小噺 好きが違う(第二十七話番外編)
インターホンの音が鳴った。薄い眠りの膜を、突然鋭い針で突き破られたようだった。
まぶたを開くと視界はまだぼやけていて、白い天井がどこか知らない場所のものに見えた。ここが修学旅行先のホテルだと思い出すまでに、ほんの数秒かかった。そのすぐあとに、ミナがいることを思い出した。
いや――思い出したというより、先に身体が気づいた。
ベッドの端に、誰かの重みがある。顔を少し横へ向けると、ミナがこちらを見つめていた。何かに驚いたような顔で、右手を宙に浮かせている。指先は、私の前髪へもう少しで触れそうな場所にあった。
どうしたの、と聞こうとした。けれど、もう一度インターホンが鳴った。
「……ん? 何……誰……」
眠気の残った声が出る。ミナが慌てて手を引っ込め、立ち上がろうとした。
「ミナはいいよ……」
私は反射的にそう言った。今日、ミナはずっと気を張っていた。浜野凪に振り回され、村田彩芽にも気を遣って、そのうえ、私の子どもみたいな行動にも付き合わされた。私が勝手に班を抜けたせいで、ミナは追いかけてきてくれた。運河のそばで私を見つけて、何も責めず、髪まで撫でてくれた。だから、少しくらい休ませてあげたかった。
私は身体を起こし、まだ重い足で扉へ向かった。インターホンを鳴らした相手が誰であっても、適当に対応して追い返せばいい。それに、浜野凪か葛城澪音だったら最悪だ。そんな軽い気持ちで扉を開けた。
「あっ……松波」
そこに立っていたのは、男子生徒だった。顔に見覚えはあるような気がするけれど、名前までは分からない。男子生徒は私の背後を窺うように、少しだけ首を伸ばした。
「あのさ、春日って……この部屋? 今いる?」
「ミナ?」
――誰? どうしてこの人が、ミナを訪ねてくるんだろう。
「いるけど……」
疑問に思いながら振り返ると、ミナがベッドのそばで立ち上がっていた。男子生徒はミナの姿を見つけた途端、ほっとしたように表情を緩めた。
その変化を見て、私はすぐに察した。なるほど。この人は、ミナに何か大切な話をしに来たのだと思った。
「ねえ、ミナ。この人誰」
私はミナのそばへ戻り、小声で尋ねた。詰問するつもりはなかった。ただ、ミナが困っているなら間に入ったほうがいいと思った。あまり親しくない相手なら、断る理由を作ってあげてもいい。
「同じクラスの誉田くんだよ……。去年も一緒だったから、名前だけは知ってるけど……わたしも、そんなに話したことは……」
「ふうん」
やっぱり、親しいわけではないらしい。それなのに、わざわざひとりで部屋まで来た。それも、修学旅行の夜に。たぶん――用件は、ひとつしかないだろう。
誉田は少し緊張した顔で背筋を伸ばし、ミナを見た。
「あのさ……春日、ちょっとだけ。話したいことがあるんだけど」
その声に、ミナの身体が小さく強張った。そして、困ったように私を見る。私は一瞬、どうすればいいのか考えた。
ミナは、誉田とほとんど話したことがないと言った。二人きりになることを嫌がっているのなら、断ってもいい。私が代わりにそう伝えることもできる。
でも――ミナは、何も言わなかった。嫌だとも、行きたくないとも言わない。ただ、私を見ている。その表情の意味を、私は上手く読み取れなかった。だから、勝手に答えを決めてはいけないと思った。
『ほら、松風さんって子どもっぽいし……本当は、気を遣ってるんでしょ? あんな人、もう放っておきなよ』
日中、浜野凪に言われた言葉が蘇る。私はあの人の挑発に乗って嫉妬して、ミナに追いかけてもらったばかりだった。子どもっぽい。あんなふうに自分の感情だけでミナを振り回すのは、もうやめなければいけない。
ミナには、ミナの世界がある。私の知らない友達もいる。これから先、私以外の誰かを大切に思うこともある。誰より大切な友達だからといって、私がその全部へ口を挟んでいいわけではない。
私はルームキーを手に取って、ミナへ差し出した。
「……ミナ、私は留守番してるから。行ってきていいよ」
ミナは、すぐには受け取らなかった。私の手の中にあるカードキーと、私の顔を交互に見ている。私は安心させるように、少し笑った。
大丈夫。私は別に怒っていない。ミナが誉田と話したからといって、私たちの関係が変わるわけではない。それを伝えたかった。
やがてミナは、ためらいながらルームキーを受け取った。
「……じゃあ、行こっか」
誉田が先に歩き始める。ミナも、その隣へ並んだ。扉が閉まる直前、ミナはもう一度私を振り返った。その顔は、ひどく不安そうに見えた。
行きたくなかったのだろうか。一瞬、呼び止めようかと思った。でも、ミナは自分で歩き出した。私が引き止めれば、ミナはきっとまた私を優先してしまう。
そういう子だから。だから私は、もう一度笑った。
行ってきな。声にはしなかったけれど、そう伝えたつもりだった。
扉が閉じる。電子錠の音が小さく響き、部屋が静かになった。私は、さっきまでミナが座っていたベッドへ視線を向ける。シーツが少しだけ沈んでいた。
ミナは私が眠っているあいだ、何をしていたんだろう。手を伸ばしていた。私の前髪でも直そうとしていたのかもしれない。ミナは世話焼きだから。
そんなことを思いながら、ベッドへ腰を下ろした。
誉田は、きっとミナに告白する。ほとんど話したこともない相手を好きになるという感覚は、私にはよく分からなかった。
でも、ミナが誰かに好かれること自体は、全く不思議ではない。
ミナは可愛い。優しい。人の痛みに敏感で、いつも自分より相手のことを考える。普段はおとなしいのに、誰かのためなら驚くほど強くなれる。
誉田も、何かのきっかけでそういうところを知ったのだろう。
ミナが誰かに好かれる。それは、喜ばしいことのはずだった。
私はベッドへ背中を預け、天井を見上げた。
もしも、ミナが誉田と付き合ったら。一緒に帰る時間は減るのかもしれない。休日も、今までみたいに気軽には誘えなくなる。楽団の練習が終わったあと、誉田が迎えに来ることだってあるのかもしれない。
そこまで想像して、少し寂しいと思った。だけど、それはきっと自然なことだ。ずっと一緒にいた友達に恋人ができれば、誰だって多少は寂しい。だからといって、引き止める理由にはならない。
ミナの世界が広がることを、私は喜ばなければいけない。ミナは私と出会ってから、色々な場所へ来てくれるようになった。トランペットを始めた。楽団へ入った。知らない人とも話せるようになった。
私の隣にいることで、ミナの世界が少しでも広がったのなら嬉しい。でも、広げた世界の全部に、私がいなければならないわけではない。そんなのは、ミナの成長を邪魔することになる。私は、ミナを閉じ込めたいわけじゃない。
ミナには幸せになって欲しい。それが、私の知らない幸せだったとしても。
胸の中に、少しだけ空洞ができるような感覚があった。けれど、気にするほどのものではないと思った。寂しさなんて、慣れればいい。私はもともと、一人でいるのが苦ではない。
ミナに恋人ができても、私たちは親友だ。何も終わらない。そう思うと、どこか安心した。誰かと付き合ったからといって、ミナが私の前からいなくなるわけではない。一緒にトランペットを吹く。くだらない話をする。たまには泊まりにも来る。
恋人と親友は、別のものだ。どちらも大切にすればいい。
きっと、それだけの話だった。
だからミナが戻ってきたら、ちゃんと話を聞こうと思った。告白を受けたなら祝福する。断ったなら、理由を聞かずにそばにいる。
どちらを選んでも、私はミナの味方だ。私は、ミナの親友だから。
***
どれくらい経ったのか分からない。扉のロックが外れる音がして、私は顔を上げた。
「お帰り」
そう言おうとして、言葉が一瞬止まった。入ってきたミナの顔が、ひどく青ざめていた。目元が赤い。唇はかすかに震えていて、呼吸も浅い。
泣いていた。
誉田に何か言われたんだろうか。無理に返事を求められたのかもしれない。断ったら、傷つくようなことを言われたのだろうか。
心配が一気に込み上げた。けれど、ミナは今にも崩れそうだった。問い詰めるような聞き方はしたくない。だから私は、できるだけ普通の声を出した。
「お帰り。遅かったね。さっきの話……もしかして、告白だったの?」
ミナの肩が揺れた。やっぱり告白だったらしい。だったら、まずはミナを安心させたかった。私が怒っていないこと。何を選んでも、関係は変わらないこと。それを伝えれば、少しは落ち着くかと思った。
「ミナに彼氏か……。ははっ。ちょっとだけ寂しくなるね。でも……ミナが幸せなのが、一番だよ」
それは、少なくともそのときの私にとって、紛れもない本心だった。本当は寂しい。それでも、ミナが誰かに大切にされるのなら、それは良いことだ。私が少しくらい我慢すればいい。ミナが幸せなら、それでいい。そう思っていた。
だから――ミナの顔が歪んだ理由が、私には分からなかった。
「やめてよ……! カナデに、わたしのことなんて……!」
低く、震えた声。怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。いつもと違うその様子に、私は思わず立ち上がった。
「ミナ、どうしたの。なんか変だよ。さっきの奴に、何か言われたの」
ミナの腕を掴む。体温は驚くほど冷たかった。ミナは、私の手から逃れようとして、身体を捩った。
「やだ……! もう、放っておいて……!」
拒絶された。そのことに、途端に胸がざわつく。でも今は、自分が傷ついている場合ではない。
「放っておけるわけないじゃん……! ミナ、何があったの」
ミナは泣いている。苦しそうにしている。放っておけるはずがない。だって私は、ミナの味方だ。だから、何があったとしても――私はミナを守りたい。
「……カナデの言う通り、告白されたよ」
低く、吐き出すような声だった。ミナがそんな声を出すのを、私は初めて聞いた。
告白された。それ自体が嫌だったのだろうか。でも、誉田はミナへ真剣に話をしに来たように見えた。ミナが嫌なら断ればいい。もし嫌ではないなら、付き合ってみるのも悪くない。ミナには、そういう選択をして欲しかった。
「そっか。良かったじゃん。付き合わないの?」
そう言った瞬間、ミナの目から涙が溢れた。私は言葉を失った。
何かを間違えた。でも、何を間違えたのか分からない。
「……なんで、そういうことを、言うの……」
ミナの声が、ひどく掠れていた。
どうして。どうして、そんなに傷ついた顔をするんだろう。私はただ、ミナの気持ちを尊重したかった。無理に断れとも、付き合えとも言っていない。ミナが望むなら、応援したかっただけだ。
「……だってミナ、彼氏欲しがってなかった? クリスマスの頃とか」
日菜子たちと出かけた日、ミナは指輪を見ていた。自分の薬指に嵌めて、どこか羨ましそうな顔をしていた。だから誉田の告白は、ミナが望んでいたものに近いと思った。その記憶を伝えれば、ミナも自分の気持ちを整理できるかもしれない。そう思っただけだった。
なのに。
「……カナデは! カナデにだけは……! そんなこと……言われたくなかった……!」
叫び声が部屋に響いた。ミナは力任せに、私の腕を振り払った。指先に、ミナの冷たさだけが残る。
どうして、私にだけは言われたくないの。誉田に何か言われたからじゃなくて、私の言葉で泣いているの?
私は、ミナを傷つけたいわけじゃない。誰より大切だから、幸せを願っている。その気持ちだけは、間違っていないはずなのに。
「ミナ、どうしたの……落ち着いてよ」
自分の声が、動揺に揺れていた。ミナは両手で顔を覆い、肩が大きく震えている。私は近づくことも、離れることもできなかった。
触れたら、また振り払われるかもしれない。でも、泣いているミナをそのままにはできない。
どうすればいい。何を言えばいい。
「カナデは……わたしのこと……なんにもわかってない……」
息が止まった。その言葉は、今までミナから向けられた何よりも痛かった。
――私は、ミナのことを分かっているつもりだった。
人前では緊張すること。甘いものが好きなこと。自分の気持ちを言うのが苦手なこと。誰かに迷惑をかけたと思うと、すぐに自分を責めること。怒るときでさえ、自分より相手の痛みを心配すること。私の音を、誰よりも大切にしてくれること。私がいなくなると、追いかけてくれること。
全部、知っていると思っていた。でもミナは、何も分かっていないと言う。じゃあ、私は何を見ていたんだろう。
「わたし……わたし……!」
ミナが必死に言葉を探している。息が細かく途切れて、上手く声にならない。
私は待った。急かしてはいけない。ミナが話せるまで、待とうと思った。何を言われても、受け止めるつもりだった。
「カナデのことが……好きなのに……! なんで……なんでわかってくれないの……!」
言い切った瞬間、ミナの膝が崩れた。床へ落ちるように座り込み、細い嗚咽が、指の隙間から漏れていた。一瞬、何を責められているのか分からなかった。
ミナが私を好き。そんなことは、知っている。ミナは私のことを大切にしてくれる。私もミナを大切にしている。だから、その言葉を否定する理由なんてなかった。むしろ、今まで何も分かっていないと思わせてしまったことを、安心させたかった。
ミナの好意は、きちんと届いている。私はミナを拒まない。何があっても、大切な友達でいる。
私は一度、目を伏せた。そして、いつものように少しだけ笑って、私が持っている一番大きな気持ちをそのまま返した。
「私もミナのこと、好きだよ」
迷いはなかった。嘘でもなかった。
ミナが好き。誰より大切。離れたくない。ずっと隣にいて欲しい。
その全部を込めたつもりだった。きっとミナも、これで安心してくれる。私たちは何も壊れていない。誉田に告白されたとしても、ミナが取り乱したとしても、私がミナを好きなことは変わらない。
そう伝わると思った。けれど――ミナは、救われた顔をしなかった。
むしろ、何かを完全に諦めたような顔をした。涙を乱暴に拭い、ふらつきながら立ち上がる。私を見る瞳が、知らないものを見るように揺れていた。
「ちがう……」
小さな声だった。
何が違うの。私もミナが好き。ミナも私が好き。同じことを言っているはずなのに――ミナは唇を震わせ、痛みに耐えるように息を吸った。
「カナデの『好き』と……わたしの『好き』は……違うの……!」
――違う。何が。
声に出したつもりだった。けれど、ほとんど息にしかならなかった。
ミナはそのまま、逃げるように扉へ向かう。
「ミナ……」
ようやく名前を呼んだ。それでも、ミナは振り返らなかった。
反射的に手を伸ばす。いつもなら、迷わず腕を掴んでいた。逃げないで。ちゃんと話して。そう言って、こちらを向かせていた。でも、今は触れられなかった。
さっき腕を掴んだとき、ミナは私の手を振り払った。私が近づくほど、ミナは苦しそうな顔をした。また触れたら、もっと傷つけるかもしれない。そのことだけが怖くて、伸ばした手が宙で止まった。
扉が開く。待って、と言わなければいけない。でも、何を言えばいい。私も好きだと、もう一度伝える? それでは駄目だった。
ミナは私に何を求めていた? 何を返して欲しかった?
分からない。私は、ミナのことを何も分かっていない。
ミナの言った通りだった。
扉が閉まり、電子錠の音が小さく響いた。私は伸ばしかけた手を下ろせずに、しばらくその場へ立っていた。
「……『好き』が、違う……?」
自分の声が、知らない人のものみたいに聞こえた。
ミナは誉田に告白された。私は付き合えばいいと言った。するとミナは、私にだけはそんなことを言われたくなかったと泣いた。カナデのことが好きなのに、と叫んだ。私が好きだと返したら、それとは違うと言った。
一つずつ言葉を並べる。並べても、意味が分からない。いや――分からないふりをしているだけなのかもしれない。
誉田がミナへ向けた「好き」。ミナが私へ向けた「好き」。もしも、そのふたつが同じものだとしたら。
「まさか……」
――恋愛。その言葉が浮かんだ瞬間、心臓が大きく鳴った。
違う。そんなはずはない。ミナは私の親友だ。私はミナの親友で。だから好きで。ずっと、それだけだった。でも、ミナは「違う」と言った。
ミナは、私を――。
そこから先を考えるのが、怖かった。もしも本当にそうだとしたら、私は今まで、ミナの何を見ていたことになるんだろう。
答えが出る前に、急に身体が冷たくなった。
ミナがいない。閉じた扉の向こうから、もう足音も聞こえない。
「……ミナ?」
呼びかけても、返事はなかった。恋愛かどうかなんて、今はどうでもよかった。
追わなければ。考えるより先に、私は扉へ駆け寄った。廊下へ出る。右を見る。いない。左にも、誰もいない。
「……ミナ!」
名前が、ホテルの廊下へ響いた。どこからも、返事はなかった。
エレベーターホールまで走ると、階数表示は一階へ向かって下がっていた。ミナが乗ったのかもしれない。階段へ向かい、扉を開ける。誰もいない。階段を駆け下りる。一階。ロビー。自動販売機の前。化粧室の近く。人影を見つけるたびに足を止め、顔を確かめる。
違う。違う。
ミナじゃない。
呼吸が速くなる。胸の奥が痛い。それでも、止まれなかった。
外へ出た? 知らない場所なのに。何も持たずに。そこまで考えたところで、ようやく足が止まった。
ミナのスマートフォンも、財布も、部屋に置かれたままだった。ミナはルームキーだけを持って、飛び出していった。
背中が急に冷たくなる。
外へ出ていたら、どうする。道に迷っていたら。知らない場所で、ひとりで泣いていたら。誰かに声をかけられても、ミナは強く断れないかもしれない。私が探していることも知らないまま、どこかへ歩き続けていたら。
「……ミナ」
名前を呼んでも、返事はない。もう一度ロビーを見回すけれど、ミナはいない。
ホテルの出入口へ向かい、ガラス扉の向こうを覗く。夜の道路を、知らない車が通り過ぎていく。歩道には何人か人がいたけれど、その中にもミナはいなかった。
外へ出ようとして、足が止まった。どちらへ行けばいい。右? 左? ミナがどこへ向かったのか、何も分からない。見当もつかないまま外へ出たら、入れ違いになるかもしれない。
でも、ここに立っていても見つからない。どうすればいい。何をすればいい。考えようとするほど、頭の中が白くなっていく。
私は震える手で、スマートフォンを取り出した。ミナの名前を開く。
『美奈、どこにいるの』
そこまで打って、指が止まった。送っても、ミナには届かない。ミナのスマートフォンは、部屋に置かれたままだ。
分かっていたはずなのに、それでも私は、送信ボタンを押した。
すぐに既読がつくはずもない画面を見つめる。何をしているんだろう。こんなことをしても、ミナは見つからない。電話をかけようとして、やめた。呼び出し音が鳴るのは、誰もいない部屋だけだ。
連絡できない。ミナへは、何も届かない。その事実が、急に恐ろしくなった。
「……どうしよう」
声が震えた。私はガラス扉の前で立ち尽くした。
ミナは、私を嫌いになった? もう顔も見たくないと思った?
さっきまで、ミナは私を好きだと言っていた。でも、好きだからこそ、もう耐えられなくなったのかもしれない。私から逃げたのなら、私が探しても、もっと遠くへ行ってしまうかもしれない。
だったら、誰なら。ミナが、私以外の誰かを頼るとしたら。
そこでようやく、ほかの人間の顔が浮かんだ。
若葉。日菜子。
ミナが困ったとき、私に言えないことまで話せそうな相手。どうして、すぐに思い出せなかったんだろう。
私は慌てて、若葉とのトークルームを開いた。
『美奈、そっちに行ってない?』
送信する。既読がつくまでの数秒が、耐えられなかった。
画面を閉じる。また開く。まだ、つかない。電話をかけようとして、指を止める。迷惑かもしれない。もう寝る準備をしているかもしれない。そんな考えが浮かんで、すぐに消えた。
今は、そんなことを気にしている場合じゃない。通話ボタンへ指を伸ばした瞬間、画面が震えた。
『美奈氏、うちの部屋で保護してるぜ。』
その文字を見た途端、息が抜けた。
ミナはいた。無事だった。
『迎えに行っていい?』
すぐに送ると、既読の文字がついた。返事を待つあいだ、心臓がうるさかった。だけど、若葉からの返事は短かった。
『今は、やめといた方がいいと思うぜ。』
私は画面を見つめる。
今はやめた方がいい。ミナが、私に会いたくないと言っているのだろうか。
『かなり泣いてて、日菜子氏が一緒にいる。何があったかは聞かないけどさ、今日は任せてくれよ。松波奏も、無理すんな。』
まだ泣いている。私のせいで。本当は、今すぐ会いに行きたかった。謝りたかった。抱きしめて、大丈夫だと言いたかった。
でも、それは誰のためだろう。ミナのためではない。私が安心したいからだ。
自分が嫌われていないと確かめたい。戻ってきて欲しい。それだけだ。
私はしばらく、画面へ指を置いたまま動けなかった。
『分かった。ありがとう。』
そして、それだけを送った。
無事だと分かったのに、胸は軽くならなかった。ミナは、すぐ近くの部屋にいる。それなのに、私は会いに行けない。
さっきまでミナは、手を伸ばせば触れられる場所にいた。私の髪へ手を伸ばしていた。今はどこにいるか分かっているのに、どうしようもなく遠かった。
部屋に戻ると、ミナのスマートフォンが目に入った。丁寧に畳まれた服。床に置かれた荷物。ただ、本人だけがいない。
私はミナのベッドへ近づき、シーツへ触れた。冷たい。その冷たさで、ようやく私は実感した。
ミナは今、苦しい夜を、私ではない誰かの部屋で過ごしている。恋人ができても、親友として何も変わらない。私は、さっきまで本気でそう思っていた。でも、ミナが今夜逃げ込んだのは、私のところではなかった。
それが、自分で想像していたどんな未来よりも怖かった。
私はベッドの端へ座り、両手を見つめた。この手で、何度ミナに触れただろう。頬へ触れた。髪を撫でた。抱きしめた。同じ布団へ引き込んだ。何の疑いもなく、身体を預けた。そのたびに、ミナは何を思っていたんだろう。
嬉しかった? 苦しかった? 私も同じ気持ちだと、期待した?
私は何も知らずに、誉田と付き合えばいいと笑った。私にとっては、ミナの選択を尊重する言葉だった。
でも、ミナにはきっとこう聞こえた。
――私はあなたを、恋人としては選ばない。別の誰かと幸せになればいい。
「……私、ミナに何したの」
声が、誰もいない部屋へ落ちた。
善意だった。ミナを大切にしたかった。幸せになって欲しかった。それは全部、本当だった。でも、私の「好き」は、ミナを救わなかった。
優しく送り出したつもりだった。幸せを願ったつもりだった。好きだと返したつもりだった。
その全部で、ミナを泣かせた。
私はスマートフォンを開いた。検索欄へ文字を打つ。
『友情 恋愛 違い』
いくつかの記事を開き、目についた言葉を追う。独占欲。嫉妬。触れたい気持ち。将来も一緒にいたい。相手の特別でいたい。並んだ言葉は、どれも自分の中にあった。
浜野凪にミナを取られそうになったとき、腹が立った。追いかけてきてくれたとき、ひどく安心した。ミナがほかの誰かと笑っていると、目で追った。触れると、落ち着いた。
ミナが女の子だということは、不思議なくらい気にならなかった。そもそも私は、自分が誰かを恋愛として好きになること自体を、今まで考えたことがない。それでも――これが本当に恋愛なのかは分からなかった。私はミナ自身が好きなのか。それとも、私を選んでくれるミナが必要なだけなのか。
もし後者なら――私はミナを好きなのではなく、利用していることになる。そんなつもりはなかった。ミナには笑っていて欲しい。幸せになって欲しい。私がいない場所でも。
――でも、私がいない場所で幸せになられるのは嫌だった。
その矛盾だけが、どうしても消えない。喉の奥が痛くなる。涙が出た。だけど、自分が泣く資格なんてないと思った。
泣いているのはミナだ。傷つけられたのもミナだ。それでも、涙は止まらなかった。
ミナがいない。名前を呼んでも返事がない。もう戻ってこないかもしれない。それが、こんなにも怖い。
ふいに、ほのかの顔が浮かんだ。私が部活を辞めたあと。学校へ行かなくなったあと。ほのかも、私を探したのだろうか。電話をかけて。教室を覗いて。空いたままの席を見て。
私はずっと、自分が捨てられた側だと思っていた。でも、私は私で、何も言わずにいなくなった。相手のために離れたつもりだった。もう必要ないから、自分が消えればいいと思った。でも今、私はミナへも同じことをしようとしていた。
誉田と付き合えばいい。私は寂しくても、一人で平気。そうやって私は――ミナに選んでもらうのが怖くて、自分から退こうとしたのかもしれない。そして、それを優しさだと思っていたのかもしれない。
怖かったのは、私だった。そこまで気づいた瞬間、涙がまた落ちた。
朝まで、私はほとんど眠れなかった。窓の外が少しずつ白くなっていく。隣のベッドは、ずっと空いたままだった。
恋愛として好きなのか――まだ、分からない。それでも、答えが出るまで黙ったままでいることはできなかった。一人で考え続ければ、私はまた自分に都合のいい答えを作る。ミナのためだと言って、勝手に離れる。
今度それをしたら、本当に失う。それだけは嫌だった。
制服へ着替える。鏡の中の自分は目が赤くて、髪も乱れていた。直そうとしたけれど、上手く指が動かなかった。
朝食会場へ向かい、ミナの姿を探す。いない。若葉たちの席にも、ミナの姿はなかった。私は料理へ手を付けることもせず、そのまま部屋へ引き返した。
扉を開ける。
「……ミナ?」
呼びかけても返事はない。ベッドも、荷物も、昨夜のままだった。
ミナはまだ、戻っていない。
それから何度も時計を見た。班行動の集合時間が近づいても、ミナは部屋へ戻ってこなかった。もしかしたら、若葉たちと一緒に集合場所へ向かったのかもしれない。そう思ってロビーへ下りたけれど、やはり姿はなかった。
私は人の流れを避けながら新町先生を探し、ようやく声をかけた。
「先生。ミナ……春日さん、知りませんか」
「春日さんなら、体調が悪いので班行動を休むとおっしゃっていましたよ。今日は部屋で休むそうです。松波さん、ご存知ではなかったのですか?」
体調が悪い。違う。きっと私に会いたくないんだ。そう思った瞬間、身体が冷たくなった。
「先生」
声が掠れた。
「春日さんが心配なので、私も班行動を休みます」
返事を聞かずに、私は歩き出した。集合場所へ向かう生徒たちの流れを逆に進む。
胃が痛い。胸が苦しい。ミナは、今度こそ部屋にいるだろうか。私の顔を見たら、また逃げてしまうだろうか。
それでも、私は行かなければいけなかった。
部屋の前まで来たところで、足が止まった。ルームキーが、手の中で冷たい。
昨夜、何度も言葉の順番を考えた。まず謝る。ミナの言葉を、ちゃんと考えたと伝える。恋愛のことはまだ全部分からない。
それでも、ミナを失いたくないことだけは分かった。
落ち着いて。分かりやすく。ミナを余計に不安にさせないように。深く息を吸うけれど、上手く入ってこない。もう一度吸う。それでも足りなかった。
私はカードをかざした。電子音が鳴り、ロックが外れる。
「……ミナ……?」
扉を開ける。祈るように呼びかけると、ベッドの上にミナがいた。制服のまま身体を起こし、赤い目でこちらを呆然と見ている。
「カナデ……どうして……」
ミナは立ち上がり、慌てて涙を拭った。隠そうとした。その仕草を見た瞬間、昨夜から考えていた言葉が全部消えた。
ミナがいる。ここにいる。今はまだ、目の前にいる。身体が勝手に動いて、ほとんど飛び込むように、私はミナを抱きしめた。
「ミナの……バカ……!」
本当は、先に謝るはずだった。なのに出てきたのは、責めるような言葉だった。
「心配した……すごく、すごく心配した……!」
腕に力が入る。痛いかもしれない。それでも緩められなかった。
ミナの身体が温かい。呼吸をしている。昨日、どこを探してもいなかったミナが、今は私の腕の中にいる。
「ミナが……どこにも、いないから……! 昨日も探して、ホテル中歩き回って……若葉から、連絡貰って……安心したけど……今日もずっと、帰ってこないから……!」
喉の奥から、嗚咽みたいな音が漏れた。
「ごめん……ごめんね、ミナ……」
額をミナの肩へ押しつける。涙が止まらない。私が泣けば、ミナは自分を責めるかもしれない。縋れば、断れなくなるかもしれない。
それでも今は、何も取り繕えなかった。
「私、あの時ちゃんと……分かってあげられなかった……。ミナが、どれだけの覚悟で……あんな言葉を言ったのか……。どれだけ苦しかったのか……」
もっときちんと説明したかった。でも口に出すたびに、考えていた言葉がばらばらになった。
「私、ミナのこと……すごく傷つけてた……」
私の腕の中で、ミナは動かなかった。抱き返してもくれない。そのことに気づいて、心臓が縮む。
それでも私は、ミナを完全には離せなかった。腕の力だけを少し緩め、震える手をミナの頭へ置く。髪を撫でる。ミナを慰めたいのか、ただここにいることを確かめたいのか、自分でもよく分からなかった。
「昨日、ミナが言ってくれた……『好き』って……」
言葉を口にした途端、昨日のミナの顔がはっきりと蘇った。私が好きだと返した瞬間、救われるどころか、何かを諦めたように歪んだ顔。
あの表情を作ったのは、私だった。
喉の奥が狭くなる。息を吸おうとしても、胸の途中で引っかかった。それでも、ここで黙ったら駄目だと思った。
黙ってしまえば、また私は自分だけで考えて、自分だけで答えを決める。
「私の『好き』とは、違うって……。やっぱり、そういう意味だったんだって……後から分かったんだ……。私、ほんと馬鹿だよね……」
笑おうとした。いつものように、少しだけ軽く言えば、ミナを困らせずに済むと思った。でも、唇は上手く動かなかった。漏れた息は笑い声にもならず、ただ震えただけだった。
ほんと馬鹿だよね。そんな言葉で済むことではない。
私は何も知らなかった。ミナがどんな気持ちで私を見ていたのかも、触れられて何を思っていたのかも、昨日あの言葉を絞り出すまで、どれだけ一人で苦しんでいたのかも。
知らないまま、私はミナの髪に触れた。指の間から、柔らかな髪がさらさらと零れていく。触れているのに、手の中に留めておけない。今のミナみたいだと思った。
この手が触れることを、もう嫌だと思っているかもしれない。そう考えると怖かった。
それでも、手を離すこともできなかった。
「正直、恋愛って……よく分からないんだ……。自分が当事者になるなんて……思ってもなくて……」
ひどく無責任な言葉に聞こえた。分からない。知らなかった。考えたこともなかった。そんなものは、ミナを傷つけた言い訳にはならない。今さら何も分からないと言われて、ミナはどう思うだろう。私の告白を受け止めて欲しいくせに、自分は何一つ答えを持っていない。
それでも、分かったふりだけはできなかった。恋愛だと言い切ってしまえば、ミナを引き止められるかもしれない。好きだと強く言えば、安心させられるかもしれない。でも、それがまた私の都合で作った答えなら、今度こそ取り返しがつかない。
「でもさ……ミナが、私の前からいなくなって……」
そこまで言った瞬間、昨夜の空っぽの部屋が頭の中に広がった。誰もいないベッド。置き去りにされたスマートフォン。冷たくなったシーツ。名前を呼んでも、どこからも返事がない廊下。思い出しただけで、足元が揺れる。
ミナは今、目の前にいる。分かっているのに、腕の中からまた消えてしまいそうで、指に力が入った。
「いつも私の隣にいてくれるミナが、いなくて……。名前呼んでも、返事がなくて……。すごく、怖かったんだよ……。ミナが、どこかに行っちゃう気がして……。ミナが、私を嫌いになってしまう気がして……」
声が途切れるたび、喉の奥からみっともない音が漏れた。
怖かった。その一言を、私はずっと言えなかった。ミナの前では、怖がる側になりたくなかった。
私が平気な顔をしていれば、ミナは安心する。私が手を引けば、ミナはついてきてくれる。そういう私でいたかった。
なのに今は、ミナの服を掴んでいる。指が白くなるほど力を込めて、離れないように縋っている。
こんなことを言えば、ミナはまた自分を責めるかもしれない。私を置いていけなくなるかもしれない。それは分かっていた。分かっているのに、もう隠せなかった。
「そのとき、やっと分かったよ。私、ミナを失うのが……怖い……耐えられない……。ミナが、他の人のものになるのも……本当は……死ぬほど嫌……」
言ってしまった。胸の中に押し込めていた、いちばん醜いところまで。
ミナは誰のものでもない。私が所有していい人ではない。そんなことは分かっている。それでも、誉田の隣にいるミナを想像した瞬間、身体の奥から嫌だという声が上がった。
私ではない誰かを一番にすること。私ではない誰かに触れられること。
その全部が嫌だった。
こんな気持ちを差し出したら、ミナは怖がるかもしれない。昨日まで優しいと思っていた私の中に、こんな身勝手なものがあると知ったら、今度こそ嫌いになるかもしれない。それでも、綺麗な言葉だけを選ぶことはできなかった。
綺麗な顔でミナを送り出して、私は一度、彼女を泣かせた。同じことを、もう繰り返したくなかった。
「恋愛が何かなんて……まだ、ちゃんと分からない。正解も、分からない……」
言葉にするほど、自分が空っぽに思えた。恋愛も分からない。自分の感情すら説明できない。
こんな私が、ミナに何を約束できる。
幸せにするとも、傷つけないとも、言えなかった。実際に私は、もうミナを傷つけている。
私はゆっくりと身体を離し、両手をミナの肩へ置いた。
離れた瞬間、腕の中から温度が抜けていく。怖くなって、もう一度抱きしめそうになった。けれど、耐えた。このまま泣いて縋りつけば、ミナは私を振りほどけない。優しいミナなら、私を可哀想だと思って頷いてしまうかもしれない。それでは駄目だった。
私が欲しいのは、同情でも、罪悪感からの返事でもない。ミナ自身の答えだった。
だから、顔を見なければいけない。逃げずに。拒まれるかもしれない顔を、真正面から見なければいけない。
「……それでも、さ」
声が掠れた。一度口を開いたのに、続きが出てこない。喉が震えて、歯が小さく鳴りそうだった。
この先を言ったら、もう戻れない。昨日までの親友には戻れない。断られたら、何も残らないかもしれない。
それでも。
「ミナと一緒に、分かりたいって思ったんだよ」
自分の声が、情けないほど頼りなかった。私は何も分からない。それでも、一人で答えを作れば、またミナのためだと言って逃げる。それだけは、もう嫌だった。
涙がまた頬を伝った。
「ミナがいない未来なんて……考えたくない」
声にした途端、その未来が一瞬だけ頭に浮かんだ。
隣にミナがいない。音を聞いてくれる人もいない。名前を呼んでも振り返らない。そんな未来を想像しただけで、呼吸が止まりそうになった。
私は唇を噛んだ。ここから先の言葉を、昨夜何度も練習した。もっと落ち着いて言えると思っていた。ミナを安心させるように。私を選んでも大丈夫だと思えるように。
でも、今はもう、そんな余裕はどこにもなかった。
「私さ……ミナと、付き合いたい」
言った。声は震えていた。最後のほうは、息に紛れて消えそうだった。
ちゃんと聞こえただろうか。もう一度言うべきだろうか。でも、怖くて口を開けなかった。
沈黙が落ちる。ミナは何も言わない。一秒なのか、もっと長いのか分からない。その沈黙の中で、胸の中に次々と最悪の答えが浮かんだ。
遅すぎた。もう信じられない。恋愛も分からないくせに、都合が良すぎる。昨日あんなことを言った人とは、付き合えない。
どれも、言われて当然だった。それでも私は、ミナの返事を待っていた。
選んで欲しかった。どうしようもなく。
「ミナの『好き』に……ちゃんと、応えたい。こんな気持ちのまま告白されても、ミナは嫌かもしれないけど……。私、ミナがいい……」
言葉を重ねるほど、言い訳みたいになっていく。応えたい。それでは、ミナに求められたから付き合うみたいだった。
違う。それだけじゃない。私が、ミナを欲しい。
でも、その言葉を綺麗な形にはできなかった。
喉の奥に引っかかったものを、無理やり押し出す。
「ミナじゃなきゃ……嫌だ……」
声が裏返った。子どもみたいだった。選んで。置いていかないで。嫌いにならないで。私の隣にいて。言えなかった言葉が、全部そこに混ざっていた。
ミナの前では、格好よくいたかった。迷わず手を差し出せる人でいたかった。なのに今の私は、泣きながら、たった一人に捨てられないことだけを願っている。
「ミナ、好きだよ……」
昨日と同じ言葉だった。昨日は、これで何も壊れないと思っていた。
今は違う。何も壊れないための「好き」ではない。壊れても、元に戻れなくても、それでもミナといたいという「好き」だった。
親友だから大切。それだけでは、もう足りなかった。
「こんな私に恋愛を、教えてよ……」
口にした瞬間、またミナへ背負わせたと気づいた。言い直したかった。全部を任せたいわけではない。でも今の私には、その言葉しかなかった。
沈黙が続く。ミナの瞳から、涙が一筋落ちた。胸の奥が、一瞬で冷たくなった。
また泣かせた。やっぱり、間違えた。私の言葉は、またミナを苦しめた。忘れて、と言わなければいけない。今の言葉を全部取り消して、ミナを解放しなければいけない。
唇を開く。声を出そうとした――そのとき。ミナが小さく頷いた。一度だけ。でも、確かに。
「……本当?」
自分でも驚くほど、幼い声が出た。ミナは逃げなかった。否定もしなかった。
――ミナが、私を選んでくれた。
その事実だけで、張りつめていたものが全部崩れた。
「やった、ミナ……」
もっと他に、言うべき言葉があるはずだった。大切にする。後悔させない。だけど口から出たのは、ただの歓声みたいな言葉だった。
私はもう一度、ミナを抱きしめた。
「ありがとう。こんな私を、好きになってくれて……ありがとう……」
同じ言葉しか出てこない。泣いて、縋って、整理できていない気持ちを差し出した。それでも、ミナは受け取ってくれた。
私の背中へ、そっと手が触れる。身体が震えた。抱き返してくれた。
「ミナ……。もう、いなくならないで……」
また、重い言葉が勝手に零れた。それでも、ミナの手は離れなかった。ゆっくりと、私の背中を撫でてくれる。私は強張っていた身体から、少しだけ力を抜いた。
「ふふっ……ミナ、くすぐったい」
泣いていたせいで、声はまだ震えていた。ミナの身体からも、ふっと力が抜けるのが分かった。
近くで、二つの心臓が鳴っている。
まだ同じ速さではない。同じ音でもない。私はこれからも、きっと間違える。またミナを傷つけるかもしれない。
それでも今度は、一人で決めたくない。分からないなら、分からないと言いたい。怖いなら、消える前に怖いと言いたい。そばにいて欲しいなら、そう伝えたい。
『カナデの「好き」と、わたしの「好き」は違う』
あの言葉で、昨日までの私は壊れた。だけど壊れた場所から、ようやく見えたものがあった。
私は、ミナが好きだった。親友だからでは足りないほど。
名前を知らないまま、ずっと。




