第七話 文化祭と胸のざわめき(3)
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海浜高校は海辺にあるせいか、どこか船のような造りをしている。二階がメインフロアになっていて、わたしたち一年生の教室は最上階の四階にある。放課後、部活へ向かう若葉と日菜子を見送って、わたしはひとりで教室に残った。冷房の止まった教室は、どこかむわっとしていて、息が詰まりそうだった。
スマートフォンをいじるふりをしながら、時間をつぶす。特に興味もないニュースサイトをだらだらとスクロールしていたら、有名芸能人の結婚速報が目に入った。
――結婚、ねえ。
胸のどこかが、ひどく冷めたように反応した。どうでもいい。わたしには何の関係もない。でも、きっとこのニュースは、誰かにとっては人生が変わるレベルの大事件なのだろう。そんなことをぼんやり考えている自分が、どこか他人みたいに思えた。
頬杖をついたまま、顔を伏せる。でも、そろそろ約束の時間だった。スマートフォンの画面を消して、席を立つ。カナデの用事も、そろそろ終わっている頃だろう。
ガラス張りの階段を下りると、昇降口の向こう、靴箱にもたれかかるシルエットが目に入った。その姿を見た瞬間、心臓が跳ねた。でも、顔には出さない。わたしは気づかないふりをして、歩き続ける。カナデはわたしに気づいたようで、笑顔で手を挙げた。自然体のその仕草に、わたしも笑顔を作る。
「ミナ、お待たせ。突然担任に呼び出されちゃってさ、ごめん」
「……ううん。呼び出し、大丈夫だったの?」
「授業サボり過ぎって怒られたよ。まあ、自覚はあったんだけど……。これからはもう少し、出ないとかなー……でもなあ……」
カナデは両腕をぐっと伸ばして、気だるそうにあくびをひとつ。その仕草があまりにもいつも通りで、少しだけ目を細めてしまう。
本当に、変わらないな。自由で、風みたいに軽くて、どこか遠い。そんなことを思いながら、靴箱で靴を履き替える。わたしのローファーがかたんと落ち、カナデのスニーカーは勢い余って逆さまになった。カナデがははっと笑って、スニーカーのつま先をとんとん叩きながら立ち上がる。
隣に並んで校舎を出ると、夏の光が肌を焦がすように降り注いだ。思わず手で陽を遮る。眩しくて、目の奥が痛かった。
「土曜日はありがとね。あの後、ちゃんと話せたよ。ほのかと」
その言葉が、さらっと落とされた。わたしは足を止めそうになるのをこらえて、無理やり口を開いた。
「……そっか。それなら、良かった」
いつものバス停までの道。交わす言葉も、歩くスピードも、いつもと同じ。なのに――心だけが、取り残されていく。
カナデは変わらない。ほのかと話して、仲直りして、それでもこうして笑っていて。ちゃんと、前を向いていて。わたしだけが、土曜日の夜からずっと動けていない。
笑顔を作る。何でもないような顔をして、隣を歩く。だけど、鞄を持つ手には、自然と力がこもっていた。
「……そういえば、今朝は若葉ちゃんがクラスに行ったみたいで、ごめんね……。東高の文化祭……本当に、良かったの?」
遠慮がちに訊くと、カナデはけろりと笑っていた。
「うん? たまたま教室にいたら、いきなり『松波奏~!』って声がして、何事かと思ったよ。面白い子だね、あの子。予定も空いてたし、別に平気。ほのかにも、ちゃんと会っておきたかったから」
さらりと口にされるほのかの名前に、心臓がまたひとつ波打った。横目でカナデの表情を盗み見る。カナデは、どこまでも穏やかな顔をして笑っていた。
……その笑顔の裏に、何があるの? 何を思って、今、それを言ってるの?
ぐらりと胃が重くなって、わたしは足元に視線を落とす。
こんなんじゃ、だめだ。わたしだけを見て、なんて。そんなの、ただのわがまま。でも、心はそう簡単に納得してくれない。
そのとき、カナデがふいに一歩前に出て振り返った。黒い楽器ケースの金具がぶつかって、楽しげな音を立てる。はっとして顔を上げると、目が合った。
「……さっきさ、汐見さんと轟さんが来たとき。『松波さんが来てくれたら、美奈ちゃんがすごく喜ぶと思うから!』って言われたんだけど。ははっ……ミナ、そうなの?」
「……えっ」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。その無邪気な笑顔。悪気のない茶化し。なのに、心の奥をざくっとえぐられたように、熱が駆け上がる。
それは――きっと日菜子だ。優しい日菜子だからこそ、悪意はない。むしろ善意だ。だけど、それが余計に苦しかった。
「喜ぶと思うから」――そう言われて来てくれたんだ。カナデは。わたしのために来てくれた。だけど、それは、誰かに言われたから、であって……わたしの気持ちを、わたしより先に伝えた誰かがいて……わたしはまだ、なにも言えていないのに。
「ええと……う、うん。カナデが、一緒だと……嬉しい、かも……」
目を逸らしながら絞り出すように言うと、カナデはふわりと、あたたかく笑った。
「そっか、ありがと。私も、ミナといると楽しいよ」
その言葉が、静かに胸の奥に落ちて――心臓が、びくりと軋んだ。何も見えなかった。カナデがどんな顔で、その言葉を言ったのか。怖くて、見られなかった。
でも、たった一言だけで、十分すぎるほど刺さる。わたしは下を向いたまま、言葉を返せなかった。カナデは照れたわたしを笑いながら、ちょうど来たバスに乗り込む。
二人席に並んで座ると、わたしたちの楽器ケースとカバンで狭くて、自然と身体が触れ合った。スカート越しに伝わる体温。ワイシャツの向こう側の肩が触れ合うたびに、心拍がまた一つ上がる。
――なんで、こんなに意識してるんだろう。わたし、そんなつもりじゃなかったのに。決して、変な意味なんてない。なのに。汗が滲んで、息が熱を帯びて、余計に苦しくなる。
雑談を交わしながら、意識しないふりを続ける。いつの間にかバスは駅前のロータリーに到着し、カナデが先に席を立つ。離れた瞬間、ふっと体温が抜け落ちて、触れていた場所にだけ、名残が残った。何もなかったように笑顔をつくり、わたしも後に続いた。
楽器ケースの持ち手をぎゅっと握りしめながら、いつものカラオケ店へと向かう。
カナデから出ていた練習曲は、たぶん少しは吹けるようになった。でも――集中なんて、できるわけがなかった。この雑念を振り払えなきゃ、またヘマをしてしまう。
カナデに気づかれないように、ひとつ深く息を吐く。夏の空気は、思ったよりも重かった。喉を通るたびに、少しは落ち着けるかと思ったのに――逆に、胸の奥でじんじんと、熱をくすぶらせるだけだった。




