第八話 君を追いかける夏(2)
受付には先ほどの男性店員と店長が並んでおり、何やら雑談をしている様子だった。顔見知りの店長がいて、少しだけ安心する。店長もわたしに気付き、気さくに話しかけてきた。
「美奈ちゃん、練習に来てたんだね。お疲れ様。今日奏ちゃんはいないの?」
「はい。一人で、練習しておこうかなと思って……」
「そうかあ、偉いねえ」と店長が頷いていると、隣に立っていた男性店員が途端に訝しんだようにわたしを見る。視線が交わり、心臓が大きく跳ね上がった。
「えっ、この子……奏の友達なんですか?」
「あれ、律くんは会うの初めてだっけ」
男性からカナデの名前が出て、わたしは目を瞬かせた。カナデの知り合い? 彼は前髪の向こうから、撫でるようにわたしを観察する。それがなんだか居心地悪く、身体が硬直してしまう。
「この子は、奏ちゃんのお兄さんの律くん。で、こちらが美奈ちゃん。奏ちゃんから楽器を教わってるんだって」
わたしの気まずそうな様子に気付いたのか、店長が慌てて隣の男性を紹介する。カナデのお兄さん? そういえば、カナデは以前お兄さんがこのカラオケで深夜にバイトをしていると言っていた。お兄さんは頬をかいて、困ったように笑った。
「どうも、奏の兄の松波律です。……奏が、お世話になってるみたいで」
「い、いえ。春日美奈です。わたしこそ、いつも奏さんに面倒を見てもらっていて……」
カナデのお兄さんと聞いて、変に緊張してしまう。少しだけ声が震えていて、そんなわたしをお兄さんは前髪の向こうから優しく見つめていた。
「律くんは大学一年生だっけ。医学部に通ってるんだよね。いつもは夜入ってくれるんだけど、夏休みだからって日中も入ってくれてるの」
「まあ、新しいギターも欲しいですし、家に防音室も欲しいんすよ。だから稼がないと」
店長とお兄さんの会話を聞きながら、余計驚く。医学部? それに、ギター。松波家の血筋は、優秀な人が多いのだろうか。カナデの優れている部分に納得して、わたしはつい頷いてしまう。
「……えーと、美奈ちゃん? 奏に楽器教わってるって言ってたけど……大丈夫?」
話がいったん落ち着くと、お兄さんはわたしを見つめたまま首を傾げた。“大丈夫?”――その言葉に目を瞬かすと、彼は一つ息を吐いた。
「奏……アイツ自分勝手で押し強いし、迷惑だったらちゃんと言うんだよ。俺に言ってくれたっていい。昔から、自分が正しいと思ったら、突っ走る奴だから……。ていうか、それもよく見たら、奏が使ってた楽器じゃないか……」
お兄さんはわたしの楽器ケースに視線を移し、頭を抱える。「部活入ってないと思ったら、そんなことやってたのかよ……」と呟き、真面目な顔をして向き直った。髪の毛で隠れているけれど、凛とした顔立ちは、どこかカナデに似ている気がした。
「……奏の自己満足に、美奈ちゃんが無理に付き合う必要はない。美奈ちゃんは、奏なんか気にしないで……自分のやりたいことをやって、いいんだからね」
お兄さんは静かにそう呟き、真っ直ぐにわたしを見つめていた。カナデに似た真っ黒な瞳に捕まってしまい、身体が動かせなくなる。“奏の自己満足”――確かに、出会った当初のカナデは押しが強かったし、拒み続けても、わたしに勝手に期待を押しつけて……やってみなよと言い続けた。でも、カナデがわたしに期待をしてくれていることが、本当は嬉しかった。それに、カナデのおかげで――今のわたしがいる。わたしは一度だけ視線を落とし、意を決して顔を上げた。
「……お兄さん。わたし、カナデに無理に付き合ってるとか……そんなことは、ありません。カナデは、わたしに……居場所をくれたんです。カナデが楽器を教えてくれなかったら、わたし、何もなかった……。だから、わたし……自分で選んで、カナデの隣にいます。そして、これからも……一緒にいたいって、思ってます」
お兄さんの真剣な瞳を反射させるように、わたしも彼に向き直った。楽器ケースを持つ手に力が入り、じんわりと汗ばんでいる。そんなわたしを見て、お兄さんは細く息を吐いた。
「……美奈ちゃんも、良い子だなあ。ははっ。そうかい。これからも奏のこと……よろしく頼むよ」
苦笑したついでに、お兄さんのサラサラとした髪が揺れる。カナデに面倒を見てもらっているのはわたしの方なんだけどなあと思いながら、こちらこそなんて言ってしまう。カナデは以前、お兄さんには絶対会わせたくないと言っていたけれど……優しくて、良いお兄さんだと思った。