第六話 夕暮れと二人の絆(2)
カナデは、待ち合わせの五分前にやってきた。毎日背中に背負っている楽器ケースが無いせいか、いつもより足取りが軽く見える。人混みの中、片手を振りながらシンプルな格好で決めていた。わたしも手を上げて、カナデに近づく。
「ごめん、ミナ。待った?」
「ううん、さっき来たばっかり。それに、まだ約束の時間前だよ」
なんだかデートっぽい会話に笑ってしまうと、カナデがいきなり手を握ってきた。温かさがじんわり伝わってきて、心臓が跳ねる。驚いて言葉を無くしていると、わたしが余程変な顔をしていたのか、カナデが吹き出した。
「……ごめんごめん。今日は珍しく、ミナがデートに誘ってくれたからさ」
ぱっと手を離して、戯けたように笑う。片手に熱の余韻を感じながら、少しだけ名残惜しさを感じていた。わたしは指先を握りしめて、「カナデったら……!」と言うことしかできない。
「ところで、ミナの私服って初めて見るね。かわいい、似合ってるよ」
「も……もう! さっきから! からかってるでしょ……?」
先ほどからの様子を見るに、明らかにわたしをからかっている。一時間ほど悩んで決めたワンピースを褒められるのは、悪い気はしないけれど。さらっとそう言うことを言ってくるのだから、心臓に悪いと思う。一体どこで、そんな口説き文句を覚えてくるのだろう。頬が熱を持っているのが、自分でも分かってしまった。わたしはカナデから視線を外し、まずは駅直結のショッピングビルに向かって歩き出す。
「……カナデのバカ! それに、別にデートじゃないんだから……」
照れ隠しにそう言うと、横でカナデが軽く笑う。恨めしげに顔を向けると、目が合って、また心臓が跳ねた。“デート”なんて言われたせいで、余計に緊張してしまう。わたしはそっと息を吐き出して、鞄を持ち直した。とりあえず、カナデが元気そうで良かった。出だしはたぶん……まずまず順調と言えるだろう。
「ねえ、ミナ。……ありがとね、誘ってくれて」
わたしの横で、カナデがぽつりと呟いた。どこか切なげな声に驚くと、カナデは少しだけ照れたように笑っている。その珍しい表情に、心臓がぎゅっと締まるようだった。
わたしはカナデの前に立ち、駅ビル最上階の雑貨屋へ向かう。いろんな雑貨が並ぶ中、カナデが意外にも文房具コーナーに目を輝かせた。
「文房具って、なんかテンション上がらない?」
芯の先がくるくると回るシャープペンシルを手にしながら、カナデは言う。紺色のメタリックな本体が、店内の照明を反射して鋭く輝いていた。その姿を見て、そういえばカナデの成績は学年一位だったことを思い出す。あまりに世界が違いすぎて……せめて同じ文房具を使ったら、ちょっとは成績上がらないかな。そんな下心でカナデとお揃いのシャープペンシルを購入し、次回のテストに挑む決心をした。
次に、下の階の服屋を流し見する。マネキンはもう秋物で、フェミニンな服だらけの中、カナデは居心地悪そうにそわそわとしていた。シンプルな私服が多いカナデだけれど、凛としたその顔は、女の子らしい服も似合うんじゃない? 「試着してみてよ」と比較的落ち着いたワンピースを指さしたら、すごい勢いで拒絶されてしまった。
「いや、私には絶対似合わないから。そういう服は……ミナの方が似合うよ。だってミナ、かわいいから」
なんて、軽く口説くようなセリフを入れてくる。素で言っているのか、それとも単にからかっているのか分からなくて、わたしは俯く。どう考えたって、わたしよりカナデの方が美人なのに。ちらりとその顔を見つめると、長いまつ毛が緩いカーブを描いて天井を向いている。羨ましいな。わたしとは違う、その横顔の美しさに、息が止まってしまうようだった。
次は、カナデのテリトリーである楽器屋に足を運ぶ。CD販売がメインのようで楽器のコーナーは手狭だったけれど、カナデはやっと息がしやすくなったようだった。メンテナンスに使うオイルを一通り眺めた後、ショーウインドウに並んだ楽器を並んで見つめた。
「これ、ミナに貸してるのと同じやつだ。昔買った時より高いかも」
カナデが指さした楽器には『初めての一本に!』とポップがあって、横に十七万五千円と表示されている。十七万! 思わず「えっ」と声が漏れた。そんなに高価なものを借りていたなんてと、わたしはつい息を呑む。ほのかは、カナデと一緒にこの楽器を買ったと言っていた。十七万の買い物なんて、余程本気でないと……きっと親が許してくれない。それだけ二人は、トランペットにかける思いが強かったんだろう。
「ちなみに、私が今使っているのはこれ」
俯いていると、カナデが別の楽器を指さす。その楽器には『あなたの求める理想の音楽表現に』という文句が添えられ、値札には三十七万円。先ほどのトランペットが約二台買える値段だった。前から薄々思っていたけれど、カナデってもしかしてお金持ち? 驚いてその顔を見ると、頬を掻いて苦笑していた。
「高校に上がるタイミングで、新しいのが欲しくてさ。どうせならいいやつが良かったから……まあ色々と大変だったよ。でもおかげで今、ミナに楽器を貸すことができてるしね」
カナデは透明なガラスの向こうに飾られた、真新しい楽器を見つめている。きっとカナデはいろんな思いを抱えながら、この楽器を選んだのだろう。新しい楽器を選んだカナデと、カナデと選んだ楽器を今でも使い続けているほのか。二人は対極の存在だった。ほのかを思うと、胸にもやもやと暗い霧がかかった。なぜか呼吸が浅くなって、無意識に胸元をぎゅっと掴んでいた。
――わたしは、ほのかのような存在にはなれないだろう。カナデとはレベルも何もかもが違いすぎて、わたしは横に並ぶ資格がないかもしれない。だけど……。ざわつく心を抑えつけながら、今はカナデを楽しませることに集中しなければと唾を飲み込む。