第七話 文化祭と胸のざわめき(2)
***
一時間目に間に合う時間に、ぎりぎりバスが到着した。急いで昇降口を抜け、祈るように担任の姿を探す。良かった、いない。教室の扉をそっと開けて中に滑り込むと、ちょうど予鈴が鳴った。
「お、美奈氏じゃーん。遅刻久々だねん。松波奏とのデートが楽しすぎて、浮かれてたのん?」
教室の隅で話していた若葉がわたしに気づき、すかさず飛んできて肩を叩く。隣には日菜子もいて、ふんわりと笑っていた。遅刻の原因がカナデにあることは間違いではないけれど、決して浮かれているわけではない。慌てちゃだめ。気持ちを悟られないように、いつもよりほんの少しだけ口元を硬くした。
「それはない、普通に寝坊しただけ……。ふたりのおかげでなんとか無事に遊びに行けたよ、ありがとうね」
「そっかあ、よかったあ。若葉ちゃんとね、ちょっと心配してたの。変な提案してなかったかなって」
日菜子が頬に手を当て、申し訳なさそうに微笑む。変な提案って、どのへんだろう。カナデは「楽しかった」と言ってくれていたし、きっと大丈夫だろう……たぶん。
あいまいに笑ってやり過ごしていると、背後からぐっと肩を引き寄せられる。若葉が腕を絡めて、わたしを覗き込んできた。
「……でさ、美奈氏。土曜ヒマ? 今度は私たちと遊ぼうよ」
若葉の唐突すぎる提案に、つい目を瞬かせた。日菜子に目をやると、彼女は変わらず穏やかに微笑んでいる。
「えっと、今週の土曜……? う、うん……大丈夫だけど……」
「よっしゃ! じゃあ十時に駅前集合ねん」
「はあ」と煮え切らない返事をしつつ、わたしは頷く。ノリだけで押し切られた気がするけど、断る理由はない。ふたりと休日に遊ぶなんて、入学以来初めてだった。普段はクラスで話すだけの関係。それ以上は踏み込まないものだと、勝手に思っていたから……ちょっと意外で、でも少しうれしかった。
「……あのね、今週の土曜日、東高の文化祭なの。蒼ちゃん、演劇のキャストに選ばれたみたいで……良かったら、一緒に行ってもらえないかなあと思って」
ふわふわの髪を指に絡めながら、日菜子が照れ臭そうに言う。東高。その単語が耳に届いた瞬間、思考が一瞬止まる。ほのかの顔が脳裏にちらついて、心臓がきゅっと縮んだ。
でも、日菜子にとって東高は、ただの恋人の学校。カナデの過去なんて、当然知らない。
「蒼氏、劇とか超似合いそうだよね。絶対王子役でしょ! 創作のネタになる予感しかしないわー」
若葉のテンションは、早くも最高潮になっていた。日菜子はそれに笑いながら、「何役かは私も知らないの」なんて返している。そんなふたりを見ながら、わたしはそっと視線を伏せた。
――東高。そこには、あの子がいる。カナデがかつて本気で向き合おうとして、それでも壊してしまった過去の場所。もう終わった話。そう思いたいのに、どうしてもざわついてしまう。
……わたしは、ほのかのことを知りたいと思っている。カナデがかつて何を失って、何に縛られていたのか。それを知れば、今より少しだけ……松波奏という女の子に、近づける気がした。
「それでね、美奈氏。ついでだから、松波奏も一緒にどうかなーと思っていて……」
にやにや笑いながら、若葉が声を潜めてきたその瞬間――心臓が、どくんと跳ねた。
「えっ……」
喉が詰まる。その名前が鼓膜に触れた瞬間、全身が一気にこわばった。視界がふわっと揺れて、呼吸が止まりそうになる。
「えっ……ええ? カナデ、も……?」
声が、ひどく裏返った。耳の奥が熱い。掌がじっとりと汗ばむ。東高に行く。あの子がいる場所へ――カナデを連れて? 仲直りしたばかりのふたりが、再び顔を合わせる。それに、カナデは当初、東高を志望していたみたいだし……。わたしが動揺しているのをよそに、若葉は何も気にせず言った。
「……さっき、クラスを覗いたらちょうどいたから、美奈氏の予定聞く前だったけど、誘っといたよ~。来てくれるって言ってた! 初めて話したけど、普通に良いやつだねー!」
はっはっはと若葉が楽しそうに肩を揺らして笑うその横で、わたしは思考が完全にストップしていた。以前「仲良くなりたい」って言ってたの、社交辞令じゃなかったんだ……本気だったんだ。別のクラスに行って、ほぼ初対面のカナデを突然遊びに誘うだなんて――若葉のコミュニケーション能力に、ただただ驚愕する。別にわたしがカナデを紹介しなくても、若葉は自分で勝手に仲良くなれる。そう思った瞬間、心の奥が縮こまる。
それにしても、カナデも一緒に、東高って……。スマートフォンを確認すると、通知が一件。カナデからだった。
『美奈の友達の汐見さんと轟さんから、東高の文化祭に誘われたよ。美奈も行くんだよね?』
わたしが来てほしいって言ったわけじゃないのに――カナデはどうして、あっさり了承したんだろう。気を遣っただけ? それとも、本当に行きたいと思ったの?
迷いながらも、『わたしも行くね。ありがとう』とだけ返す。すぐに既読がついて、『大丈夫』という短い返信。そして、その下にもう一通。
『放課後練習するけど、美奈も来る?』
その文字を見た瞬間、目を伏せる。鼓動が静かに速くなる。
――どうしよう。カナデと、どう接すればいいのか分からない。わたし、友達なのに……こんな感情、抱いちゃっているのに。
それでも。今日もわたしは、楽器を持ってここに来た。若葉のこともある。ちゃんと、会って、話さなきゃ。震える指で、そっと画面をタップする。
『行く』
送信ボタンを押したあとも、しばらく手が震えていた。




