第六話 夕暮れと二人の絆(2)
「……あっ、ミナ」
唐突に名前を呼ばれて、びくんと肩が跳ねる。人混みの向こうから、手を振りながら歩いてくる人影。――カナデ、だ。
いつも背負っている楽器ケースがないせいか、なんだか今日のカナデは身軽に見える。白いワイシャツに細いデニム、髪はほんの少し跳ねていて――自然体で歩くその姿が、思わず見惚れるくらい、眩しかった。
「ごめん、ミナ。待った?」
「……ううん、さっき来たばっかり。それに……まだ約束の時間前だよ」
そう答えながら、自然と笑みが零れる。なんだろう、ちょっとだけ、デートっぽい会話……。そう思った瞬間、カナデがふいに――わたしの手を、ぎゅっと握ってきた。
「……えっ……?」
突然指先から伝わる体温に、心臓が跳ねる。わたしの顔がきっと、とんでもない顔になっていたのだろう。わたしを見つめていたカナデが、ふっと吹き出した。
「ははっ……。いや、驚きすぎでしょ。そんなに驚く?」
「えっ……。だ、だって……! カナデ……!」
「ごめんごめん。だってさ、今日は……ミナがデートに誘ってくれたから。ちょっとだけ……驚かせようと思って」
カナデはおどけたように笑って、ぱっと手を離す。冗談めかしているけれど、その言い方にほんの少しだけ、照れの匂いが混じっていた。わたしの手には、まだカナデのあたたかさが残っている。離れたはずなのに、そこだけ取り残されたみたいに熱い。不思議と名残惜しくて、こっそり指先を握りしめた。
「ところで、ミナの私服って初めて見るね。かわいい、似合ってるよ」
「も……もう! さっきから! からかってるでしょ……?」
カナデの先ほどからの様子を見るに、明らかにわたしをからかっている。一時間ほど悩んで決めたワンピースを褒められるのは、お世辞だとわかっていても照れてしまう。けれど……。
口調はさらりとしているのに、カナデの言葉はストレートすぎて、心臓に悪い。一体どこで、そんな口説き文句を覚えてくるんだろう。頬が熱を持っているのが、自分でも嫌というほどわかってしまった。
「……ミナったら、真っ赤。ほんと、おもしろいね」
ふざけた調子のその声に、思わず睨みつけてしまう。カナデはいたずらっぽく笑っていたけれど、どこか安心しているようにも見えた。まるで、冗談の皮を被せないと、自分の本音を守れないような――そんな顔だった。
わたしはカナデから目を逸らし、咄嗟に人の流れに乗って、駅ビルの方へ歩き出す。
「……カナデのバカ! それに、別にデートじゃないんだから……!」
強く否定したつもりなのに、声が少しだけ、上ずってしまった。カナデが「ふふっ」と、小さく笑う。隣をちらりと見たら目が合って、また心臓が跳ねた。デートなんて言われたせいで、余計に緊張してしまう。
――どうしよう。こんな調子で今日一日、わたし、ちゃんとリードできるのかな。途端に不安になったそのとき、カナデがぽつりと呟いた。
「ねえ、ミナ……。ありがとね、誘ってくれて」
その声はふいに低く、優しくて。さっきまでの茶化すような口調とは、まるで違っていた。驚いて横を見ると、カナデはわたしの方を見ないまま、前を向いて歩いていた。だけど、その横顔はどこか――ほんの少し、寂しそうで。その珍しい表情に、心臓がぎゅっと締まるようだった。
駅ビルの最上階にある雑貨屋で、色とりどりの商品に目移りしながら歩いていると、カナデがふと足を止めた。目線の先は――意外にも、文房具コーナーだった。
「文房具ってさ、なんかテンション上がらない? これ、今同じの使ってるけど……結構気に入ってんだ」
そう言いながら、カナデは一本のシャープペンシルを手に取った。カナデに似合う、紺色のメタリックなボディ。光の下で、すっと鋭い線を描くように輝いている。カナデのその手元が、なんだか様になっていて。わたしは一瞬、言葉を忘れてしまった。
その姿を見て、そういえばカナデの成績は学年一位だったことを思い出す。学校には全然来ていないけれど、見えないところでは、きっとすごく努力をしているんだろう。
わたしとはあまりにも、世界が違いすぎて……。道具から真似したって、勉強ができるようになるわけじゃない。だけど――同じものを持っていたら、少しだけでも近づける気がした。
「わたしも、カナデと同じもの、使ってみようかな……」
なんて声に出してみると、途端に恥ずかしくなった。だけど、カナデは何も言わずに目を細めて、そのまま商品をわたしに差し出した。その反応が、なんだか優しくて。わたしはお揃いのシャープペンシルをぎゅっと握りしめて、レジに持っていった。
次に立ち寄ったのは、下の階のアパレルショップだった。マネキンはすっかり秋の装いで、ニットやスカート、レースのブラウスが並んでいる。フェミニンな空気に、カナデは明らかに居心地が悪そうだった。肩をすくめて、視線が泳いでいる。
「ねえ、カナデ。カナデってああいう服……着たりしないの?」
試しに控えめな色味のワンピースを指差してみると、カナデが眉をひそめ、全力で首を横に振った。
「嫌、無理。ああいうの、私には絶対似合わないから。スカートとか、制服以外では絶対に着ない。そういう可愛い服は……ミナの方が似合うよ。だってミナ、かわいいから」
さらりとわたしを褒めるその口ぶりに、またしても心臓が跳ねた。からかっているのか、本気なのか、わからない。だけど、そんな簡単な一言で、わたしの心だけが勝手に騒いでいた。
わたしが目を逸らすと、カナデは笑う。見透かすようなその笑い方に、悔しいくらいに胸が高鳴った。
――だって、どう考えたって、カナデの方が綺麗なのに。
隣に立つ横顔を、ちらりと盗み見る。前髪から覗く凛とした瞳、長くて繊細なまつ毛、すっと通った鼻筋。どこをとっても、地味なわたしとは比べものにならない。羨ましいな――わたしとは違うその横顔の美しさに、息が止まってしまうようだった。
次に訪れたのは駅ビルの一角にある、小さな楽器屋だった。CD販売がメインのようで、楽器コーナーは決して広くはなかったけれど――カナデは、どこかほっとしたような顔をしていた。前を歩く背中は店内の空気に、自然と溶け込んでいく。その姿が、少しだけ誇らしげに見えていた。
「あれ。なんか、値上がりしてない……?」
楽器のメンテナンスで使うオイルを眺めながら、カナデが呟く。その何気ない言葉すら、わたしにとっては新鮮だった。わたしの知らない世界で、カナデはこうやってずっと、楽器と一緒に生きてきたんだ――そんな当たり前のことを、今さら思い知らされる。
ガラスケースの前に移動すると、そこには様々なトランペットが並んでいた。カナデがふいに、ひとつを指差す。
「これ、ミナに貸してるのと同じやつだ。これも……昔買った時より、高くなってる気がする」
カナデが指さした楽器には『初めての一本に!』とポップがあって、横に十七万五千円と表示されている。思わず「えっ」と、声が漏れた。
「十七万……」
その数字が、ぐさりと胸に刺さる。知らなかった。わたしは、こんな重さのあるものを――借りていたんだ。何も知らずに。
思わず、ほのかの顔が脳裏をよぎった。ほのかは――カナデと一緒に、この楽器を買いに行ったと言っていた。きっと、そのときのふたりには、今のわたしにはない、信頼と約束があった。
それに――十七万なんて、子どもの買い物じゃない。それを手に入れたということは、きっと……ふたりとも本気だったんだ。
「ちなみに、私が今使っているのは……これ。買った時は、三十七万くらいだった気がするけど」
カナデの指先が、もうひとつのトランペットに移る。『あなたの求める理想の音楽表現に』――そう書かれたポップの下、値札には四十五万円。
「……よ、よんじゅう……ご……」
数字が倍になっただけで、世界の輪郭が変わる。これはもう、楽器じゃない。覚悟の値段だ。それに、前から薄々思っていたけれど、カナデってもしかして……お金持ち? わたしが絶句していると、カナデは少し気まずそうに頬をかいた。
「高校上がるときに、新しいのが欲しくなってさ。どうせなら、ちゃんとしたやつがいいと思って。親とか説得するの、色々大変だったけど……。まあでも、そのおかげで今、ミナに楽器貸せてるし。結果オーライかなって」
言葉の端々にあるわたしへの気遣いが優しくて、苦しかった。きっとカナデは、本当に何気なく言っただけ。だけど、その何気なさが、わたしの胸には重く響いた。
――だって、わたしは。カナデと一緒に楽器を選んだこともなければ、音楽に全てを賭けた経験もない。ただ、貸してもらっただけ。たったそれだけの存在で。ほのかはカナデと一緒に選んだ、自分の楽器を持っている。わたしの手の中にあるのは、カナデの楽器だ。重さも、匂いも、傷も――全部、わたしのものじゃない。
ほのかは、カナデの相棒だった。わたしは今も、きっとカナデの生徒にすぎない。
――わたしは、ほのかのようにはなれない。レベルも、情熱も、重ねた時間も違う。カナデの隣に立つには、足りないものが多すぎた。
息が苦しくなって、わたしは無意識に胸元を押さえていた。指先が、ぎゅっと服の布を掴む。カナデに気づかれないように、そっと視線を下げた。
――でも、今は。この時間だけは、わたしのものだから。せめて今日だけは、カナデに楽しいと思ってもらいたい。そう思って息を吸い込んで、声の形だけ整えた。




