第七話 文化祭と胸のざわめき(8)
演奏会が終わって、出口付近で若葉と日菜子と合流した。ふたりとも目を輝かせながら「すごかったね〜!」と何度も顔を見合わせていて、余韻の中で自然と笑顔が溢れていた。
「……さて! いい頃合いだけど、お三方まだ時間あります? ちょっと寄り道してから帰らないー?」
四人で並んで会場を後にしていると、突然若葉が手を打って提案した。時計を確認すると、二時を過ぎた頃。校内はもうだいぶ回ったから、学外での寄り道を提案しているようだった。特に予定も無かったので了承すると、日菜子とカナデも頷いた。
向かった先は駅前のカフェだった。正直、若葉とカフェのイメージがあまり結びつかなくて意外だったけれど、「ほら、スワークルってやつ? 飲んでみたくて〜」と看板の写真を指差す様子が、なんだか妙に可愛らしかった。
若葉は柑橘系のスワークル、日菜子はココアラテ、カナデはカフェラテを迷いなく注文した。皆がすらすらと選んでいく中で、わたしだけがメニューを前にしどろもどろになってしまう。ええと……苦いのはちょっと苦手だし……どうしよう。
「ミナ。苦いのが嫌なら、モカマキアートとかでいいんじゃない? 甘そうだけど」
カナデが横からさらっと助けてくれて、ちょっと救われた気がした。じゃあ、それで。年齢は同じはずなのに、なんでみんなこんなに落ち着いてるんだろう……。わたしだけが子どもみたいで、少しだけ恥ずかしかった。
店内奥の二人席がふたつ空いていて、自然とカナデがわたしの隣に座ってくれる。着席するなり若葉が勢いよくストローを吸い込み、ひととおり飲んで満足したのか口を開いた。
「……それでさ、日菜子氏がなんだか元気ない理由はなんだい? 言ってみな?」
「ええっ? わ、私?」
いきなり名指しされた日菜子が、目を丸くして固まる。その顔を見て、わたしも一瞬どきりとする。やっぱり、若葉も気づいていたんだ。ふざけているようで、ちゃんと見ている。声をかけられなかったわたしより、ずっと人間ができている気がして――ちょっと悔しいような、尊敬するような、不思議な気持ちになった。
「文化祭の途中から、なんかしょんぼりしてないー? 朝は元気だったのにさ」
若葉の指摘に、日菜子は観念したように視線を落とし、ココアラテに口をつける。
「……ううん、大したことじゃないの。ただ、蒼ちゃんが学校の子と仲良くしてるの見て……私の知らない世界があるんだなあって、実感しちゃって。当たり前なのにね。でも、なんだろう。……疎外感? ていうか、ヤキモチ? なのかなあ。……心配かけちゃって、ごめんね」
ぽつりぽつりと零す言葉に、ふるふると微かに震える声が混じる。繊細なラメが瞬く目元が、涙を隠すように伏せられた。
その気持ち、わかる――そう思っていた。
わたしも、同じ気持ちを抱いたことがある。いや、抱いている。カナデと、わたしの知らない誰かとの時間。わたしの知らない場所で共有されていた、思い出や感情。仕方ないことだと、頭ではわかっている。でも、どうしても心が泡立つように落ち着かない。
羨ましくて、怖くて、少しだけ、妬ましくて。
わたしはこの気持ちを、いつまで見て見ぬふりをしていくんだろう。目を逸らすたびに、それはじわじわと重くなっていくのに――。
「なるほどねん? 日菜子氏はつまり……蒼氏の全てを把握したい系なの?」
「うーん……? そうなのかなあ。あと、蒼ちゃんの周り、可愛い子ばっかりで……」
日菜子はスプーンでラテの泡をいじりながら、ぽつりとこぼした。
「特に、あの、お姫様をやってた……松波さんと美奈ちゃんの友達の子。可愛いし、優しそうだし、演奏もすごかったし……。あんな子が毎日学校で隣にいるんだと思うと、なんだか自信なくしちゃう」
そう言って笑った日菜子は、着ているワンピースに負けないくらい、ちゃんと可愛い。でも、そんな彼女でさえ劣等感に囚われてしまうのかと思うと――わたしは、なんだか胸が詰まった。テーブルの縁を見つめて、マグカップを指先でなぞりながら、わたしは呟く。
「……ほのかさんをすごいと思っちゃう気持ちは、すごくよくわかるよ……。だけど、日菜子ちゃんは蒼さんの恋人だし……もっと自信持っても、いいんじゃないかな……?」
わたしの口から出た言葉は、本心だった。日菜子は蒼の「恋人」だ。どう考えたって、その関係にほのかが入り込む余地はないだろう。むしろ、ほのかは……そこまで思ったところで、考えるのを止めた。
「そうだね。ほのかは部活馬鹿みたいなところがあるから、恋愛とかは興味ないと思うよ。ていうか……何? ミナもほのかに対して、引け目みたいなの感じてるの?」
カナデがコーヒーのカップ越しに、どこか呆れたようにこちらを覗き込む。驚いて目が合って、わたしは慌てて視界をずらした。
「あ……あんなにすごい子に出会っちゃうと、自分がちょっと……ちっぽけに思えちゃうの……!」
「わ、美奈ちゃんの気持ち、すごいよくわかる……!」
わたしと日菜子のネガティブ二人組が目を合わせていると、カナデは困ったように息を吐く。若葉も「そんなもんかねー?」と言いながらスワークルを飲んでいるので、共感してはいなさそうだった。
「ミナはミナだし、轟さんは轟さんじゃん。それぞれ良いところがあるんだし、気にしなくて良いと思うけど」
カフェラテを啜りながら、カナデはさらりと述べる。その何気ない言葉に、喉の奥がきゅっと詰まった。
ねえ、カナデ。もし、わたしとほのか、どっちかを選べって言われたら――どっちを選ぶの? そんなの聞けるわけがないけれど、頭の中でだけ問いかけてしまう。ほのかの方が全てにおいて優っているのだから、わたしを選ぶ理由なんて……ないに決まっている。もし、あの子がカナデの隣に戻ってくる日が来たら――わたしは、笑っていられるのかな。
わたしが黙り込んでいるその前で、日菜子がそっと顔を上げて微笑んだ。
「うん……松波さんと美奈ちゃんの言うとおりだよね。私は蒼ちゃんの恋人で、蒼ちゃんは他の子じゃなくて私を選んでくれたんだから……。それを信じなきゃ、ダメだよね」
――そう。日菜子には、選ばれたという確かな実感がある。でも、わたしは? 日菜子と蒼には恋人っていう絆があるけれど、わたしとカナデはどうなんだろう。選ばれるって、どういうことなんだろう。ただの友達なのに、胸を締め付けるこの気持ちは何なんだろう。それは友人に向けるには――あまりにも大き過ぎるものではないだろうか。
カナデがすすめてくれたモカマキアートを、一口飲む。ほんのり甘いチョコレートの香りが鼻をくすぐり、苦みをやわらげてくれた。けれど、心の中のざわめきまでは消えてくれない。
指先でカップを撫でて、ふと視線を横にやる。カナデの白い手が、テーブルの端に置かれていた。いつか、わたしを引っ張り上げてくれた手。いつも、わたしにトランペットを教えてくれる手。あの手に、誰かが触れる日が来るのかもしれない。わたしじゃない誰かが、あの手を握るのかもしれない。
カップの底でチョコレートがゆっくり溶けていくみたいに、わたしのこの気持ちも――いつか、静かに、混ざってくれる日が来るのかな。それを願いながら、もう一口、温かい甘さを口に運んだ。




