて――たぶんずっと、そんなことの繰り返しだ。


 ホームに滑り込んできた八時十七分の電車に乗り込み、高校の最寄り駅でちゃんと下車する。ラッシュを過ぎた駅は息を整えたみたいに静かで、普段は学生で溢れるバス停前も、今日はお年寄りが数人ぽつぽつ立っているだけだった。


 バスがロータリーに到着して、扉が開く。わたしは後ろの二人席に座って、鞄を隣に置いた。その静けさに――ひとつだけ、音のない異質な気配があった。車内の空気がそこだけ張った気がして、顔を上げる。心臓が一拍、遅れて鳴った。


 中扉にもたれかかるように立っていたのは、同じ制服を着た女の子だった。学年までは、わからない。だけど、なぜだろう。同じ服のはずなのに、世界の輪郭が違って見えた。


 引っかけただけのブレザーと、緩いネクタイ。耳には大きなヘッドホン。だらんと垂れた腕が、小さくリズムを刻んでいる。まるで、外の時間とは別のテンポで生きているようだった。


 凛とした黒いショートカットが、朝の光をさらりと受け流し、その背に――黒くて艶のある、プラスチックのケースが見えた。中身に合わせて少しだけ膨らんでいて、それが楽器だと、なぜだかはっきりとわかる。


――楽器だ。楽器を、背負っている。


 それだけで、その子の存在が急に強くなる。浮かび上がって、光を反射して、ひとつの完成された存在みたいに見えた。


 わたしとは、まるで正反対だった。


 わたしは、何も持っていない。ただ合わせて、笑っているふりをして、ひとりにならないように気配を薄めているだけ。


 でも、彼女は――何かを持っている。もう最初から、自分の芯を持っているような顔をしている。その締まった表情は、誰かに合わせたり、空気を読んだり、輪の中に入ったり――そんなもの、最初から選択肢にないみたいで。


 どうして。同じ制服なのに。


 目を背けたいのに、逸らせない。見ているだけで、わたしの嘘が浮いてくる。毎日、丁寧に貼りつけていた平気なふりが、じわじわと剥がされていくような感覚だった。


 バスが静かに発車した。エンジン音とタイヤが地面を撫でる音の中、彼女は吊り革も持たず、この揺れすら自分の音楽にしてしまうみたいに身体を揺らしていた。


……なんだか、自由だ。光そのものみたいに、強い。まぶしい。


 わたしは窓の外に視線を逃がして、だけどすぐに戻してしまう。見ないようにしても、意識が彼女に引っ張られる。心臓が、変な鳴り方をしていた。


 高校前のバス停が近づく。潮の匂いが、車内にまで忍び込んできた。海が近い街の朝の匂い。わたしの生活の匂い。いつもと同じはずの匂いが、今日は少しだけ違って感じる。


 バスが停まり、扉が開く。降りたのは――わたしと、その子だけだった。


 彼女は迷いなく地面に降りると、校門の先にある校舎をちらりと一瞥した。その視線は、学校そのものを確認するみたいで――次の瞬間、彼女は大きくひとつ、あくびをした。そして当たり前のように、校門の前を通り過ぎていく。


「えっ……」


 声が出たのかどうか、自分でもわからない。それに彼女は、振り返りもしない。最初からそこへ行くと決めていた人みたいに、淡々と歩道を進んでいく。ほどけかけたスニーカーの靴紐が地面を擦るたび、かすかなリズムが生まれていた。


 高校の入り口は、こっちなのに。そんなこと、わかっていないはずがない。わかっていて、あえて。


 心臓が、小さく跳ねた。それは好奇心なのか、羨望なのか、反発なのか――正体がわからない。なのに、心だけが先に反応してしまう。


 彼女の背中は、妙に堂々としていた。悪いことをしている、という気配すらない。ただ、そこに自分の道があるから歩いている、みたいな後ろ姿だった。


 わたしは校門の前で、ふと足を止める。ここから先は、戻れる。いつものように頷いて、いつものように笑って――「普通」を再開できる。また今日も、同じ一日が始まる。そう思っていた、のに。


 それを想像した瞬間、胸の中がすっと冷えた。


 今さら教室に入ったところで、どうせ怒られる。授業なんて、とうに始まっている。走っても、もう何にも間に合わない。


 それに、今日のわたしは――朝からずっと、うまくやることに疲れている。


 一瞬、頭の中にクラスメイトの吹き出しがよぎった。『了解!』のスタンプ。あの軽さ。あの便利さ。あの、何も残らないやり取り。


 違う。なんか、違う。わたしは、何をしているんだろう。


 今日もまた、同じ教室に座って、同じ顔をして、同じふりをして。無難な顔のまま、帰りのチャイムを待つ。そんな一日を、あと何百回繰り返したらいいんだろう。そんな人生の先に、何が残っているんだろう。


 校門の先に、先生の姿がちらりと見える。視線が合ったら、声を掛けられたら、終わる。わたしは反射的に、視線を逸らした。


 そのタイミングで、歩き続けていた彼女が楽器ケースを背負ったまま、ネクタイを外した。躊躇いがない。周りを気にする気配もない。続けて器用に藍色のブレザーを脱いで、ぐしゃっとスクールバッグに押し込んだ。制服が皺になるのを、彼女は見もしない。


 学校の色が、彼女の身体から落ちていく。悪いことをしている人の動きじゃない。最初から、縛られていない人の動きだった。


 きっと、サボりの常習犯だ。そう思う。思うのに――嫌悪より先に、妙な憧れが来る。


 あんなこと、わたしにはできない。絶対にできない。だから、見てしまう。見届けたくなる。


――気づけば、わたしの足が勝手に動いていた。


 それは好奇心というには熱すぎて、反抗というには弱すぎる。でも、胸の奥から押し出されるような衝動が、わたしをただ前へと運んでいく。


――どこに行くんだろう。


 一定の距離を保って、そろり、そろりと、彼女の背中を追いかける。


 こんなこと、本当にしてもいいのかな。だって、ただでさえ遅刻してるのに。サボりの子のあとをつけるなんて――しかも、名前さえ知らないのに。絶対変だ。やめたほうがいい。そう頭の中で声がしても、足が止まってくれなかった。


 近づきすぎたら怖い。離れすぎたら見失う。その狭い間で、わたしはただ息を潜める。まるで、知らない物語のページを、こっそりめくるみたいだった。


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