小噺 星を見ていたわけじゃない(高2・夏)
駅前の掲示板に貼られていたポスターを見つけたのは、期末テストが終わって、夏休みが近づき始めた日のことだった。
市立科学館、夏のプラネタリウム特別投影。
白い文字の下に濃紺の空と、そこに散らばる星の写真が載っていた。夏の大三角。天の川。七夕の星。そんな言葉が、少しだけ涼しげに並んでいる。
別に、星に詳しいわけじゃない。理科の授業で習った星座の名前だって、もうほとんど覚えていない。夏の大三角が何と何と何だったかも、少し考えないと出てこない。
それでも、わたしはしばらくそのポスターの前で立ち止まっていた。
暗い場所で、隣に座って、同じ空を見上げる。それを考えた瞬間、胸の奥がきゅっと小さく縮んだ。
「……ミナ?」
隣から声をかけられて、わたしは慌てて顔を上げた。カナデが、不思議そうにこちらを見ていた。白いシャツの袖から伸びた腕が、夏の光を受けて眩しい。繋いでいる手が、わたしの手を軽く引いている。
「どうしたの」
「あっ、えっと……」
わたしはもう一度ポスターを見た。カナデを誘ってもいいのかな、と思った。
付き合い始めて、まだそんなに経っていない。恋人として手を繋ぐことにも、キスをすることにも、少しずつ慣れてきた。慣れてきた、と思いたい。
だけど慣れるというのは、平気になることとは違うらしい。カナデの手がわたしの手を取るたびに、今でも胸はうるさくなる。名前を呼ばれるだけで、変に息が浅くなることもある。恋人、という言葉を自分の中で思い浮かべるだけで、まだちょっと怖い。
嬉しくて、怖い。怖いくらい、嬉しい。
「あ……あのね、カナデ」
「うん」
「今度……これ、行かない?」
指先でポスターを示すと、カナデは顔をそちらに向けた。
「……プラネタリウム?」
「うん、科学館の……」
「ミナ、星好きなの?」
「詳しいわけじゃないけど……綺麗かなって」
そう言ってから、少しだけ不安になった。
カナデは、星に興味があるようには見えない。音楽のことならきっといくらでも話せるのに、星座の名前をひとつずつ見上げるような姿は、あまり想像できなかった。
退屈だったら、どうしよう。わたしが行きたいと言ったから、無理に付き合ってくれるだけだったら。
そう思った瞬間、繋いだ手に少しだけ力がこもった。
「いいよ」
カナデはあっさり言った。
「えっ」
「行こっか」
「……いいの?」
「行きたいんでしょ?」
当たり前みたいに言われて、何も返せなくなった。
わたしが行きたい場所に、カナデが一緒に来てくれる。たったそれだけのことなのに、わたしの中では、それだけで星より大きな出来事になってしまう。
カナデはポスターをもう一度見て、それからわたしのほうを向いた。
「涼しそうだし」
「……えっ? そこ?」
「そこも大事でしょ。だって最近暑いし」
その言葉に、少し笑ってしまった。カナデは涼しい顔をしている。わたしはその横で、繋がれた手の温度ばかり気にしているのに。
夏の日差しの中で、カナデの指は少し熱かった。その熱さを、わたしはいつまでも手放したくなかった。
***
市立科学館は、駅から少し歩いたところにあった。大きすぎず、小さすぎず、地元の小学生なら一度は社会科見学で来たことがありそうな建物。入口の横には、少し古びた宇宙飛行士のパネルが立っていた。透明なドームの模型や、惑星の大きさを比べる展示があって、館内には親子連れの声が明るく響いている。
夏休み前の休日で、思ったより人はいた。小さな子どもが走りそうになって、お母さんに注意されている。展示のボタンを押すと、機械音が鳴る。壁にはロケットの写真が並んでいる。
カナデは、特別はしゃぐわけではなかった。かといって、つまらなそうでもない。わたしが展示の説明を読んでいると、隣に立って待っていてくれる。わたしが少し驚くと、同じ場所を覗き込んでくる。ボタンを押してみる? と聞くと、「ミナが押せば」と言って、でもわたしが押すところをちゃんと見ている。
だけど星に興味があるのかは、やっぱりわからなかった。
プラネタリウムの上映時間が近づくと、わたしたちはドームの入口へ向かった。廊下は少し暗くて、冷房がよく効いていた。外の湿った暑さが、肌からゆっくり引いていく。受付でチケットを見せると、係員の人が小さな声で「中は暗くなりますので足元にお気をつけください」と言った。
そのときも、カナデはわたしの手を握っていた。当然みたいに。
人の流れに合わせて歩きながら、カナデの親指が、わたしの手の甲を一度だけなぞった。それだけで心臓が跳ねた。もう何度も繋いだ手なのに。初めてではないのに。どうしてわたしは、いつまでもこんなに慣れないんだろう。
ドームの中に入ると、丸い天井がまだぼんやり明るかった。座席は後ろへ倒せるようになっていて、思ったより広い。わたしたちは、真ん中より少し後ろの列に座った。
鞄を足元に置く。座席に腰を下ろす。その流れの中で、カナデの手が、わたしの手から自然に離れた。
ただ、それだけのことだった。
座るために離しただけ。鞄を置くために、体勢を変えるために、一度手をほどいただけ。
それなのに、わたしは自分の右手を膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
さっきまでそこにあった温度が、ない。指と指のあいだにあったカナデの感触が消えて、冷房の風だけが薄く触れている。
隣には、ちゃんとカナデがいる。肩が触れそうなくらい近い。座席の肘掛けも、ほんの少し腕を伸ばせば届く距離にある。顔を向ければ横顔が見えるし、名前を呼べば、きっとすぐ返事をしてくれる。
それなのに、手が離れただけで、急に遠くなった気がした。
――もう一度、繋いでもいいのかな。
そう思って、すぐに恥ずかしくなった。
さっきまで繋いでいたのに。何を今さら、迷っているんだろう。恋人なのに。カナデの隣にいていいはずなのに。
上映開始のアナウンスが流れて、天井の明かりが少しずつ落ちていった。ざわめきが小さくなり、椅子がわずかに軋む音があちこちでする。前の席の親子が何か囁いて、それから静かになった。
隣で、カナデが背もたれに身体を預けた気配がした。
ふと横を見ると、カナデは腕を組んでいた。いつもより少し深く椅子に沈んで、真っ直ぐドームの天井を見上げている。暗くなり始めた横顔は、もう輪郭しかわからない。でも口元は引き結ばれていて、どこか難しい顔をしているように見えた。
――カナデ、真面目に見てる。
そう思った。
星なんて興味ないかと思っていたのに。誘ったのはわたしなのに。カナデはちゃんと、星を見ようとしてくれている。
邪魔しちゃだめだ。だからわたしは膝の上の両手を、ぎゅっと握った。
もう一度繋ぎたい、なんて。わたしだけがそんなことを考えていたら、恥ずかしい。
やがて、ドームいっぱいに星が映し出された。暗い空にひとつ、またひとつと光が灯る。初めは少なかった星が、徐々に増えていく。気づけば、視界のほとんどが星で満たされていた。天井を見上げているはずなのに、本当に夜空の下にいるみたいだった。
綺麗だと思った。
思ったはずだった。
けれど次の瞬間にはもう、わたしは隣の気配を探していた。カナデの肩。カナデの腕。組まれたままの、カナデの手。
星座の名前を説明するナレーションが、穏やかな声で流れている。夏の大三角。ベガ。アルタイル。デネブ。教科書で見たことのある名前が、星の光と一緒に降ってくる。でも、どれがどの星なのか、うまく追えなかった。星を探すより先に、わたしはカナデの手を探してしまう。
さっきまで、わたしの手を握っていた手。何度も触れたことのある手。わたしの名前を呼ぶときと同じくらい、簡単にわたしを落ち着かなくさせる手。
その手は今、カナデ自身の腕の中にしまわれている。まるで、わたしから遠ざけられているみたいに。
そう思ってしまって、すぐにそんな自分が嫌になった。
違う。カナデは星を見ているだけだ。わたしが誘ったから、ちゃんと見てくれているだけ。
それなのに、わたしは――手を繋ぎたいなんて、そんなことばかり考えている。
ナレーションは、天の川の話をしていた。空を流れる白い光の帯。昔の人がそこに見た物語。一年に一度だけ会うことを許された、離れた星たち。
一年に一度。
そんな遠い話を聞きながら、わたしは隣にいるカナデのことばかり考えていた。
カナデは、たった数十センチ先にいる。手を伸ばせば届く。名前を呼べば振り向いてくれる。
それなのに、どうしてこんなに遠いんだろう。
暗闇の中で、カナデが小さく息を吐いた気がした。わたしは、横を見たいのを我慢した。見たら、もっと触れたくなると思った。
指先を膝の上で握り込む。爪が少しだけ掌に当たる。痛いほどではない。でも、その小さな感覚がなければ、自分の手がどこにあるのかもわからなくなりそうだった。
隣で、布の擦れる音がした。ほんのわずかな音だった。それでも、わたしには大きく聞こえた。
そっと横を見る。カナデは、まだ腕を組んでいた。でも、さっきより少しだけ力が入っているように見えた。肩が固い。口元がやっぱり真剣で、どこか苦しそうにも見える。
もしかして、つまらないのかな――そう思って、胸が沈みかけた。でも次の瞬間、カナデの視線がほんの一瞬だけこちらに向いた。
暗くて、目が合ったのかはわからない。けれど、カナデはすぐにまた天井へ視線を戻した。
その横顔を見て、わたしはますますわからなくなった。
カナデは星を見ている。でも、わたしのことも見た。何か言いたいことがあるのだろうか。退屈なのだろうか。寒いのだろうか。それとも、わたしが落ち着かないのに気づいてしまったのだろうか。
そう考えるほど、手は動かせなくなった。
流れ星の演出が始まった。ドームの端から端へ、細い光がいくつも走っていく。館内のどこかで、小さな子どもが息をのむ声がした。ナレーションの声が一度止まり、音楽だけが静かに広がる。
星が流れる。またひとつ、流れる。その光を見ながら、わたしは思った。
願いごとをするなら、何を願えばいいんだろう。
――カナデと、ずっと一緒にいられますように。
そんなことを願うには、隣にいるカナデが近すぎた。でも、手を繋げますように、と願うには、あまりにも子どもっぽい気がした。
恋人なのに。キスだって、もうしたことがあるのに。それでも今のわたしは、ただ手を繋ぎたいだけで、こんなに苦しい。
そのときだった。隣で、カナデの腕がほどけた。音はほとんどしなかった。ただ、気配だけが変わった。
組まれていた腕がゆっくりほどけて、カナデの手が座席の上に落ちる。肘掛けには置かれない。膝の上でもない。わたしとのあいだの曖昧な隙間に、その手が置かれた。
息が止まりそうになった。
――触れてもいいのかな。
そう思って、すぐに思い直す。違うかもしれない。ただ腕が疲れただけかもしれない。ずっと同じ姿勢だったから、ちょっと動かしただけかもしれない。
都合よく考えちゃだめ。
でも。カナデの手は、そこにあった。暗闇の中で、わたしの手のすぐ近くに。
わたしは膝の上に置いていた右手を、ほんの少しだけ動かした。本当に、少しだけ。誰にも気づかれないくらいだった。
それなのに、胸の音が急に大きくなる。プラネタリウムの音楽よりも、ナレーションよりも、流れ星よりも、自分の心臓のほうがずっとうるさい。
指先が、座席の布に触れる。そこから、もう少しだけ横へ。カナデの手には、まだ触れない。
でも、すぐそばにある。
次の瞬間、カナデの指が動いた。わたしの小指に、そっと触れる。それだけで全身が固まった。
頭の上では、星がまだ流れている。遠い遠い場所から届いた光が、作りものの夜空を静かに渡っていく。けれど、わたしにはもう、その光を追うことができなかった。
触れている。ほんの少しだけ。小指の先が、カナデの指に触れている。
それは星よりもずっと小さくて、流れ星よりもずっと頼りない感触だった。少し動けば離れてしまう。息をするだけで、なかったことになってしまいそうなくらい、かすかな触れ方だった。
それでも、その小さな熱だけが、暗闇の中で確かにわたしを見つけていた。
握られたわけじゃない。ただ、小指と小指が触れただけ。けれど、カナデはすぐに離さなかった。むしろ、そのままゆっくりと指を絡めるようにして、わたしの手を探った。暗闇の中で、確かめるみたいに。急がないで、でも逃がさないみたいに。
わたしは、息をするのを忘れていた。
カナデの手が、わたしの手を包んだ。さっきまで繋いでいたはずの手だった。駅からここまで、何度もそうしていたはずなのに。
それでも――暗闇の中で繋ぎ直した手は、まるで初めて触れられたみたいに熱かった。
ドームいっぱいの星が、ゆっくり回っている。どこか遠くの星座の話を、ナレーションが続けている。でも、わたしにとって今いちばん近い星は、頭上ではなく、繋いだ手の中にあった。
カナデの指に、少しだけ力がこもる。わたしも、弱く握り返した。
それだけでよかった。それだけで、星の名前は全部、遠くへ行ってしまった。
上映が終わって、館内の明かりがゆっくり戻ってきた。暗闇に慣れていた目には、その淡い明るささえ眩しかった。周りの人たちが少しずつ立ち上がり、椅子を戻す音や、子どものはしゃいだ声が戻ってくる。
カナデの手は、明かりがつく前に離れた。それが少しだけ寂しかった。でも、掌にはまだ温度が残っている。
外へ出る人の流れに混ざりながら、わたしはカナデの横を歩いた。さっきまで見ていた星のことを、何か話さなきゃと思った。わたしが誘ったのだから、カナデが楽しかったか聞きたかった。
「……カナデ」
「ん?」
「星……綺麗だったね」
「うん」
「……すごく真面目に見てたから、ちょっとびっくりした」
わたしがそう言うと、カナデは足を止めた。
プラネタリウムの出口を出た先の通路は、展示室へ続いている。親子連れの多くは出口のほうへ流れていて、わたしたちの周りには少しだけ空間があった。
カナデはわたしを見た。
「……真面目に見えた?」
「うん。腕組んでたし……難しい顔してたから」
言ってから、もしかして失礼だったかもしれないと思った。でも、カナデは怒らなかった。ただ、少しだけ黙って、一度大きく息を吐く。
「あれは……」
カナデの声が、いつもより低く聞こえた。
「……ミナに触りそうだったから」
言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
触りそうだったから。腕を組んでいた。星を真面目に見ていたんじゃなくて。
わたしに、触らないために。
「……えっ」
声が小さく零れた。カナデはばつが悪そうに、視線をわたしから逸らす。耳がほんのり赤い気がした。気のせいかもしれない。でも、そう見えた。
「だって……ミナとずっと手、繋いでたでしょ」
「う、うん……」
「座ったら離れたから」
「……うん」
「なんか、落ち着かなくて」
それは、わたしもだった。そう言いたかった。でも、言葉にならなかった。
わたしだけじゃなかった。手が離れて寂しかったのは、わたしだけじゃなかった。そのことが嬉しくて、恥ずかしくて、どうしていいかわからなくなる。
カナデはわたしの手を取った。今度は迷わなかった。するりと指が絡んで、わたしは反射みたいに握り返した。
「ミナ、こっち」
「えっ?」
カナデはわたしの手を引いて、人の流れから少し外れた。
展示室の奥には、月面探査機の小さな模型が置かれていた。古い展示らしく照明も控えめで、そこだけ人がほとんどいない。壁に貼られた月の写真が、青白い光を反射している。
わたしは、手を引かれるままについていった。
心臓がまたうるさくなる。さっきまで星を見ていたはずなのに。もう明るい場所に戻ったはずなのに。カナデの手がわたしの手を引いているだけで、暗闇の中に戻されたみたいだった。
展示の陰で、カナデが立ち止まった。振り向いたカナデの顔が思ったより近くて、頬が一気に熱を持つ。
「カナデ……?」
呼ぶと、カナデは細く息を吐いた。
「……本当は」
カナデの指が、わたしの手を握り直す。
「……途中、キスしようかと思ってた」
今度こそ、わたしは何も言えなかった。さっきまで見上げていた星空が、頭の中から全部消えた。
キス。
その言葉だけが、静かな展示室の隅に残る。カナデはわたしをじっと見ていた。真っ直ぐで、でも少しだけ困ったような顔だった。いつもの余裕のある顔じゃない。わたしを見ているのに、わたしに触れていいのか迷っている顔。
そんな顔を見てしまったら、もうだめだった。わたしは繋いだ手に力を入れる。カナデはそれに気づいたみたいに、ほんの少し目を細めた。
「……いい?」
小さな声だった。わたしは頷く。それだけで、カナデの顔が近づいた。カナデの睫毛が見える。息が触れそうになる。さっきまでドームいっぱいに広がっていた星よりも、ずっと近い場所にカナデがいる。
咄嗟に名前を呼ぼうとして、声にならなかった。
唇が、ほんの一瞬だけ触れた。短いキスだった。プラネタリウムで見た流れ星よりも、ずっと短い。願いごとをする間もないくらい、すぐに離れてしまうキスだった。
でも、流れ星よりずっと近かった。
顔が離れたあと、わたしは呼吸の仕方がわからなくなっていた。カナデはわたしの手を繋いだまま、少しだけ顔を逸らす。さっきより、耳が赤い。今度はたぶん、気のせいじゃない。
「……星」
カナデがぽつりと呟いた。
「えっ……?」
「……全然覚えてない」
その声に、思わず顔を上げる。カナデは、どこか気まずそうに笑っていた。
「ミナのこと見ないようにするので、忙しかったから」
胸元が、ぎゅっと苦しくなった。苦しいのに、嬉しかった。
わたしも、と言えたらよかった。わたしも、星の名前なんてほとんど覚えていない。夏の大三角も、天の川も、流れ星も、全部見ていたはずなのに――今思い出せるのは、カナデが腕を組んでいた横顔と、ほどけた手と、暗闇の中で触れた指先のことばかりだ。
でも、やっぱり言えなかった。代わりに、わたしはカナデの手をもう一度握り返した。
「……わたしも、あんまり覚えてない」
小さな声でそう言うと、カナデがこちらを見た。
「そっか」
「うん……」
「じゃあ、また来る?」
さらりと言われたその言葉に、わたしは少し笑ってしまった。
「また来ても……覚えられないかもしれないよ」
「いいよ」
カナデは、いつもの顔で言った。
「そのときは、また手繋いどけば」
それに、わたしは何も言えなくなる。ずるい、と思った。カナデはいつもわたしが言葉にできないところへ、簡単に手を伸ばしてくる。何でもないみたいな顔で、わたしの胸の中を揺らしていく。
科学館を出ると、外はまだ明るかった。夕方の空は薄い青で、雲の端だけが白く光っている。さっきまでドームいっぱいに広がっていた星は、どこにも見えない。
でも、わたしの手にはカナデの手があった。
駅へ向かう道を、二人で歩く。
暑さはまだ残っていた。蝉の声も聞こえる。信号待ちの車が通り過ぎて、アスファルトの匂いがふわりと上がる。
カナデの手は、やっぱり少し熱かった。わたしはその熱を、今度は離れないように握っていた。
今日見た星の名前は、きっとすぐ忘れてしまう。夏の大三角が何と何と何だったかも、また教科書を見ないと思い出せないかもしれない。けれど――カナデが腕を組んでいた理由と、人のいない展示室の奥で触れた唇の温度だけは、忘れないと思った。
星を見に行ったはずだった。でもたぶん、わたしたちは二人とも、星を見ていたわけじゃない。
――隣にいる人に触れたくて。触れていいのか迷って。それでも、最後には手を伸ばしてしまう。
そんな、まだ名前のつかない星みたいな気持ちを、同じ暗闇の中でずっと見上げていたのだと思う。




