小噺 誤字があっただけ(大学編)
今日も、何も問題はなかった。
朝は時間どおりに起きた。少し混んだ電車に乗って、遅刻せずに大学へ着いた。講義では教授の話をきちんとノートに取り、昼休みには友達の瑞穂と学食へ行った。
レポートの話をして、次の小テストの範囲を確認して、週末にできた新しいカフェの話で盛り上がった。そんな中で「美奈ちゃん、最近ちゃんと寝てる?」と聞かれてしまった。
彼女は唐揚げ定食のトレーを前に、箸を持ったまま、じっとわたしを見つめていた。わたしは笑顔を作るまでに、一拍だけ遅れた。
「……寝てるよ?」
「何時間?」
「……五時間半くらい?」
「少ない」
すぐに言われて、思わず笑ってしまった。
「でも、ちゃんと寝てるよ」
「美奈ちゃんの『ちゃんと』は、信用ならないから」
彼女は呆れたようにため息をついて、それから自分の皿に乗っていた唐揚げをひとつ、小皿に移してくれた。
「はい」
「えっ?」
「食べな。見てたでしょ」
「み、見てたかな……?」
「見てた。すごい見てた」
顔が熱くなる。たしかに、少しだけ見ていた。定食は量が多くていつも頼めないけれど、唐揚げはとても美味しそうだったから。
「いいの?」
「いいよ。美奈ちゃん、すぐ遠慮するんだから。それに、美奈ちゃんにあげるために定食頼んでる感じだし」
「なにそれ……! でも……ありがとう」
もらった唐揚げはまだ温かくて、ひと口食べると、衣がさくっと音を立てた。
「……美味しい」
「でしょ」
彼女が、少し得意げに笑う。その顔を見て、わたしも笑った。
彼女は優しい。少し口が悪いときもあるし、勢いもあるし、たまに胸の奥まで覗き込まれるようなことを言うけれど――こうして、唐揚げをひとつ分けてくれる。わたしが何も言わなくても、疲れていることに気づいてくれる。
今、目の前にいてくれる。そのことがありがたい。唐揚げは本当に、美味しかった。
そのことに少しだけ安心した。まだ何かを美味しいと思える。友達と話して、笑うこともできる。
なのに、その安心のすぐ隣で、別の何かが冷たくなった。
カナデがいなくても、わたしは笑える。そのことをカナデが知ったら、安心するだろうか。それとも、少しだけ寂しいと思ってくれるだろうか。
「……美奈ちゃん?」
呼ばれて、わたしははっと顔を上げる。
「ごめんね、何でもない」
「ほんと?」
「うん。唐揚げ、美味しいなって思ってた」
「それは本当っぽい」
彼女が笑う。わたしも笑った。今日も、ちゃんと笑えた。
だから、何も問題はなかった。そういう一日だったことにして、今日を終えればいい。
大学で友達と話して、笑って、ご飯を食べて。帰りに図書館へ寄って、レポートに必要な本を借りた。家に帰ってから夕食を食べて、母親に今日あったことを少し話して、お風呂に入った。髪を乾かして、明日の鞄の中身を確認した。
ちゃんと、できた。カナデがいなくても。
朝起きてから夜になるまで、わたしは自分の一日を、何ひとつ間違えずに過ごすことができた。一つずつ、やるべきことを終わらせる。そうしている間だけは自分が何を待っているのか、考えずに済んだ。だから、大丈夫だった。
――大丈夫でなければ、いけなかった。
机の上には、途中まで書いたレポートが置いてある。あと少しだけ書き足せば終わるはずだったけれど、文字を追っても、意味がなかなか頭に入ってこなかった。
同じ行を、三回読んだ。四回目で、諦めた。明日に回しても、何も困らない。提出期限までは、まだ余裕がある。
それでも、今日やると決めたことを残したまま眠るのが怖かった。一つでも予定どおりに終えられなかったら、ほかのことまで全部できなくなってしまいそうだった。
疲れているんだと思う。今日は朝から講義が詰まっていたし、人ともたくさん話した。人と話すのは、思ったよりも楽しい。だけど、楽しいことと疲れないことは、きっと同じじゃない。
時計を見ると、日付が変わる少し前だった。
アメリカでは、今、何時なのだろう。何度も調べたはずなのに、毎回すぐにわからなくなる。カナデが起きているのか、眠っているのか。大学にいるのか、練習をしているのか。今、どんな部屋にいるのか。今日は何を食べたのか。誰かと話したのか。笑ったのか。
何ひとつ、わたしにはわからない。
それでも、送ったメッセージには既読がつく。だから、カナデはいる。遠くに。きっと元気で。生きている。
それだけで、十分だと思わなければならなかった。それ以上を望んだら――わたしはカナデを困らせるような、悪い恋人になってしまう気がした。
わたしはひとつ息を吐き、部屋の明かりを消した。
ベッドの上には、アザラシのぬいぐるみがいる。高校生の頃、カナデが買ってくれたものだった。何度も抱きしめて眠ったせいで、白い身体は少しだけ形が崩れている。片方のひれも、最初よりずっと柔らかくなった。
わたしはそれを、胸元へ引き寄せた。腕の中に、柔らかな感触が沈む。人の身体ではない。温度もない。抱き返してもくれない。
それでも、何も抱かずに眠るよりは、ずっとよかった。
「……おやすみ」
小さく言ってから、少しだけ待った。返事なんてないと、わかっているのに。
目を閉じる。早く眠ればいい。眠れば朝になる。明日になれば、また普通に大学へ行ける。友達と話して、笑って、授業を受けて、帰ってこられる。明日のわたしも、きっと大丈夫。
今日は、少しだけ疲れているから。だから、こんなことを考えてしまうだけ。
そう思いながら、アザラシの頭へ顔を寄せた。鼻先が、柔らかな毛に触れる。少しだけ迷ってから、額のあたりに唇をつけた。
ほんの一瞬。すぐに離す。カナデにキスをしたわけではない。これは、ただのぬいぐるみだ。カナデの代わりになるはずがない。そう思うと安心した。これを抱きしめたくらいで、カナデを別の何かに置き換えたことにはならない。
それなのに、代わりになってくれないことが、少しだけ悲しかった。
「……ごめんね」
誰に謝っているのかは、自分でもわからなかった。カナデになのか。アザラシになのか。それとも、こんなことをしている自分になのか。
考えないようにして、ぬいぐるみを抱き直す。カナデなら、こんなふうに抱きしめられたら、きっと少しだけ困った顔をする。
『ミナ、苦しいって』
そう言いながらも、本気では離れようとしない。わたしが腕の力を緩めなければ、仕方ないな、とでも言うように笑って、そのまま背中へ手を回してくれる。
そんな場面が、あまりにも簡単に浮かんだ。声も。表情も。手の位置まで。
思い出せることが嬉しかった。同時に、少し怖かった。
こうして何度も思い出しているうちに、わたしの中のカナデは、本当のカナデとは違う人になってしまうのではないか。
わたしの都合のいいように笑って。わたしの欲しい言葉をくれて。いつでもわたしを抱きしめてくれる、わたしの頭の中だけのカナデ。
本当のカナデは、もうずっと遠くにいる。会えないまま、声も聞けないまま。
――そのうち、わたしが知っているカナデは、どこにもいなくなってしまうのではないか。
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
「……大丈夫」
声にしてみる。カナデは、ちゃんとわたしを覚えている。既読がついている。メッセージを読んでくれている。
だから、大丈夫。
何も言わないのは、カナデが頑張っているから。変わろうとしているから。わたしを信じているから。
そう考えてきた。それがカナデの返事なのだと、自分に何度も言い聞かせてきた。
でも今夜は、その言葉がいつもより頼りなかった。薄い紙みたいに、指で触れたら破れてしまいそうだった。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。見ない方がいいと思った。トーク画面を開いたところで、そこにあるのは、わたしの言葉ばかりだ。
楽しそうな話。大学のこと。友達のこと。カナデを応援する言葉。大好きだという言葉。どれも嘘ではなかった。嘘ではないのに、並んでいる文章を眺めると、どこか他人が書いたもののように思えた。
この人は、とても強い。返事がなくても、相手を信じている。寂しくても、夢を応援している。毎日をきちんと生きている。
画面の中の春日美奈は、わたしよりもずっと立派だった。
指が入力欄へ触れる。何かを書くつもりはなかった。ただ少しだけ、カナデの名前を見ていたかった。
それだけだった。
『奏。』
気づけば、そう打っていた。すぐに消そうとした。けれど、指は動かなかった。
『今日は、ちょっと疲れちゃった。』
違う。疲れたことを伝えて、どうするのだろう。カナデには関係がない。
文字を消す。しばらく何もない入力欄を見つめてから、また打った。
『今日は、ちょっとだけ寂しいよ。』
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
寂しいなんて、書いてはいけない。カナデが読んだら、困る。自分のせいだと思ってしまう。せっかく遠くで頑張っているのに、わたしが足を引っ張ってしまう。
だから、消す。消したはずなのに、また同じ言葉を打っていた。
『奏に会いたい。』
手が止まる。
会いたい。たったそれだけの言葉なのに、画面の上ではひどく重たく見えた。
帰ってきてほしいわけではない。カナデの夢を邪魔したくない。ちゃんと叶えてほしい。
その気持ちは、本当だった。
でも、会いたかった。今すぐでなくてもいい。何も捨てなくてもいい。ただ、声を聞きたかった。名前を呼んでほしかった。わたしが今もカナデの恋人なのだと、何かひとつ、確かなものが欲しかった。
『声が聞きたい。』
『名前を呼んでほしい。』
言葉が続いていく。一度こぼれてしまったものは、もう綺麗には戻せなかった。
『わたし、ちゃんと待っていられると思ってたのに。今日は少しだけ、自信がないみたい。』
送るつもりはなかった。そのまま消すつもりだった。誰にも届かないのなら、少しくらい本当のことを書いてもいいと思った。
でも――書いているうちに、カナデに読んでほしいと思っている自分に気づいてしまった。
読んで。わたしが寂しいと知って。少しだけ困って。少しだけ、わたしに会いたいと思って。そんな願いが、自分の中にある。それがひどく恥ずかしくなった。
『でも、わたしは大丈夫だよ。』
慌てるように、言葉を足す。
『奏が頑張ってること、ちゃんとわかってる。わたしが勝手に寂しくなってるだけで、明日になったら、きっとまた大丈夫。だから、気にしないでね。返事もいらない。』
そこまで書いて、少しだけ安心した。これなら、カナデを困らせない。
寂しいと言っても、返事はいらないと書けばいい。会いたいと言っても、帰ってきてとは言わなければいい。自分の弱さを見せても、何も求めなければ、きっと許される。
『ただ、今日は少しだけ、奏に会いたいって言いたくなっちゃったんだ。ごめんね。奏、大好きだよ。』
最後に謝れば、大丈夫な気がした。
読み返す。どこにも、カナデを責める言葉はない。帰ってきてとも、返事をしてとも書いていない。
ただ、寂しい。会いたい。それだけだった。
それだけなのに、送信ボタンを押す指は震えた。画面の中に、新しい吹き出しが並ぶ。その瞬間、頭の中が真っ白になった。
「あっ……」
送ってしまった。カナデに。カナデが、読むかもしれない場所へ。
既読はまだついていない。それでも、背中から冷たいものが込み上げてきた。カナデがこの言葉を読んだら、どう思うだろう。自分がわたしを苦しめていると思うかもしれない。帰りたいと思ってしまうかもしれない。トランペットを吹くたびに、わたしの言葉を思い出すかもしれない。
せっかく、自分のために進もうとしているのに。わたしのせいで、立ち止まってしまうかもしれない。
それは、だめだった。
わたしはカナデの支えになりたかった。カナデの背中を押せる恋人でいたかった。重荷には、なりたくなかった。
震える指でメッセージを長押しし、削除を選ぶ。
まだ、間に合う。お願い。まだ見ないで。
画面から言葉が消えた。
『春日美奈がメッセージを削除しました』
その表示だけが残る。途端に指先から力が抜けた。
良かった。まだ、読まれていない。カナデを困らせずに済んだ。そう思った瞬間、小さな安堵が広がった。その安堵が、何よりも苦しかった。
わたしは、自分の気持ちがカナデに届かなかったことに、安心している。
会いたいと伝わらなかったことに。寂しいと知られなかったことに。
これでいいはずなのに。これが正しいはずなのに。どうしてこんなに悲しいんだろう。
涙は出なかった。目の奥が熱いだけで、何も落ちなかった。代わりに、喉の奥がずっと狭かった。息をするたびに、何かが引っかかる。
削除したままでは、カナデに心配をかけてしまうかもしれない。どうして消したのだろうと、気にするかもしれない。
大丈夫だと伝えないと。カナデが安心できる言葉を、送らないと。
わたしはもう一度、入力欄を開く。
『……メッセージを消しちゃった。誤字があっただけだから、気にしないでね。』
誤字。本当は、どこにも書き間違いなんてなかった。
寂しい。会いたい。声が聞きたい。名前を呼んでほしい。全部、本当だった。でもカナデへ届けるには、間違っている言葉だった。
カナデを応援する恋人なら、書いてはいけない。だから、誤字でいい。そういうことにすればいい。
『奏のいない生活にも、だいぶ慣れてきちゃったよ。』
そこまで打って、指が止まる。
慣れてきた。それはたぶん、嘘じゃない。カナデがいなくても、朝は来る。大学へ行って、友達と話して、家に帰って眠る。
一日は、ちゃんと終わる。
最初の頃より、泣かなくなった。カナデのいない毎日を過ごす方法は、少しずつ分かってきた。でも、慣れたということが、こんなに寂しいものだとは思わなかった。
カナデがいないことが日常になる。それを受け入れられる自分になっていく。
そのことが、怖かった。
『だけど……毎日、自然と奏のことを考えてるよ。頭の中で、勝手に奏に話しかけちゃう……みたいな……。奏のことを好きになってから、それはずっと変わらないの。もう、わたしの習慣みたいなものになっちゃった。』
これなら大丈夫だろうか。カナデがいなくても生きられている。でも、忘れてはいない。忘れられるわけがない。そう伝えられるだろうか。
『でもね……たまに思うんだ。奏と一緒に過ごした高校生活は、夢だったんじゃないかって。本当は、最初からずっと……わたしはひとりぼっちだったんじゃないかって。……なんてね。』
なんてね。
最後にそう書けば、深刻には見えない。冗談だと思ってもらえる。でも、その言葉を打った指は、すぐには次へ動かなかった。
本当は、冗談じゃなかった。
カナデの声を聞かなくなって。顔も見なくなって。触れられなくなって。高校生の頃の思い出だけが、少しずつ遠くなる。
あの日々が、本当にあったものなのか。ときどき、わからなくなる。ひとりだったわたしが、寂しさに耐えられなくて作った、長い夢だったのではないか。松波奏という人を、自分で作り出したのではないか。
そんなことを考える夜がある。
『でも……ちゃんとわかってるよ。奏が残してくれたトランペットも、奏がつないでくれた人たちも、ちゃんとわたしのそばにある。だから、わたしはひとりじゃないし、わたしの恋人は、やっぱり奏。だよね?』
だよね、と打ったあと、胸が小さく沈んだ。カナデに尋ねたいわけではなかった。尋ねても、返事は来ない。
これは問いかけじゃない。わたしが、わたしに言い聞かせるための言葉だった。
わたしの恋人は、松波奏。今も、きっと。
『それでも時々、不安になっちゃうんだ。今からこんなじゃ、だめだよね……。わたしは奏を信じるって、誓ったんだから。』
またわたしは、自分を叱る。不安になるわたしが悪い。カナデを信じ切れないわたしが弱い。カナデは遠くで、ひとりで頑張っている。
わたしがこんなことでは、だめだ。
『だから……信じてるよ、奏。こんなわたしを、アメリカから叱ってね。』
カナデなら、なんと言うだろう。
――大丈夫、ミナならできるよ。
そう言ってくれるだろうか。でも、その言葉さえ、今は自分で想像することしかできない。
『奏、大好きだよ。って、何度も書いてるのに……それでも、やっぱり……まだ、足りないみたい。奏、大好きだよ。今日も、明日も、会えない日も、ずっと。どうか、わたしの「好き」が、届いていますように。』
好きと書く。大好きと書く。何度書いても送信した途端、言葉は自分の手を離れてしまう。
カナデが読んで、何を思うのかはわからない。
だからまた書く。まだ足りない気がして。次は届くかもしれないと願って。何度でも。
『奏。ちゃんと夢を、叶えてきて。奏の夢は、わたしの夢でもあるんだから。奏が夢を叶えてくるって、わたしは一番に信じてるよ。』
最後まで打ち終えて、読み返す。
これなら大丈夫。少し不安なことも書いてしまったけれど、最後はちゃんと、カナデの夢を応援できた。カナデを困らせる言葉ではない。わたしは、カナデを信じている。大丈夫。そういうわたしに、見える。
送信ボタンを押すと、長いメッセージが画面に並んだ。今度は削除しなかった。そのままスマートフォンを伏せ、胸の中に残っていた息を、ゆっくり吐き出した。
これでいい。カナデはきっと、安心してくれる。わたしは元気で。大学生活にも慣れて。友達もいて。ひとりではなくて。カナデを信じて待っている。そう思ってくれる。
全部、嘘ではない。
だから、きっと大丈夫。
わたしはもう一度、アザラシのぬいぐるみを抱き寄せる。そして、さっきよりも強く抱いた。柔らかな身体が、腕の中で少しだけ潰れた。
「……ごめんね」
さっきと同じ言葉を、また呟く。今度は、たぶん自分に向けていた。
アザラシの額に唇をつける。少し長く。カナデに触れているつもりには、なりたくなかった。それでも、すぐには離れられなかった。
「カナデ……会いたいよ」
消したはずの言葉が、声になった。小さく。自分にしか聞こえない声で。白い毛の中へ吸い込まれて、すぐに消えた。
今度こそ、本当に誰にも届かなかった。
それが、少しだけ安心で。そのことが、どうしようもなく寂しかった。
***
髪が邪魔だった。金色のベルの縁に映る自分の顔を見て、最初に思ったのはそれだった。
日本を出てから、まだ一度も切っていない。前髪は目元を覆い、後ろ髪はいつの間にか肩へ届いていた。練習中は低い位置でひとつに結んでいるけれど、それでも短い毛がほどけて頬や顎へ張り付き、ひどく鬱陶しい。
切りに行けばいい、そんなことは分かっている。けれど、髪を切るために街へ出て、店を探して、拙い英語で希望を伝えて、椅子に座って、終わるまで待つ。そんな時間があるなら、練習した方がいい。
そう思って、今日も結局そのままだった。
鏡代わりにしたトランペットのベルには、どこかやつれた自分の顔が映っている。目の下には薄い影があった。頬も少し痩せたかもしれない。けれど、それもどうでもよかった。むしろ、ほんの少しだけ安心した。
これだけ削れているなら、私はまだ怠けていない。そう思った自分には、気づかないふりをした。
音さえ出ればいい。そう思う。いや、そう思うようにしていた。
午前の個人レッスンで、先生に同じフレーズを何度も止められた。技術的な指摘なら受け入れられる。テンポも、発音も、音程も、息の流れも。正されるべきところがあるなら、直せばいい。
でも今日は、もっと奥の方を見透かされるようなことを言われた。
『君は、どこに行きたいの?』
それに、うまく答えられなかった。音楽の話だと分かっている。フレーズの行き先。即興の方向。自分がその音で何を言いたいのか。
それなのに――頭に浮かんだのは、ミナの顔だった。
帰りたい。そう思った。
息を吸った瞬間に胸がひどく詰まって、それからはもう駄目だった。吹けているのに、届いていない。鳴っているのに、何も言えていない。そんな感覚だけが、楽器の中に残った。
レッスンが終わってからも、私は練習室に残った。昼食の時間には、まだ少し早い。こちらは午前の終わりで、日本はもう、日付が変わった頃のはずだった。
この街は、日本より十三時間遅れている。何度も確認した。ミナが今どんな時間を過ごしているのかを、少しでも想像したかったから。
こちらが朝なら、日本は夜。こちらが昼なら、日本は深夜。こちらが眠る頃に、ミナは起きる。
そんな当たり前のずれが、時々ひどく残酷に思えた。
私は譜面台の高さを少しだけ上げ直し、立ったまま課題曲を見下ろした。椅子は壁際に寄せたままだった。座ったら、そのまま動けなくなりそうな気がした。
昼食も、あとでいい。朝は食べた。トーストと、卵と、果物を少し。ミナに見られても、たぶん怒られない程度には食べた。
『ちゃんと三食食べなきゃ、だめだからね?』
文字だけの声が、頭の中で響く。
――分かってるよ。そう答える相手は、ここにはいない。
朝食を食べたならいいだろうと自分に言い訳をして、またマウスピースを唇に当てる。そこから、何度同じフレーズを吹いたのかは分からない。
譜面台には課題曲の譜面と、レッスン用のメモ帳。スマートフォンだけは時計代わりに、端へ置いていた。通知が届くたびに、見たいと思う。でも見ない。すぐに見たら、何かに負けるような気がした。
ミナからのメッセージは、私にとって救いだった。「春日美奈」からの通知が画面に現れるだけで、身体のどこかが少しだけ息を吹き返す。
――私はまだ、ミナに必要とされている。ミナの世界の中に、まだ私がいる。
そう思える。だからこそ、すぐには見ない。見たら、そこに甘えてしまう。ミナの言葉を読んで、泣いて、何もできなくなる。そのまま電話をかけたくなる。声が聞きたくなる。帰りたくなる。
だから、吹く。通知が届いても、吹く。手が震えても、息を入れる。
私は、トランペットを吹くためにここへ来た。自分の音を見つけるために。ミナの手を離してまで。ミナを日本に置いてきてまで――ここへ来た。
もう一度、同じフレーズを吹く。低音からゆっくり上がっていく。途中で音がわずかに揺れた。舌打ちしそうになるのを堪えて、もう一度。
違う。もう一度。
違う。もう一度。
息が足りなくなる。唇が熱を持つ。口角が少し痛い。肩も重い。それでも、やめられなかった。やめた瞬間に、ミナのことを考えてしまう。考え始めたら、もう止まらない。今、ミナは何をしているのだろう。
日本では、もう深夜だ。眠っているだろうか。それとも、まだ起きているのだろうか。大学には慣れただろうか。友達はできただろうか。ちゃんと笑えているだろうか。泣いていないだろうか。私のせいで、ひとりになっていないだろうか。
ミナは優しい。優しすぎる。だからきっと、大丈夫じゃなくても大丈夫だと言う。寂しくても、寂しいとは言わない。会いたくても、帰ってきてとは言わない。
そういう人だと、私は知っている。知っていて、それでも置いてきた。
その事実が、ふいに呼吸を塞ぐ。吹いていた音が、途中で崩れた。
「……っ」
マウスピースを唇から離す。荒く息を吐いた。
そのとき、譜面台の隅でスマートフォンが震えた。画面が一瞬、明るくなる。見ない。そう決めたはずだった。なのに、視線だけが勝手に動いた。
通知。差出人の名前。春日美奈。
胸の奥が、ひどく鳴った。
日本は、もう日付が変わっているはずだった。こんな時間まで起きていたのか。眠れなかったのか。私のせいで。
画面には数行だけ、文章の先頭が見えていた。
『奏。今日は、ちょっとだけ寂しいよ。』
息が止まった。
『奏に会いたい。声が聞きたい。』
スマートフォンへ手を伸ばしていた。でも、触れる直前で止まる。
今開いたら、既読がつく。既読をつけて、私は何も返さない。そんなことが、できるのか。
――いや、もう何度もしてきた。
ミナの言葉に既読だけをつけて、何も返さずにいる。読んでいるくせに、答えない。ミナがどんな気持ちで送っているのか分かっているくせに、受け取るだけ受け取って、何も返さない。
最低だ。分かっている。それでも、返さないと決めた。決めたのは私だ。私が勝手に、ミナから言葉を奪った。
画面が暗くなる。私はしばらく、何もできなかった。
練習室の空調の音だけが、妙に大きく聞こえる。窓の外は、まだ明るい。こちらでは昼前の光が、何も知らない顔をして芝生を照らしていた。
その明るさが、ひどく場違いだった。
日本の深夜に、ミナはこの言葉を打ったのだ。部屋の明かりを消していたのかもしれない。ベッドの中だったのかもしれない。ひとりで、スマートフォンの画面だけを見つめて。私の名前を打って。寂しいと、書いた。
――奏に会いたい。声が聞きたい。
たったそれだけの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
胸が痛かった。痛いなんて言う資格が、私にあるはずもない。寂しいのは、ミナの方だ。会いたいのも、ミナの方だ。待たされているのも、置いていかれたのも、全部、ミナの方なのに。私はそのミナの言葉を見て、救われそうになっている。
ミナがまだ私に会いたいと思ってくれている。声を聞きたいと思ってくれている。
そのことに、胸の底で安堵している。
最悪だ。本当に、最悪だ。私は自分の弱さを、ミナの寂しさで慰めようとしている。
トランペットを左手に提げたまま、空いた右手でスマートフォンを開く。指紋認証がうまく反応しなかった。指先が汗で湿っている。何度目かで画面が開き、トーク画面を表示する。
そこにあったのは、見えたはずの言葉ではなかった。
『春日美奈がメッセージを削除しました』
それだけが残っていた。思わず、喉の奥が鳴った。
消した。ミナが。あの言葉を。
読まれる前に消したつもりなのだろう。私に気を遣ったのだろう。寂しいと書いて。会いたいと書いて。
それを、消した。
私を困らせないために。私が自分を責めないように。私が帰りたいと思わないように。たぶん、そういうことなのだと思った。
次のメッセージが届いた。
『……メッセージを消しちゃった。誤字があっただけだから、気にしないでね。奏のいない生活にも、だいぶ慣れてきちゃったよ。』
誤字。そんなわけがない。本当に誤字だったのなら、どれだけよかっただろう。
あの数行は、誤字なんかじゃなかった。ミナの本音だった。
消される前に、見えてしまった。見てしまった。見なかったことには、できない。
気にしないでね――気にしないでいられるわけがない。
『奏のいない生活にも、だいぶ慣れてきちゃったよ。』
その一文を見た瞬間、胸の中に硬いものが落ちた。
――慣れてきた。
そうか。ミナは、私がいない毎日に慣れていく。当たり前だ。私がそうさせた。ミナにはミナの生活があって、大学があって、友達がいて、日々がある。私がいなくても朝は来る。授業はある。食事もする。眠る。笑うことだって、あるだろう。
そうでなければ、困る。ミナには、ちゃんと自分の人生を生きていて欲しい。
そう願っていたはずだった。なのに、慣れてきたという言葉が、こんなにも怖い。私はなんて身勝手なんだろう。
ミナには、私がいなくても笑っていて欲しい。でも、私がいなくても平気にはならないで欲しい。
そんな矛盾を、平然と抱えている。
それでも、ミナの言葉はまだ終わらなかった。
ミナは毎日、自然と私のことを考えていると書いていた。頭の中で勝手に話しかけてしまうのだと。私のことを好きになってから、それはずっと変わらないのだと。
読みながら、喉が熱くなった。ミナの中には、まだ私がいる。それが嬉しい。嬉しいと思う自分が、苦しい。
さらに読み進める。
『でもね……たまに思うんだ。奏と一緒に過ごした高校生活は、夢だったんじゃないかって。本当は、最初からずっと……わたしはひとりぼっちだったんじゃないかって。……なんてね。』
手が止まった。練習室の中の音が、全部遠のく。
夢。ひとりぼっち。ミナに、そんなことを思わせた。あの三年間を。私と一緒に過ごした時間を。私の音を。私の手を。私の言葉を。夢だったのではないかと。本当は最初から、ひとりだったのではないかと。
そう思わせた。
「……違う」
声が漏れた。誰もいない練習室に、ひどく小さく響いた。
違う。夢なんかじゃない。ミナはひとりなんかじゃなかった。私がいた。私が、確かに隣にいた。ミナと一緒に歩いた。笑った。吹いた。泣かせた。抱きしめた。キスをした。約束した。
全部、あった。全部、本当だった。今すぐそう伝えたかった。
トーク画面の入力欄を開く。親指が勝手に動いた。
『違う。夢じゃない。』
そこで止まる。続けて打つ。
『美奈はひとりじゃない。私がいる。ちゃんといるよ。』
目の奥が熱い。
『寂しい思いをさせてごめん。会いたい。私も会いたい。声が聞きたい。名前を呼びたい。今すぐ抱きしめたい。』
文字が滲んで見えた。送ればいい。送れば、ミナは救われるかもしれない。いや、救われるなんて言い方は傲慢だ。でも少なくとも、夢ではなかったと伝えられる。ひとりじゃないと伝えられる。私はまだミナを愛していると、言える。
送ればいい。
指は、送信ボタンの上で止まった。
――送ったら、終わる。何が終わるのかは、自分でも分からない。私の覚悟か。この沈黙か。自分を律するために張っていた、細い糸か。
一度送ってしまえば、私はきっと止まれない。次は声が聞きたくなる。その次は顔が見たくなる。その次は帰りたくなる。ミナが泣いていたら、私は何もかもを放り出して帰ってしまうかもしれない。
それくらい、私は弱い。だから、返さないと決めた。そうしなければ、私はここに立っていられない。
それに、今ここで返したら、どうして今なのだろうと思う。どうして昨日は返さなかったのか。どうして先月は、何も言わなかったのか。ミナが何度も送ってくれた言葉に、私はずっと既読だけをつけてきた。寂しい日も、不安な日も、きっとあったはずなのに。
今この瞬間だけ返事をしたら、それまでの沈黙は何だったのだろう。ミナを傷つけてまで守ってきたものが、夢でも覚悟でもなく、ただの私の意地だったと認めることになる。
そんなことは、とっくに分かっているはずだった。それでも認めてしまったら、もうここにはいられない気がした。
だけど――それは、ミナを傷つけていい理由になるのか。
送信ボタンの上で、指が震える。ミナのメッセージはまだ続いていた。
『でも……ちゃんとわかってるよ。奏が残してくれたトランペットも、奏がつないでくれた人たちも、ちゃんとわたしのそばにある。だから、わたしはひとりじゃないし、わたしの恋人は、やっぱり奏。だよね?』
だよね。そんなことを、ミナに言わせた。答えを求める形に見えて、きっとそうじゃない。ミナは自分で自分に言い聞かせている。わたしの恋人は奏。そう必死に確かめている。
その問いに、私は答えない。答えられるのに、答えたいのに――答えない。
私は何をしているんだろう。こんなものが覚悟なのか。こんなものが愛なのか。私はミナを支えるために、ここへ来たのではなかったのか。ミナの隣に立てる人間になるために、遠くまで来たはずじゃなかったのか。
なのに――今の私は遠くからミナの寂しさを読んで、返事もせずに泣きそうになっているだけだ。
入力欄の文字を見る。
『違う。夢じゃない。美奈はひとりじゃない。私がいる。ちゃんといるよ。寂しい思いをさせてごめん。会いたい。私も会いたい。声が聞きたい。名前を呼びたい。今すぐ抱きしめたい。』
この言葉は、今のミナに必要なのかもしれない。でも、私が送っていい言葉なのだろうか。ミナは、私の沈黙を信じてくれている。私が返さないことに、意味を見出そうとしてくれている。
そのミナの信頼を、私が壊していいのか。
いや、本当は違う。私は、信頼を守るふりをしているだけだ。送ったあと、自分が崩れるのが怖い。ミナに甘えてしまうのが怖い。ミナの優しさに包まれて、もう頑張れなくなるのが怖い。
私はミナのためと言いながら、結局、自分を守っている。
そのことが分かっていても――それでも、送れなかった。
文字を全部消した。ひとつずつ。
違う。夢じゃない。美奈はひとりじゃない。私がいる。ちゃんといるよ。会いたい。私も会いたい。
最後の一文字まで消えた、入力欄を見つめる。空白だけが残った。そこへ、ミナの最後の言葉が表示されていた。
『奏。ちゃんと夢を、叶えてきて。奏の夢は、わたしの夢でもあるんだから。奏が夢を叶えてくるって、わたしは一番に信じてるよ。』
トランペットを持つ手に、力が入った。
ミナは、最後には必ず私の夢を応援する。自分が寂しいと言ったあとでも。夢だったんじゃないかと不安をこぼしたあとでも。ひとりぼっちだったのではないかと書いたあとでも。
最後には、私の夢を信じる。
どこまで優しいのだろう。どこまで強いのだろう。そして私は、どこまで卑怯なのだろう。
スマートフォンを伏せる。
既読は、ついた。もう、ついてしまった。ミナはそれを見て、きっと思うのだろう。読んでくれた。元気でいてくれた。そうやって、自分をまた納得させる。私は、その優しさに甘えている。ひどい女だ。本当に。
膝から力が抜けた。楽器をケースに戻すこともできないまま、私は壁際まで数歩下がり、そのまま床に座り込んだ。トランペットはまだ手の中にあった。伸びた髪が顔に落ちて、視界を塞ぐ。払う気力もなかった。
窓の外では、まだ昼の光が揺れている。
日本では、ミナはもう眠っただろうか。それともまだ、暗い部屋でスマートフォンを見ているのだろうか。私がつけた既読を見て、安心しているのだろうか。それとも、泣いているのだろうか。
考えても分からない。分からないことばかりだった。分かるのは、自分が何も返さなかったという事実だけだった。
髪を切る時間があるなら、練習する。そう思っていた。でも本当は、髪を切る時間すら惜しいほど努力している自分でいたかっただけなのかもしれない。頬が削げて、目の下に影ができて、食事も睡眠も雑になって。
それを、頑張っている証拠みたいに扱って。
私は何をしているのだろう。
ミナは、きっとこんな私を見たら怒るだろう。ちゃんと食べて。ちゃんと寝て。無理しないで。そう言うだろう。そして私はその言葉を聞いたら、きっと泣く。それが分かっているから、聞けない。聞きたいのに。
トランペットを椅子の座面へそっと横たえる。鞄からいつも持ち歩いているノートを取り出して、膝の上で開いた。もう何度も開いたせいで、端が少し折れている。ページのいくつかは、滲んだインクの跡が残っていた。
ペンを握る。最初の一文字を書くまでに、しばらくかかった。
『美奈、寂しい思いをさせてしまって、本当にごめん。』
書いた瞬間、目元が熱くなる。
『美奈が消したメッセージ、少しだけ見えてしまったんだ。誤字だったって、美奈は笑って言うかもしれないけれど、多分、そうじゃない気がしたんだ。違ってたら、ごめん。』
ペン先が少し震えた。違っていて欲しかった。本当に誤字だったなら――ただの打ち間違いで、私の思い過ごしで、ミナは何も苦しんでいなかったのだとしたら。どれほど救われただろう。
でもきっと、違う。
ミナは寂しかった。会いたかった。声を聞きたかった。それを、私に読ませないように消した。その優しさを見てしまった。私は、もう知らないふりができない。
『この沈黙の中で、私はずっと考えていた。美奈は、ちゃんと笑えているだろうか。私が選んだこの四年間の距離が、美奈をどれだけ不安にさせているだろうか、と。』
書けば書くほど、自分の罪状を書き連ねているようだった。
私はミナに返事をしない。でもノートには書く。届けない言葉だけは、いくらでも書ける。
どこまでも卑怯だと思う。それでも、書かずにはいられなかった。
書かなければ、今すぐミナに電話してしまいそうだった。書かなければ、今すぐ帰りの航空券を探してしまいそうだった。
私はペンを握りしめ、乱れた息を整える。
『美奈ならきっと、「それでよかった」って言ってくれるんだろうね。たとえ泣いていたとしても、笑ってそう言ってくれるんだ。そんな美奈の強さが、私を救うと同時に、苦しくもさせる。』
違う。苦しくしているのはミナじゃない。私だ。ミナの優しさに救われながら、その優しさを苦しさに変えているのは、私自身だ。
でも、そのまま書く勇気はなかった。私はまだ、弱さを弱さのまま差し出すことができない。だから今日も、ノートの中に逃げる。
届かない場所へ、言葉を積む。
『美奈。美奈の想いが、私を支えている。毎日、美奈の言葉を思い出す。美奈の手のあたたかさを、脳裏に浮かべる。そして、美奈が私のトランペットがあるから大丈夫と言ってくれたことも。』
顔を上げる。椅子の上のトランペットは、練習室の灯りを受けて鈍く光っていた。この音は、何のために鳴るのだろう。夢のため。自分のため。ミナのため。
どれも正しい気がする。どれも、言い訳のような気もする。
それでも、私は吹くしかない。吹くことでしか、ここにいる意味を確かめられない。吹かなければミナを置いてきたことが、本当にただの傷になる。
そんなのは嫌だった。ミナの痛みを、無意味にしたくない。私の身勝手を、せめて何かに変えたい。
音に。未来に。いつか、ミナの隣で胸を張って吹ける、私だけの音に。
『美奈が私をひとりじゃないと思わせてくれるように、私も、そう思ってもらえるような存在になりたい。今はまだ、胸を張ってそう言えないけれど。』
書きながら、唇を噛んだ。
今はまだ。私はミナをひとりにしている。なのに、いつかそうなりたいなんて。願うだけなら、いくらでもできる。でも、ミナが今夜、寂しいと書いて消した事実は消えない。私が何も返さなかった事実も、消えない。
『だけど、明日になったら、もう一歩だけ前に進んでみる。まだ足りなくても、まだ遠くても。私は美奈の夢を背負って、音を吹く。』
ペンを止める。
美奈の夢。その言葉が、自分で書いておきながら怖かった。
背負うなんて、簡単に言っていいのか。ミナは私に夢を預けたわけじゃない。私が勝手に、ミナの優しさを背負った気になっているだけかもしれない。
それでも、ミナは書いてくれた。
――奏の夢は、わたしの夢でもあるんだから。
そんなことを言われて、立ち上がらないわけにはいかない。立ち上がれない自分で、いたくなかった。
『美奈が、信じてくれるから。美奈が、私の恋人だから。』
その一文を書いたあと、少しだけ目を閉じた。
美奈の恋人。まだ、そう名乗っていいのだろうか。私は何ひとつ返していない。寂しいと書かせて。会いたいと書かせて。それを消させて。その上で、まだ恋人でいたいと思っている。
どこまでも身勝手だ。それでも。それでも、失いたくない。ミナの恋人でいたい。ミナの名前を呼ぶ権利を、手放したくない。
その醜さごと、ノートに書いてしまいたかった。けれど今は、まだ書けなかった。代わりに、最後の言葉を書く。
『美奈、愛しているよ。何度言っても足りないけれど、それでも言いたい。私の恋人が、美奈でよかった。心から、そう思っている。』
ペンを置く。ページの端に、少しだけインクが滲んでいた。
泣いてはいなかった。たぶん。でも目の奥は熱くて、呼吸は浅かった。
私はノートを閉じ、椅子の上のトランペットを取り上げた。壁に手をつきながら立ち上がると、膝が少し笑った。譜面台の前へ戻り、スマートフォンをもう一度見た。トーク画面には、ミナの長いメッセージが残っている。
削除された言葉の痕跡と。誤字だったという、優しい嘘と。それから、既読。私がつけた、返事の代わりにもならない印。
日本では、深夜。ミナはもう、眠っているかもしれない。私の既読だけを確認して、少し安心して。自分の寂しさを、またひとつ胸の奥にしまって。眠っているかもしれない。
その想像が、胸を刺した。
画面に手を伸ばす。もう一度入力欄を開きそうになって、やめた。代わりにトランペットを持ち直す。
唇は痛い。身体も重い。髪は邪魔で、顔に張り付いている。
それでも、吹く。吹くしかない。
ミナに返せなかった言葉を、いつか音にして返すために。そんな都合のいい言い訳を、私はまたひとつ抱えた。
楽器を構える。息を吸う。最初の音は、少しだけ震えた。でも、止めなかった。震えたまま、続けた。
会いたい。声が聞きたい。名前を呼びたい。夢じゃない。ひとりじゃない。愛している。
口にできなかった言葉が、息に混ざっていく。誰にも届かない真昼の練習室の中で、私はひとり、音を鳴らし続けた。
訊かれた音の行き先を、私はまだ言葉にできなかった。けれど、息を入れるたび、その音は海の向こうを向いた。ミナのいる場所へ。届かないと知りながら。
ミナの名前を呼ぶ代わりに。ミナに返事をする代わりに。
届かない音を、何度も、何度も。




