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君の隣で奏でたい  作者: 朝海 いよ
番外編
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番外編 奏でる名前

 土曜日の午後、わたしは松波家の門の前で立ち尽くしていた。高い塀に囲まれた、白壁の邸宅。天気の良さが恨めしいほど、太陽の光がくっきりと影を落としている。いつも通りのつもりでも、足の裏が地面に張りついたように重たくて、一歩も動けない。スカートの裾を握りしめて、もう何度目かわからない深呼吸を繰り返した。


 カナデの家には、これまで何度も来たことがある。でも、今日――わたしはカナデの正式なパートナーとして、この家に踏み込むのだ。


――同棲を始める前に、きちんとお互いの両親に話しておこう。そう決めて、先週はカナデがうちに来てくれた。


 緊張でずっと指先が震えていたわたしを見かねて、母親はあっけらかんと『奏ちゃんとなら、いいんじゃない?』と笑ってくれた。父親も最初は渋い顔をしていたけれど、母親の後押しもあり、最後には口元を緩めて頷いてくれた。拍子抜けするほど、あっさりと。


 あのとき、わたしもカナデも玄関を出た直後、力が抜けたように『良かった……』と小さく呟いてしまい、思わず笑ってしまった。胸に溜まっていた息を、一気に吐き出せた気がして。


 そのあとカナデは少しの沈黙のあと、『だけど、うちの方は……まあ、なんとかなるといいけどね』と、どこか苦笑いのような声で言っていた。その意味が、今ようやく胸にのしかかってくる。あれは冗談でも、軽口でもなかった。きっと、知っていたんだ。自分の家に戻った瞬間、空気が変わることを。


 隣でカナデは自分の家を見上げ、無言のまま立っていた。眉間には、わずかな皺。ぐっと喉を鳴らす仕草がいつものカナデらしくなくて、なんだか逆に心細くなる。いつものカナデならわたしの緊張をほぐすために、笑ってくれるはずなのに――今は、その余裕すら見せない。


 カナデの家なのに。わたしだって、何度も来たことがある玄関なのに。この家に入るのを、カナデがこんな顔で躊躇うのを――わたしは初めて見た。


 右手に持った紙袋の中のクッキー箱が、無意味に重たく感じられた。デパートで悩みに悩んで選んだ、ちょっといい焼き菓子。これが好印象を与えてくれるのか、逆効果なのかすらもわからない。わたしのこの紺色のワンピースも、髪型も、メイクも――本当に、これでよかったのだろうか。


「……じゃあ、ミナ。行こうか」


 そんな中でカナデの声が、ようやく聞こえた。その一言で、心臓が跳ねるほど脈打つ。身体の奥からせり上がってきた恐怖が喉に詰まって、返事が出ない。唇が乾いて、慌てて手櫛で前髪を整えると――「緊張しすぎでしょ」と、やっとカナデが笑ってくれた。だけどその笑顔も、ほんの一瞬で消えてしまう。


「たぶん……平気だよ。今日は、兄貴もいるし……味方はいるから」


 そう言いながらも、カナデの声はどこか震えていた。その震えが伝染して、わたしの掌も熱を持ってじんわり汗ばんでくる。


「私も……頑張る。ちゃんと、話すから」


 自分に言い聞かせるように呟くと、カナデがふいにわたしの手を握った。その手は、驚くほど熱かった。わたしの緊張が移ったのか、それともカナデ自身が――こんなにも不安なのか。


「今まで自分の話って……両親に、あまりしてこなかったんだ」


 俯きながら、カナデが静かに言った。まるで、何かの告白のように。


「どういう人と付き合ってるかなんて、聞かれたこともなかったし。自分から家族にわざわざ言いたくもなかったし。だけど、今日は……ちゃんと話す。隠さずに、言うよ」


 その横顔は強がりの仮面の奥で、必死に戦っているように見えた。わたしが今、怖がっているのと同じように――いや、それ以上に。


「でも、たとえ何を言われても……私はミナを手放すつもり、ないから。絶対に。だから……ミナ。それだけは、覚えておいて」


 その言葉は、まるで誓いのようだった。握られた手から伝わる体温と、カナデの真っ直ぐな瞳が、わたしの奥深くまで射抜いてくる。わたしは何も言えず、ただ黙って頷いた。だけど、それ以上に――言葉にしなくても、この瞬間だけはお互いの気持ちが確かに重なったと、そう信じられた。


 わたしたちは並んで、家を見上げる。そして、息を合わせるように一歩を踏み出した。緊張も、不安も、覚悟も、全部を抱えたままで。そのすべてを、繋いだ手の温もりが包んでくれていた。


 カナデの手が躊躇いがちに門柱の表面を撫でたあと、ゆっくりと扉の取っ手に触れる。その細い指がわずかに震えているのが、すぐ隣にいるわたしにははっきりと見えた。


「……ただいま」


 張りつめた空気のなかで、いつもより小さなカナデの声が、玄関ホールの白い壁にぽつんと落ちた。その瞬間、床を叩くような軽やかな足音が駆け寄ってくる。鼓動がどくんと跳ね、わたしは反射的に背筋を伸ばしていた。


「おいっ……奏! お前マジで……!」


 リビングの扉を勢いよく開けて現れたのは、カナデのお兄さんだった。驚きと呆れの入り混じった声で真っ直ぐにカナデに詰め寄りながら、ちらりとこちらに視線を向ける。わたしが思わずぺこりと頭を下げると、その表情が一瞬だけ柔らかくなった。でもすぐに、お兄さんは再びカナデに向き直った。


「父さんと母さんに、紹介したい人がいるとだけ言って、どっか行くとか……! お前、代わりに俺が質問攻めされたんだぞ? とりあえずうまく言っといたけど、どうだか……」


 畳みかけるように、カナデに詰め寄るお兄さん。口調こそぶっきらぼうだけど、その裏にある焦りと心配は隠しようがない。わたしの視線は、自然とカナデに移る。カナデはわたしの横に立ったまま、じっと床を見つめていた。


「だって……何て言えばいいのか、わかんなかったんだよ」


 ぽつりと漏らした声は、いつものカナデとは別人のように小さくて、頼りなかった。カナデは無造作に頭を掻きながら、視線を上げようとしない。


「ミナを迎えに行く前に、ちゃんと考えようと思ってたんだけど……やっぱ、うまく言葉にできなくて……」


 その横顔には、普段お兄さんに向ける自信も皮肉もなかった。ただ、カナデは怯えていた。言葉を間違えたら壊れてしまうかもしれないという不安が、輪郭を濃くして浮かび上がっていた。


 わたしは、そっとその背中に視線を送る。それでも――カナデは逃げずに、わたしをここに連れてきてくれた。震える足で、わたしと一緒にこの門をくぐったんだ。


「だからってなあ、お前……中途半端なまま出て行くなよ。まったく、ほんとしょうがねえな……」


 お兄さんは肩をすくめるように息をつくと、躊躇いなくカナデの頭をぐしゃっと掴んだ。その手つきは乱暴だったけれど、叱る代わりに、背中を押しているようにも見えた。


「……大丈夫だ。何があっても、俺が傍にいてやる。いつだってお前の味方だって、言ったろ?」


 お兄さんのその言葉は、兄としての最大限の受容だった。カナデはようやく、ほんの少しだけ目を伏せたまま頷く。そのまつ毛が、かすかに揺れていた。


 カナデがお兄さんの撫でる手を拒まなかったのは、それだけで十分すぎるほどの変化だった。お兄さんは続けて、わたしの方を真っ直ぐに見る。その眼差しは真剣で、でも温かかった。


「美奈ちゃんも、心配すんな。気負う必要なんかないよ。コイツが勝手に、ドキドキしてるだけだからさ。俺はもう、美奈ちゃんのことは勝手に妹だと思ってるし」


 にこりと笑われて、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。緊張で冷たくなっていた指先が、少しずつ温かさを取り戻していく。そんな中でカナデの手が、そっとわたしの手に触れた。指先だけで、確かめるように。わたしはその手を、ただ握り返した。


 これが、ふたりで向き合う家族という壁の、最初の一歩。怖くないと言えば、嘘になる。だけどふたりでなら、きっと越えていける。


 大丈夫。きっと、わたしたちは大丈夫。そう言い聞かせて、わたしたちは足を踏み出した。


「おーい。奏、帰ってきたぜ」


 リビングへ続く扉に手をかけたお兄さんが、ひょいと軽い調子で中に声をかける。けれどその背中越しに覗く横顔は、どこか気遣うような硬さを帯びていた。カナデはその後ろで押し黙ったまま、わたしの視界の中へと入っていく。


――深呼吸。もう何度目かもわからない。わたしの心臓は胸の中で激しく跳ねていて、鼓動が喉の奥まで響いてくる。手に持った紙袋が湿っている気がして、慌てて持ち直した。礼儀正しく。感じよく。失礼のないように。でも、そんな自分の声は、どこか他人事のように遠かった。


 リビングに入ると、誰もいない静かな空間が広がっていた。床はぴかぴかに磨かれていて、大きな窓から差し込む光が淡く反射している。調度品はどれも上質で、空気がどこか冷たい。わたしのワンピースが浮いているんじゃないかという不安が、またじわじわと背中を這い上がってくる。


 すると奥から、ぱたぱたとスリッパの音が近づいてきた。顔を覗かせたのは、長身で細身の――まさに医師という言葉がぴたりと似合う女性だった。カナデに似たシャープな輪郭、冷静な眼差し、整った姿勢。見るからに厳格そうで、わたしは一瞬にして凍りついた。


「……あら」


 女性――カナデのお母さんが、目を見開いて小さく声を漏らす。その視線が、わたしの全身を捉える。瞬間、全身の筋肉がこわばり、反射的に深く頭を下げた。


「あっ……あの、春日美奈と申します……! お邪魔しています……!」


 あまりの緊張に、声が裏返りそうになるのを必死で抑える。思わず目をぎゅっと閉じた、その瞬間――。


「ははっ、緊張しすぎだろ、美奈ちゃん。そんな畏まんなよ」


 軽く笑うお兄さんの声が、救いのように降ってきた。それに慌てて顔を上げると、カナデがわたしの少し前に立っていた。その横顔にはやはり緊張の色が滲んでいて、唇がほんの少しだけきつく結ばれている。


「……母さん。この子が……ミナ。高校の時から、ずっと仲良くしてもらってた」


 まるで台本を読み上げるような、感情を抑えた声。けれどその一言に、カナデなりの覚悟がこもっていた。


 お母さんはカナデとわたしを順に見比べながら、少しのあいだ無言で何かを測るように見つめていた。その視線が、まるで患者を観察するように鋭く、静かにわたしを貫く。頭のてっぺんから、つま先まで。


 わたしは何も言えず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。時間の進みが遅く感じ、じわりと背筋に冷たい汗が滲んでいく。


「貴女が……ミナ、ちゃん。なるほどね……」


 しばらくしてようやく口を開いたその声は、思っていたよりも柔らかかった。


「あらあら……これは想像していたよりもずっと、可愛らしい子がいらしたわね」


 そのひと言に、わたしは息を止めた。嬉しさよりも、評価されることの怖さの方が大きくて、どう返せばいいのかもわからない。お母さんは、ゆっくりと歩み寄り、わたしと真正面から目を合わせる。その黒い瞳――それがどこか、カナデの目と似ていた。冷静で、真っ直ぐで、そして少しだけ優しい光を含んだ目だった。


「奏と律から、多少話は聞いていました。この子と、ずっと仲良くしてくださったようで……ありがとうございます」


 その瞬間、お母さんの表情が少し和らぎ、口元にかすかな笑みが浮かんだ。安堵と緊張が入り混じって、わたしは慌てて頭を下げながら、紙袋を差し出す。


「そんな、とんでもありません……! あっ、あの、これ、つまらないものですが……! お口に合えば、嬉しいです……」


「おいおい、美奈ちゃん。別に今更、気を遣わなくていいのに。美奈ちゃんが持ってきてくれたお菓子、きっと奏にはもったいないくらいだな」


 横からふいに口を挟んだお兄さんが、笑いながら紙袋を受け取ってくれる。その声にわたしは、少しだけ肩の力を抜いた。


「いや、マジでさ……美奈ちゃんがいなかったら、奏、どうなってたか分かんないからな。高校行くようになったのも、吹奏楽やるようになったのも、留学したのも……奏が変わったの、全部美奈ちゃんがいたからだろ?」


 軽い調子でそう言いながら、お兄さんはわたしとカナデの間に立って、笑った。その笑顔はとても自然で、どこか兄としての誇りも感じられて――。


「いえ、そんな、わたしなんて……」


「謙遜するなって。本当のことだよ」


 お兄さんのその言葉に、カナデが小さく「うん」と頷く。その仕草は誰よりも静かで、けれど確かな肯定だった。わたしはその頷きに、まぶたが熱くなるのを感じながら、席を勧められるままダイニングテーブルへと腰を下ろした。


 ここからが本番だ。緊張はまだ解けない。けれど、横にカナデがいる。向かいには、カナデの家族がいる。そしてわたしは、今――確かに、この人の隣にいるんだ。


 テーブルの上には、焼きたてのような香りを放つスコーンやフィナンシェ、それにわたしが持参したクッキーが整然と並べられていた。ティーカップからは淡く甘い紅茶の香りが立ちのぼり、その香気だけが、この場の張りつめた空気をほんのわずかに和らげているようだった。


 けれど、空気は重かった。わたしの隣でカナデはほとんど動かず、肩をかすかに揺らしながら、視線をずっとテーブルに落としたままだった。正面に座るカナデのお母さんは、その姿をじっと見つめている。隣のカナデのお父さんは新聞を手にしたまま、紙面から一度も目を上げようとしない。その沈黙は、わたしの掌をじっとりと濡らすほどの圧力をもって、じわじわと広がっていた。


「……このクッキー、うまいな」


 ふいに、その場を破るように響いたのは、お兄さんの声だった。ティーカップを手にしながら、何気ないふうを装ってクッキーに手を伸ばしつつ、さりげなくカナデの様子を伺っている。その視線に気づいたのか、カナデが小さく反応した。ぐっと唇を噛み、俯いたまま深く息を吸う。


「あっ……あのさ」


 かすれるようなその声に、わたしも思わず目を向けた。カナデの肩がぴんと張り詰め、全身から緊張が滲み出ているのがわかった。普段なら、どんな相手にも自分の言葉でぶつかっていくカナデが――今はまるで、自分の声が割れないよう、必死に支えているみたいだった。


「……私、ミナと一緒に住みたいって……思ってる」


 ゆっくりと、確かに。カナデの口から、言葉が紡がれていく。


「私……ミナと、結婚したいんだ。だから……」


 語尾が震える。言い切るように顔を上げたその目は、必死に恐れを押し込めた、真っ直ぐな光を帯びていた。


「……認めてください、お願いします」


 カナデが頭を下げた瞬間、わたしはその隣で胸がぎゅっと締めつけられた。今にも潰れそうなほどの勇気が、その細い背中から伝わってくる。わたしも黙って、深く頭を下げた。震える膝の上に置いた自分の掌が、紅茶のカップよりもずっと熱くなっていることに気づく。


 沈黙。耳が痛くなるほどの沈黙が、テーブルを支配した。時計の針の音さえ聞こえそうなその空白のなか、ふいに静かな声が場を割いた。


「……春日さん、顔を上げてください」


 わたしがおそるおそる視線を戻すと、お母さんはわたしを見ているわけではなかった。そのまなざしは、ただカナデだけを見据えていた。


「奏」


 その名前が静かに呼ばれる。カナデはまばたきをひとつして、真っ直ぐに母親を見返した。


「……奏。貴女のことは律に比べて、ずいぶん自由に育ててきたつもりよ。やりたいことを尊重して、制限もしなかった。学校や家に反発する気持ちも、理解してきたつもりだった」


 そこまで言って、お母さんは一度紅茶を口に運ぶ。その動作は丁寧で、ゆっくりとした所作で、けれどどこか緊張を孕んでいた。ソーサーに戻す音が、妙に大きく感じられた。


「でも……まさか、ここまでとはね」


 言葉を継ぐその声音には――静かな怒りとも、戸惑いとも取れる揺らぎが混じっていた。


「奏、馬鹿なことを言うのはやめなさい。女の子と結婚したい、なんて……。現状、貴女たちは法律上の結婚はできない。籍を入れられないから社会的な保障も、親戚付き合いも、すべてに不安が残る。ちゃんと現実を見なさい。貴女だって、分かっているはずでしょう? そんな状態で……春日さんと家族になりたいと、本気で貴女は言っているの?」


 言葉は穏やかだった。けれど、その一語一語が突き刺さるように現実的で、理路整然としていて――わたしは思わず、息を呑んでいた。


「分かってるよ」


 カナデがようやく、唇を震わせて返した。


「だからって……母さんは私に、ミナのことを諦めろっていうわけ? この市には、パートナーシップ制度もある。結婚と、全く同じじゃなくたって……必要なら、そういう制度を使えばいい。それに、母さん。そもそも私がミナと家族でありたいと願うことの、何がいけないっていうの? 性別が同じだから認められないなんて、そんなの……」


「奏」


 静かに、しかし明確に断ち切るような声で、お母さんが呼びかける。


「お母さんはね、法の話をしてるんじゃない。制度の話でもないの。貴女がこれから生きていく、現実の話をしてるのよ。恋愛も人生も、理想だけでは乗り越えられないことがある。覚悟を持つのは大事。だけど、奏。その覚悟に巻き込まれる相手の人生も、同じくらい重く考えてるの?」


 一瞬、空気が凍った。カナデはごくりと喉を鳴らし、何か言い返そうとしたけれど、言葉が出てこなかった。ただ、そのまつ毛が震えている。お兄さんは眉間に深い皺を刻み、何か言いたそうに見えたけれど、口を開くことはなかった。お父さんは、なおも新聞を手放さなかった。そのまま、目を伏せたままで。


 テーブルの上には、紅茶と焼き菓子。甘やかな香りだけが、場違いなほど穏やかに漂っていた。


「春日さん、お仕事は何をされているの?」


 ふいに向けられた問いに、肩がびくりと跳ねた。穏やかな声だったはずなのに、その鋭さは予想以上で、背筋がこわばる。


「……市役所で働いています。今は、芸術文化振興課で……」


 必死に声を整えながら答えると、お母さんは「そう」と短く頷いた。そして視線をわたしから、カナデへと移す。その目が鋭くなったのが、空気でわかった。


「奏。貴女と違って、春日さんはこんなにきちんとしたお嬢さんよ。礼儀正しくて、可愛らしくて、それに……安定した仕事まで持っている」


 言葉のトーンは変わらない。けれどそのひとつひとつが、まるで医療用メスのように冷たく、正確にカナデの急所を切り裂いていく。


「なのに、貴女はどう? 定職にも就かず、収入も不安定。いくらプロとして音楽を続けたいと言っても、まだ貴女には何の肩書きも保証もないじゃない。そんな生活で春日さんを幸せにできると、本気で思ってるの?」


 カナデが、はっと目を見開いた。隣でその気配を感じたわたしも、息が詰まりそうになる。お兄さんが「母さん……」と小さく制止の声を漏らしたけれど、お母さんは表情を変えず、言葉を止めなかった。


「いい? 奏。貴女が春日さんと一緒にいたいということはね、彼女から、普通の人生を奪うということなのよ」


 沈黙が、ぞわりと波紋のように広がる。わたしは咄嗟に何か言おうとするけれど、声が出なかった。


「彼女の結婚、出産、親戚づきあい。社会的信用、将来の資産形成……そのどれもが、貴女といることで難しくなる。それでもなお春日さんと一緒にいるというのなら、貴女は、奪う責任を引き受ける覚悟があるの? 貴女と生きるということは、彼女がこの先、社会からも家族からも、守ってもらえない立場になるということよ」


 カナデの指が、テーブルの下で小さく震えていた。わたしも、さっきまで握っていた手の力が抜けかけていて、ぎゅっと自分の指先を握り直す。


「彼女のご両親は、どう思うのかしら。大切な娘さんが、貴女みたいな子と一緒に暮らすって聞かされて……納得していると思ってる?」


「ミナの両親には……先週、ちゃんと挨拶してきた。お父さんも、お母さんも……認めてくれた」


 絞り出すように返したカナデの声は、どこか揺れていた。それでも、必死に抑えているのが伝わってくる。


「だけど奏、それは、表面上じゃないの? 本当のところどう思ってるかなんて、分からないでしょう?」


 その一言に、カナデの眉がぴくりと動いた。


「春日さんはきっと、良いお嬢さんなんでしょう。誠実で、一生懸命で、家族を大事にするタイプ。これからいくらでも、幸せな人生を選べる子。それなのに、奏――」


 お母さんは、ふっと紅茶に口をつけた。けれどその瞳は、ひとときも逸らすことなく、真っ直ぐにカナデを射抜いていた。


「――そんな子の人生を、自分に巻き込む責任を……貴女は本当に、理解しているの? 奏。貴女が貴女の選んだ人生で、傷つくのは構わないの。問題は、春日さんが傷つく未来を、当然のように背負わせることなのよ」


 わたしは喉の奥で何かが詰まったようになりながら、カナデの横顔を見つめた。普段なら絶対に言い返すこの人が、今は唇をかたく閉ざし、目を伏せている。何も言えないその姿に、わたしの心臓がぎゅっと痛んだ。


 カナデだって、わかってる。全部、わかっていて――それでも、選ぼうとしているのに。


 だけど、今はまだ言葉にできない。ただ、わたしはカナデを離さない。膝の上でぎゅっと握りしめた指先に、強く、確かに力を込めた。


 空気が張り詰める。鋼の糸で喉元を締められたみたいに、誰もが一言を躊躇っていた。誰が言うべきか、何を言うべきか。その答えを探す間もなく、緊張だけが濃くなっていく。


「母さん、それは……」


 沈黙を割ったのは、お兄さんの低い声だった。その声音には、静かな怒りが滲んでいるようだった。理屈ではお母さんが正しいと理解しながらも、目の前で妹が痛めつけられている現実に、黙っていられなかったのかもしれない。だけど。


「いい。兄貴……黙ってて」


 カナデの声が、それを遮る。ゆっくりと顔を上げたその表情には、さっきまでの曖昧な影が消えていた。カナデはひとつ、深く息を吸い、吐く。心の底に積もっていた怯えや迷いを、すべて押し込めて――カナデはお母さんの目を、真っ直ぐに見返した。


「……母さん。今の言葉、全部……刺さったよ。相変わらず正論ばっかで、どこまでも現実的で。ほんと、ぐうの音も出ないくらい……嫌になるほど、核心を突いてる」


 カナデの声は震えていた。でも、それはきっと怯えからじゃない。飲み込み、耐え、嚙みしめた悔しさの震えだった。


「私が頼りないのも、立場が不安定なことも、何もかも。母さんの言う通りだよ。自分が一番、分かってる。ミナみたいに安定した仕事に就いてるわけじゃないし、肩書きだって何もない。音楽で食べていける保証もないし、将来設計なんて、正直言って空白だらけ。だから、自信なんかない。怖いし、不安だし、毎日がギリギリだよ」


 カナデはひと呼吸、間を置く。そのあいだにも、カナデの指先はテーブルの下で固く握られていて、小刻みに震えていた。


「だけどさ、そんな私を、ミナは見捨てなかった。何もない私の手を、ちゃんと掴んでくれた。言い訳もせず、立ち止まらず、私と一緒に生きていくって……選んでくれたんだよ」


 その言葉は、鋭さも叫びもなかった。ただ、胸の奥から絞り出された、確かな実感だった。


「だから、私も逃げない。逃げたくない。覚悟って、簡単に言う言葉じゃないと思ってる。守るって、そんな簡単なことじゃないって分かってる。でも……だからこそ、言いたい。私はこの先の人生、ずっとミナと生きていく。隣に立って、生涯をかけて支えていく。誰に何と言われようと、もう決めてるから」


 カナデの膝の上で握られた拳が、かすかに震えを止める。その瞬間、カナデの中で何かが確立したように見えた。その黒い瞳だけが、もう逃げないと言っていた。


 一方お母さんは、わずかに目を伏せていた。テーブルの上に置かれたカップに手を添えたまま、持ち上げようとはしない。ただ、その眼差しだけが氷のように冷たく、医師としての冷静さでカナデを見つめていた。


「奏。覚悟を語るのは簡単。口にするだけなら、誰だってできるわ」


 その声音は淡々としていたけれど、言葉の刃は鋭かった。


「責任を持つというのはね、口約束じゃないの。恋愛だって結婚だって、夢や希望だけじゃどうにもならない現実が、日常の中には山ほどある。今はどれだけ綺麗事を語っても、時間が経てば、覚悟の重みが本当に試される時がくる。奏、貴女はそれを分かっているの?」


 真っ直ぐ頷くカナデに、ふっと、お母さんは小さく息をついた。ほんの一瞬だけ、そのまつ毛が揺れた気がする。カップに添えた指がわずかに強くなり、かちりと食器の音が鳴った。


 お母さんの言葉は、正論だった。だからこそ、どこにも逃げ道がない。


――だけど、突き放しているんじゃない。きっと、わたしたちが試されている。


「……相変わらず、人の話を聞かない子ね」


 お母さんが呟いたその声は呆れたようでいて、どこか疲れていた。


「そこまで言うなら……奏。貴女が証明してみせなさい。責任も覚悟も、全部――。貴女自身が、これからの時間で証明しなさい。私は貴女の結婚について、今ここで答えを出すつもりはありません。けれど、もし貴女が本当に、春日さんと生きていくつもりなら……それを、結果で示してちょうだい」


 その言葉のあとに訪れた沈黙は、さっきまでのものとは違っていた。冷たくて張り詰めた空気の中に、わずかに揺らぐ熱のようなものが混じっていた。


 カナデは、静かに目を伏せて頷いた。短く、確かに。わたしは、テーブルの下でそっとカナデの指に触れる。その指先はまだ少し冷たかったけれど、わたしの手をしっかりと握り返してくれた。


――わたしたちは、まだ何も成し遂げていない。けれど、だからこそ、ここからすべてを証明していく。言葉じゃなく、時間で。形で。ふたりで。


 そして、もう一度だけ、信じた。この人となら、乗り越えられる。怖くても、傷ついても、それでも。わたしはこの手を、離さない。


 誰もが息を飲んだままの空気のなかで、ふいに、新聞が静かに音を立てて折り畳まれた。ほんのわずかな音だったのに、全員の注意がそちらに向いた。カナデのお父さんが、淡々と紙面を閉じる。無言のままテーブルに置かれたその新聞の上に、眼鏡をそっと外して重ねた。その動作には威圧感も怒気もない。ただ、妙に整然としていて、重い沈黙の中で逆に際立っていた。


「……そうか」


 低く落ち着いた声が、空気を揺らした。感情の波も、余計な装飾も含まない、ただ必要最低限の響き。けれどその声が響いた瞬間、カナデがびくりと小さく肩を揺らした。さっきまでお母さんと対峙していたときには、見せなかった反応だった。お父さんの言葉には、それだけの重みがあった。


「奏」


 静かに呼ばれたその名に、カナデは真っ直ぐ顔を上げる。そして反射的に背筋を伸ばし、お父さんと目線を合わせる。カナデは逃げなかった。その目の奥に、震えがある。けれどそれ以上に、何かを貫こうとする光もあった。


「お前が……春日さんと共に生きたいと願っている、その想いは伝わった」


 その、ほんの短い言葉。だけどその一言を受けて、カナデの瞳にかすかに揺らぎが生まれる。「想いが伝わった」と言われたこと。それだけで、カナデの中で張りつめていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。だけど――。


「……でも親として、無条件に祝福するとは言えない」


 その言葉に、また空気が張り詰める。拒絶ではない。それでも、目の前に提示された現実の壁は、想像以上に高く、分厚い。


「人生というものは、感情の勢いだけでは続かない。特に、他人と生きるという選択には、それ相応の責任と代償が伴う。奏、自分の人生に春日さんを迎え入れるというのなら、それは同時に、彼女の人生も自ら背負うことになる。その意味を言葉以上に、奏はこれからの行動で、証明していかなきゃいけない」


 重たい言葉のひとつひとつが、食卓の上に静かに置かれていく。そのどれもが、飾り気のない事実だった。親として、医師として、そしてひとりの大人としての言葉。


「お父さんは仕事柄、多くの家族を見てきた。壊れる家族もあれば、想像を超えて結びつく家族もある。そのすべてに共通しているのは、家族というのは言葉ではなく、選び続けることで築かれていく、ということだ」


 語気は強くない。それなのに、ひとつひとつが芯を喰ってくる。優しさに見える厳しさ。カナデはそれを、真っ直ぐに受け止めていた。何も言い返さず、ただその言葉を、自分の胸に落とし込むように。


 そして――お父さんは視線を移し、わたしの名を呼んだ。


「春日さん」


 全身がぴんと緊張した。名前を呼ばれただけなのに、心臓が跳ねた。わたしは条件反射のように背筋を正し、視線を合わせる。けれど、その声には刺々しさはなかった。ただ、真っ直ぐだった。淡々として、揺らがない。


「……貴女はうちのお転婆娘の人生に、巻き込まれてしまう立場にあるでしょう」


 その言葉にはどこか娘への苦笑のような――長年付き合ってきた家族特有の、諦念と愛情が滲んでいた。


「それでも、こんな奏を選ぶと決めてくれたのなら……どうか、彼女と同じ重さの覚悟を持っていてください。奏を支えていくのは、きっと大変だと思います。なので、親として情けない限りですが……できれば、奏以上の覚悟を」


 わたしはお父さんを見つめたまま「はい」と頷き、ただ静かに頭を下げた。それ以上の言葉が出なかった。胸の奥に、ずしりと沈み込むような重さ。けれど、それは拒絶ではない。真正面から受け止められたからこその、言葉だった。


 テーブルの上には、再び静けさが戻る。だけどそれは、さっきまでのような凍りついた沈黙ではなかった。わたしたちは、試された。そして、ようやくこの家族の輪の中に、立つための扉が――ほんのわずかに、開かれた気がした。


 そんな張り詰めた空気のなかで、ふいに小さな音がした。お母さんが、静かにティーカップをソーサーに戻す音だった。さっきまでは鋭く感じられたその動作が、今はほんの少しだけ柔らかい。


「……まったく。奏ったら、本当にいつもそうなのよ」


 ぽつりと、呆れとため息を含んだ声がテーブルの上に落ちた。意外なほど感情の温度が滲んでいて、思わず顔を上げてしまう。お母さんは、わたしを見ていた。正面から、真っ直ぐに。鋭かった視線は和らぎ、黒い瞳にはどこか諦めにも似た、優しい光が宿っていた。


「自分のことになると、途端に見境がなくなる。理性的なふりをして、実際は感情のままに突っ走って。春日さんも、きっと嫌と言うほど知っているでしょうけど……昔から、そういう子だったの」


 静かな口調に、責めるような色はなかった。ただ、長年母親として娘を見守ってきた人にしか出せない、深い疲労と愛情が滲んでいた。


「音楽のこと、進路のこと、人間関係のこと。何度もぶつかって、何度も諦めかけて、結局いつも……あの子が最後に選ぶのは、自分の気持ちだった。親の心配なんて、どこ吹く風で」


 言いながら、お母さんはひとつ息をついた。その息は、わずかに揺れていた。まるで、どれだけ言葉にしても整理しきれない思いが、胸の内に残っているように。


「奏が……本気で貴女を選んだというなら。奏は私たちがどんな理屈を並べようと、どんな障害があろうと、絶対に引かない。そういう子なの。自分の選んだものを、何が何でも手放そうとしない」


 その言葉に、わたしの胸がきゅっと痛んだ。ただ、その真っ直ぐすぎる強さが、あまりに真剣すぎて――息が苦しくなるほどだった。


「頑固で、強情で、子どもの頃から本当に手がかかって……律と違って、親の言うことなんてちっとも聞かない。いつも心配の種ばっかり持って帰ってくる子だったわね」


 呆れたような声の端に、かすかな笑みが混じっていた。けれどその笑みの奥には、母親として積み重ねてきた覚悟のようなものが見えた気がした。


「だから、春日さん……いいえ、美奈さん」


 名前を呼び直された瞬間、わたしは反射的に姿勢を正した。敬意を込めて呼ばれたような気がして――けれど同時に、試されているようでもあって。


「そんな奏に選ばれて、今日まで付き合ってきた貴女も……本当に、強い方なんだと思うわ。奏のあの我儘っぷりに向き合って、ここまで来られたんですもの」


 わずかに浮かんだ微笑は、優しさというよりも――共感のように感じられた。娘に振り回されるという、母としての共通体験を分かち合うような。


「でも、どうか無理だけはしないでね。自分を押し殺してまで、奏に付き合う必要なんてない。もし、つらくなったら……それを裏切りだなんて、思わないで」


 言葉はどこまでも穏やかだった。だけど、その優しさが逆に胸を打った。胸の奥がいっぱいになって、喉のあたりが熱くなる。わたしは一度きつく唇を結んで、それから、ゆっくりと顔を上げた。


「……ありがとうございます」


 声は少しだけ震えてしまった。それでも、今だけは逸らしたくなかった。目の前にいるこの人に、ちゃんと自分の気持ちを伝えたかった。


「わたしは……奏さんに、無理をして合わせてきたつもりはありません。もちろん……苦しいことも、怖いことも、これからたくさんあると思います。今日、ここに来るのだって……本当は、すごく怖かったです」


 言葉を重ねるたびに、自分の弱さまで露わになっていく気がした。でも、それでいいと思った。強く見せたいわけじゃない。ただ、嘘だけはつきたくなかった。


「でも……それでも、わたしも自分で選んで、ここに来ました」


 その一言を口にした瞬間、わたしの中で何かが静かに定まった気がした。震えていたはずの声が、少しだけ落ち着いていく。


「奏さんに支えてもらったこと、たくさんあります。わたしはずっと……奏さんに助けてもらってばかりでした。だから、これからは……わたしも奏さんを、ちゃんと支えたいんです。守ってもらうだけじゃなくて……奏さんの隣で、一緒に生きていきたい。そう思っています」


 最後まで言い切って、わたしはもう一度、深く頭を下げた。怖さが消えたわけじゃない。何もかもが不安なままだ。それでも――自分の足で、ここに立っている。この人の隣を、自分の意志で選んでいる。そのことだけは、ちゃんと伝えたかった。


――この人は、わたしを拒んでいたんじゃない。ただ、自分の娘の人生を、誰かに託すということの重みを、ちゃんと測ろうとしていた。そのうえで――わたしを、人として見ようとしてくれていた。


「……とは言ってもよ、母さん」


 空気を少しだけほぐすような声が、その横から聞こえた。お兄さんが紅茶を啜りながら、茶化すように口を開く。


「母さんがそんなふうに、美奈ちゃんに『もし辛くなったら』なんて優しいこと言い出すってことはさ……もう奏には、降参ってことだろ?」


「律」


「いやいや、だってさ。さっきまで『社会的信用』とか『将来の資産形成』とか、やたら冷静にメス入れて、『私は認めません』みたいな雰囲気出してたのに……最後は『自分を大事にしてね』とか言ってさ。母さん、意外とツンデレだよな」


「律。貴方は黙ってなさい」


 呆れたような声とともに、お母さんは眉間に皺を寄せた。けれど、その声に棘はなかった。むしろ、家の中でよく繰り返される、いつものやりとりのように思えた。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。その瞬間、家の輪のなかに、ほんの少しだけわたしの居場所ができたような気がした。


「……でもまあ、俺としてはさ」


 お兄さんが言葉を切る。これまでの柔らかい空気とは少し違って、その声には芯のある真剣さが滲んでいた。視線が、わたしのほうへ向けられる。軽口の奥に隠された、兄としての本音がそこに宿っていた。


「美奈ちゃんになら、奏を任せてもいいって……ずっと思ってたよ。ふたりが高校生の頃から、ずっとな」


 その言葉に、隣のカナデが「兄貴……」と小さく呟いた。さっきまで震えていた声は、もうどこにもなかった。代わりに、その一言に込められた重さをしっかりと受け取るように、カナデの目が少し潤んでいた。


「奏はな、理屈をこねるくせに、いちばん肝心なことはいつも心で決めてんだよ。で、そうやって心で決めたことってさ、案外、長持ちするもんなんだよな」


 その言葉が、胸に沁みる。わたしのことを、カナデのことを――この人は、ずっと見てくれていたのだと思った。


「だから美奈ちゃん。改めて、これからも奏をよろしくな。奏と違って素直で可愛い妹ができて、俺としては嬉しい限りだよ」


 わたしの隣で、カナデがぷいっと顔を背ける。「キモ」と小さく吐き捨てる声には、どこか照れたような、安堵したような響きがあった。だけどその顔には、ようやく笑みが戻っていた。場の空気が少しだけ緩んだ、そのときだった。


「……奏」


 お母さんが静かにカップに添えていた手を離し、そっと口を開いた。その声は柔らかく、けれどどこか遠い記憶を辿るような響きを帯びていた。


「その名前はね、貴女が生まれたとき……お父さんとふたりで悩みに悩んで、最後につけた名前なのよ」


 思いがけない告白に、カナデの瞳が揺れる。お母さんはふっと目を細め、懐かしむように言葉を続けた。


「『奏でる』って、ただ音を出すだけじゃないの。周りの音を聴いて、合わせて、重ねて、初めて美しい音楽になる。人と心を通わせて、協調すること……そんな人に育って欲しくて、その名前を付けたのにね……」


 苦笑するような声に、カナデはゆっくりと視線を伏せた。その言葉が直接、心の深いところに届いているようだった。わたしもまた、その場にいながら胸に熱いものが込み上げてくるのを感じていた。


「それなのに貴女はずっと、ひとりで生きようとしてきた。誰にも合わせず、誰にも頼らず。律とだって、毎日ぶつかってばかりで。自分の音が誰かに届くなんて、信じていなかった。付ける名前を間違えたんじゃないかって、何度も思ったわよ」


 それは、どこまでも静かな指摘だった。けれど、その静けさがかえって深く、過去の痛みをひとつひとつすくい上げていく。


「そんな貴女に、何年も隣に立ってくれる人が現れるなんて……正直、想像していなかったわ。ようやく……奏は自分の音を重ねられる人と出会えたのね。お互いに聴き合い、支え合って、奏で合うことのできる相手に」


 お母さんの視線が、今度はわたしのほうに向けられる。先ほどの鋭さは、もうどこにもなかった。ただ、真っ直ぐに、わたしだけを見ていた。


「だから、美奈さん。どうか――この頑固で、不器用で、感情だけで突っ走る子を、よろしくお願いします」


 その言葉のひとつひとつが、丁寧にわたしの胸に沁み込んでいった。


「奏はこれまで、自分の名前に背を向けて生きてきた。でも、美奈さんの隣でなら……奏はようやくその名に恥じない人生を――奏でていけるのだと思います」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが溶けていくような感覚があった。「奏」という名前の重さも、痛みも、そして希望も――全部、わたしたちがこれから背負っていくのだと、ようやく実感が湧いてくる。


 奏。わたしはこの名前を、音としてだけじゃなく――その生き方ごと、隣で聴いていく。たとえ世界が、まだ追いつかなくても。わたしたちの毎日が、先に未来を奏でていく。


 わたしは気の利いた言葉なんて浮かばなくて、ただ目をぎゅっと閉じた。震えそうになる膝を押さえて、深く、深く頭を下げた。


「……こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします……」


 その瞬間、自分でも不思議なくらい、はっきりとわかった。この日を、ずっと夢に見ていたのだと。カナデの家族に真正面から向き合い、そして受け入れられる日を――そんな未来が本当にやってくるなんて、かつては想像もできなかった。


「ほらな? 奏も案外、名前通りの人生になってきたじゃん」


 お兄さんが、カナデをからかうように笑いながら言った。茶化すようなその言葉に、空気がふわりとほどける。


「うるさい。兄貴は黙ってて」


 カナデがぷいっと、横を向きながら呟く。けれどその声にはもう、緊張の影はなかった。わたしたちは目を合わせて、そっと微笑んだ。そして、並んでティーカップを手に取る。温かい紅茶の香りが、ゆっくりと身体の奥まで染み渡っていく。


 この瞬間から、わたしたちは家族として歩き始める。それは、「奏でる」ような時間だった。言葉も、沈黙も、仕草さえも――互いの音として、確かに響き合っていた。


 名前の意味を、生きていく。たとえ世界がまだ追いつかなくても、この人となら、きっと人生の最後まで――音を奏でて、生きていける。


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