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第六話 夕暮れと二人の絆(6)

 ――これ以上、黙っていられない。


 わたしは、スマートフォンをゆっくりと持ち上げる。スピーカーから、ふいに柔らかな声が響いた。


「……美奈ちゃん、ありがとうね」


 ほのかの声だった。空気が一瞬、止まった。静寂の中、カナデがはっきりと息を呑む音が聞こえた。立ち尽くしたまま、ゆっくりとわたしを見る。


 わたしは黙ったまま、スマートフォンの画面を見せた。通話中のアイコン。そこに浮かぶ、ほのかの名前。もう、止まれなかった。


「奏、私、迷惑だったなんて全然思ってないよ。あの時、私が……奏を守れなくて……ごめん。ごめんね、奏……」


 スマートフォンのスピーカーから、ほのかの声が流れてくる。柔らかくて、優しくて――それでいて、不思議なくらい芯のある声。


 ……この子が、カナデの過去なんだ。


 わたしは震える指先でスピーカーを切り、画面をカナデに向けて差し出す。


「……後は、ふたりで話して。わたし……ちゃんと、待ってるから」


 かすれた声でそう言って、端末をカナデの手に押し付けた。


 この提案をしたのは、わたしだった。昨日、勇気を出してほのかにメッセージを送ってしまった。『上手くいくかはわからないけれど、わたしが気持ちを伝えてみる』――と。ほのかは何の迷いもなく、その申し出を受け入れてくれた。むしろ、すごく感謝してくれた。


 ――やっぱり、いい子だなと思った。優しくて、素直で、強くて。わたしは、そんな彼女に勝てる気がしなかった。


 少し距離を取って、カナデの背中を見る。スマートフォンを耳に当てて、静かにうなずくその横顔は、まるで誰にも触れられない過去の場所に立っているようだった。


 気づけば、太陽は完全に沈んでいた。空は深い紺に染まり、雲が千切れて、その隙間に一番星が滲んでいた。その光があまりに遠くて、胸の奥が冷たく痛んだ。夜に飲み込まれるみたいに、わたしの身体はまったく動けなかった。


 ――どうしてこんなこと、しちゃったんだろう。


 放っておけばよかったのに。過去の傷に、無理に触れなくてもよかったのに。それでも、わたしは手を伸ばした。


 ……どうして? 何のために? カナデが、ほのかとの関係を引きずってるのが、見ていられなかったから? 笑っているカナデが、ふと過去を思い出して陰るたびに、胸がざわついたから?


 違う。本当は、わたし……。


 知らない絆が、怖かった。わたしよりも先に、カナデを知っていた女の子。カナデの音楽と、痛みと、決意と……きっと、すべてを共有していた存在の子。過去がある限り、カナデはあの頃を忘れられない。ならいっそ、綺麗に終わらせてあげたほうが――それも、わたしが介入して終わらせてあげた方が。


 そうすれば、カナデはわたしを見てくれる。誰かの過去を清算してあげたわたしを。カナデのために何かをしてあげた、わたしを。


 善意の仮面をかぶった、この行動の本質は――わたしのわがままであり、エゴだった。


 わたしだけが、カナデのそばにいたい。ほのかが悪いわけじゃない。むしろ、いい子すぎるからこそ……その良さに負けそうで、怖かった。


 だってカナデは、わたしの何もない世界に、トランペットという色をくれた。わたしが誰にも言えなかった不安を最初に見抜いたのも、カナデだった。


 だから――もうわたしには、カナデしかいなかった。


 気がつけば、カナデは通話を終えて戻ってきていた。「ミナ、ありがとうね」なんて、そう言って笑いかけてくる。あまりにも無防備な笑顔で。


 その「ありがとう」が、まるで「もう大丈夫、ミナじゃなくても平気だよ」なんて聞こえて。その笑顔がもう、わたしなんかいなくても前に進める――そんな風に見えて。心の奥に、黒くて鋭い何かが突き刺さった。それは抜けなくて、喉の奥まで届いて、わたしを内側からえぐっていく。


 わたしは笑顔を貼りつける。必死で、平気なふりをして。笑って、頷いて、隣を歩く。だって、わたしはカナデの友達だから。


 でも、もう知ってしまった。わたしは、優しくなんかない。こんなにも誰かを欲しがって、誰かに執着して、誰かの過去にもやもやして、今を奪おうとする自分がいる。誰にも見せたくない感情が、胸の中で静かに育っていく。こんな自分なんて知らなかったし、知りたくもなかった。わたしはただいい子のふりをして、カナデを独り占めしたいだけ。


 ――わたしは、きっともう、後戻りはできない。


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