第七話 文化祭と胸のざわめき(4)
***
土曜日、待ち合わせの十分前に駅に着くと、改札前で若葉がスマートフォンをいじりながら立っていた。
「お、美奈氏が二番手か。おはよ~」
わたしに気づいた若葉が、とことこと近寄ってくる。その小柄な体と童顔の組み合わせは、相変わらず小動物みたいで、なんだかハムスターを連想してしまう。初めて見る私服は、Tシャツにショートパンツという軽装で、正直――下手をしたら、小学生でも通用してしまいそうだった。そんな若葉と他愛無い話をしていると、「ふたりとも~!」と明るく澄んだ声が響く。振り返ると、日菜子が小走りでやって来ていた。
ふんわりと揺れる三つ編みに、花飾りのついた麦わら帽子。マリンテイストのワンピースには細かなフリルがあしらわれていて、足元はリボンのついた白いサンダル。
「うおっ……」
日菜子を見た瞬間、若葉がぎゅっと目を細める。大げさに見える反応だけど、ちょっとわかるかもしれない。そんなことを、ふと思う。光が眩しいとかじゃなくて――日菜子の存在そのものが、きらきらと光を放っていた。可愛すぎる。日菜子のその姿は、何かのポスターにそのまま使えそうな、完璧なお出かけスタイルだった。
無意識に、自分のワンピースに目を落とす。これも可愛いと思って選んだはずなのに、日菜子の姿を前にすると、どうにも霞んで見えてしまった。
「美奈氏……これが、恋する乙女のパワーか……」
「ほんとにね……」
若葉とこそこそ話していると、隣に並んだ日菜子がきょとんと首を傾げた。そんな仕草すら、抜かりなく可愛い。恋をすると、人はこんなにも可愛くなれるんだろうか。つい言葉を失っていると、日菜子が柔らかく微笑んだ。
「若葉ちゃんも、美奈ちゃんも。今日は付き合ってくれてありがとう」
その笑顔が、眩しいくらいに輝いていた。目元にうっすら光るラメ、きらっとしたまぶたの質感、香る甘い匂い――どうやら、薄くメイクもしているみたいだった。
日菜子の姿は、どこからどう見ても恋する女の子で――まるで、今日という日を大切な物語にするために、全力で準備してきた感じだった。そんな日菜子にぼんやり見とれていると、改札の向こうから、見慣れた姿が歩いてくるのが見えた。
――カナデ。
モノトーンのシャツに、くたっとしたリュック。いつも通りの、飾らない服装。その変わらなさに、妙に安心してしまった。
だけど次の瞬間、ふいに息が止まっていた。こちらに気づいたカナデが、片手を挙げて近づいてくる。その動作だけで、景色の彩度が変わってしまうようだった。
「やっぱり、松波さんってかっこいいよね……」
ぽつりと日菜子が囁いて、そっとわたしの耳元に顔を寄せてくる。
「……美奈ちゃんと、お似合いだと思うよ」
その言葉に、心臓が跳ねた。それはどきり、じゃない。ぐさり、だ。まるで、わたしが言葉にする前に、勝手に形だけ決められていくみたいで――それがなんだか、怖い。くすぐったい。逃げ場がない。
もしかして、このふたり……最初からわたしとカナデの関係を、ちょっと面白がってるんじゃないの? そう思っても、反論する気にはなれなかった。日菜子の眩しさの前では、なんだか自分の感情さえも、ぼやけて見えてしまう。
駅から少し歩くと、閑静な住宅街の一角に東高が姿を現す。わたしは偏差値が届かない時点で選択肢にも入っていなかったから、訪れるのは初めてだった。先頭を日菜子と若葉、その後ろをカナデとわたしが並んで歩く。
日菜子は何度か来たことがあるらしく、道に迷う気配もない。カナデも、かつて志望していたのなら、行ったことがあるのかもしれない。
「……でもさ、松波奏って頭良いんだから、東高余裕だったでしょ?」
前を歩く若葉が、ひょいと後ろを振り返って、さらりとそんなことを口にする。事情を知らなくても物怖じせず、ズバズバ何でも言えるのが、若葉らしいといえば若葉らしい。でも――この件だけは、わたしの中でまだ生々しかった。
「ああ……最初は志望してたんだけど、出席日数が引っかかりそうで。それで海浜に変えたんだよね」
カナデは何も気にした様子もなく、あっけらかんと答える。わたしは思わず隣のカナデの表情を盗み見たけれど、そこには笑顔があった。
「東は確かに欠席多いと、調査対象になるって聞いたことあるわー、流石エリート校だよね~。ていうか、松波奏って中学からサボり魔だったんだね!」
何も知らない若葉は、軽い調子で笑う。カナデは気を悪くした様子も見せず、合わせて笑顔を見せていた。
「まあ、松波奏が海浜を受けてくれたおかげで、今こうして一緒にいられる訳だしね! 悪くなかったっしょ?」
白い歯を見せて振り向く若葉の笑顔は、なんの打算もない――ただの好意と肯定。それを受けたカナデも、目を細めて柔らかく笑っていた。
そんなふたりを見て、なんだか少し、羨ましくなった。どこまでも素直で、裏表のない若葉――わたしはカナデの前で、そんなふうに笑えているだろうか。
「……海浜に来たおかげで、ミナにも会えたしね」
ふいにカナデが近づいてきて、耳元でぽそりと呟かれた。カナデの吐息とともに落とされたその一言は、髪をふわっと揺らし、心臓を一発で撃ち抜いてきた。息が止まる。一瞬で耳まで熱を持ったのが、自分でもわかった。慌てて横を見ると、カナデはお腹を抱えて声も出せずに笑っていた。
「……ちょっと! もう、カナデ! 何するの……!」
「いや……こないだ遊びに行った時、ミナって照れ屋なんだなあって思って……。はは……やっぱり真っ赤。照れすぎでしょ」
「えっ……! カナデは……すぐそうやって人をからかって! ひどい!」
声が、自分でも驚くほど揺れていた。からかわれているのはわかっているのに、どうしてこんなに、心が騒がしいんだろう。わたしの反応が面白いのか、カナデは目元に涙を浮かべて笑い続けている。
「ははっ……ごめんって。はー……おもしろ。でも本当に、海浜に来て……ミナと仲良くなれて、良かったって思ってるよ」
涙を拭いながらカナデが言ったその言葉は、不意打ちだった。さっきまで茶化していた人が、急に真剣な声でそんなこと言うなんて。心臓が――止まりそうになる。視界がぐらりと揺れた。わたしの中だけ、時間が止まったみたいだった。
だけど、なんとか意識を戻して――唇を震わせながら、やっとの思いで言葉を零す。
「わたしも……カナデに会えて、良かったって……思ってるから……」
反撃のつもりで絞り出すように言うと、カナデが柔らかくわたしを見た。その瞬間、わたしの顔は熱でぐつぐつと沸騰し始めて――頬を押さえて顔を背けた。
「おっ、美奈氏がめっちゃ照れてる。松波奏と一緒だと、そういう反応するんだー。……やっぱ今日、松波奏を誘って正解だったな」
にやりと笑いながら、若葉が唐突に振り返る。その表情は、からかい以外の何ものでもない。日菜子も口元に手を当てて、くすくすと微笑んでいた。
……三人の表情は、完全に楽しんでいる。わたしが照れているのを、心底面白がっている顔だった。
「もう……本当にやめて……!」
羞恥に堪えきれず、わたしは隣にいたカナデの肩をぺしんと叩いた。その手応えに、さらに頬が熱を帯びていく。だけど――胸の中では、別の感情が渦巻いていた。だってこの後、カナデとほのかが、また会うかもしれない。そのことがずっと、わたしの中では燻っている。




