小噺 おかえりを言う場所(社会人編)
日曜日の午前中、カナデが「家の前で待ってて」と言うものだから、わたしは落ち着かないまま家の前に立っていた。
空を見上げると、天気は快晴だった。気温もお出かけにはちょうど良くて、頬を撫でる風もやわらかい。カナデの帰国後、毎週のように休日はカナデと出かけているけれど――待ち合わせの前は、今でも胸が浮ついてしまう。何を着ていこうか悩んで、何度も鏡の前で服を合わせて、約束の時間より早く家を出てしまった。
最近は、お給料が服代ばかりに消えている。週末にカナデに会うと思うと、つい新しい服が欲しくなってしまう。だけど、同棲のためにちゃんと貯金もしておかなきゃ……なんて思いながら、新品のスカートの裾を整えたときだった。
家の前に、艶のある濃紺の車が滑るように停車した。太陽の光を浴びて、車体がぴかぴかと輝いている。一目で高そうだと分かるその車に、わたしは思わず息を止めた。ハザードランプが点滅し、運転席の窓が静かに開く。
開いた窓からサングラスをかけた美女がこちらを覗き込み、にこやかに笑った。
「……お待たせ、ミナ。乗って」
その言葉に、わたしは一瞬固まってしまう。声は何度も聴いてきたカナデの声なのに、目の前の状況に理解が追いつかない。だって、こんなにもかっこいい車と、サングラスと、ハンドルに手を置くカナデなんて――。
目を白黒させていると、カナデがサングラスを外して、ふっと笑った。
「ミナったら、驚きすぎでしょ。何その顔。車もサングラスも、全部兄貴のだから。私のじゃないよ」
「お、お兄さんの……?」
「そう。絶対ぶつけるなよって、しつこいくらいに釘刺された」
さらりと言われたその言葉に、また驚く。カナデのお兄さんがお医者さんになったことは知っていたけれど、こんな高級車に乗っているなんて――松波家、やっぱりすごい。わたしが震えながら助手席のドアを開けると、カナデが得意げに笑っていた。
「ミナが驚くかなーと思って、借りてきた。案の定だったね」
「そ、それは驚くよ……! だってカナデ、映画の人みたいだった……」
「映画の人って何」
カナデはおかしそうに笑いながら、わたしがシートベルトをつけるのを待ってくれた。車内はモダンな印象で余計なものがなく、革の座席が黒々と光っている。まだ新しい匂いがした。こんなにも高そうな車を借りて、それでどこへ連れて行かれるのだろう。妙にそわそわして、わたしは膝の上で両手を握りしめた。
ふと目線を下げると、ドリンクホルダーにカップ飲料が入っていることに気がついた。カナデの好みにしては珍しく、ピンク色のパッケージに「いちごミルク」と書いてある。カナデはちらりとわたしを見て、口角を上げた。
「ああ、それ、ミナの」
「えっ? わたしの……?」
「さっき、コンビニに寄ってきたから。ミナっぽいなーと思って買っといた。まだ冷えてると思うから、あげる」
軽く言われた言葉に、胸が締めつけられる。高校生の頃から、カナデはこういう人だった。わたしが欲しいと言う前に、そっと差し出してくれる。その優しさを受け取るたび、今でも少しだけ泣きたくなる。
「ありがとう……。でも……そんなに気を遣わなくてもいいんだよ?」
「いや。私がミナを甘やかしたいだけだから、気にしないで」
カナデは前を向いたまま、どこまでも真面目な声で言った。
「ミナのこと、死ぬほど甘やかすって決めてるから」
真剣すぎるその言い方に、つい笑ってしまう。まったくもう、カナデったら。カナデは頑固だ。それに、一度決めたらそれを貫く真っ直ぐさがある。
車がゆっくりと走り出す。わたしはカップを両手で包みながら、隣でハンドルを握るカナデの横顔を見つめた。短く整えられた黒髪。すらりとした輪郭。昔よりも少しだけ大人っぽくなった声。それなのに、わたしを見て笑う目だけは、あの頃のままだった。
「……今日は、どこに行くの?」
訊ねると、カナデは一瞬だけ黙った。交差点の手前で、車が緩やかに減速する。赤信号で停まったところで、カナデはハンドルに指を置いたまま、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「不動産屋」
「えっ?」
「この前話してたでしょ。一緒に住む家、探そうって」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。
わかっていたことのはずだった。カナデと一緒に住むと決めた。ふたりで物件を探そうと話した。スマートフォンで候補もいくつか見せ合った。だけど、こうして休日の朝に迎えに来てもらって、不動産屋へ向かっているのだと思うと――急にすべてが、現実の重さを持って降りてきた。
「ミナ?」
黙り込んだわたしを気遣うように、カナデが小さく名前を呼んだ。
「……別のとこが良かった?」
「ち、違う! 全然違うの! そんなことない……!」
カナデの言葉に、わたしは慌てて首を振った。
「すごく嬉しいの……! だって本当に、カナデと住むんだって思ったら……夢みたいで……! なんだか、急に……」
声が滲みそうになって、わたしはいちごミルクに口をつけた。甘い。冷たくて、どこか子どもっぽい味が舌に広がる。その甘さが、今のわたしにはちょうどよかった。
カナデはハンドルに手をかけながら、小さく息を吐いた。
「ミナってほんと……大げさだよね」
「だって……! カナデと一緒に住めるなんて……すっごく嬉しいんだもん……」
「うん。私も」
信号が青に変わる。カナデは静かにアクセルを踏み、車を走らせた。
「一応、楽器演奏可の物件をいくつか見せてもらう予定。駅からも、ミナの職場からも近そうなところを希望してる。家賃は、ミナの負担になりすぎないところを探したい」
「わたしは……カナデと住めるなら、どこでもいいよ」
思わずそう言うと、カナデはすぐに眉を寄せた。
「何それ。ミナ……どこでもいいは駄目だから」
「えっ?」
「ミナがちゃんと帰りたいと思える家じゃなきゃ、意味ないから。疲れて帰ってきた日にちゃんと休めて、ちゃんと眠れて……ミナが安心できる場所じゃないと、駄目」
その言葉が、わたしの中に真っ直ぐ届く。カナデはいつだって、わたしが自分で後回しにしてしまうものを、当然みたいに大切にしてくれる。嬉しくて、くすぐったくて、少しだけ困ってしまう。
「……カナデは?」
「私?」
「カナデにとっても、帰りたい場所じゃないとだめだよ。カナデだけが我慢するのも、だめだから。カナデは……どんな家がいいの?」
そう言うと、カナデは一瞬、驚いたように目を見開いた。そのまま前を向いたけれど、耳がほんのり赤い。
「……じゃあ、防音かな」
「ふふっ……やっぱりそこなんだ」
「うん。ミナと一緒に練習したいし」
あまりにも真面目に言うから、思わず笑ってしまった。けれど、その横顔を見ているうちに、わたしの胸はまたじんわりと温かくなる。
カナデの音がある家。カナデの気配がある朝。カナデとわたしの靴が並ぶ玄関。まだ見たこともない部屋のはずなのに、想像だけで涙が出そうになる。
「そういえば、ミナも免許取ったって言ってたね。運転してるの?」
雑談の中で、カナデがそう尋ねてきた。わたしは視線を逸らしながら、おずおずと頷く。昔見たカナデの運転姿がかっこよくて免許を取ってみたなんて、恥ずかしくて言えない。
「ミナも運転できるなら、そのうち車を買ってもいいかもね。それでさ、ふたりでいろんなところに出かけようよ」
そこまで言って、カナデは照れたように笑った。
「旅行行ったり、スーパーに買い出し行ったり。あと、海とかもいいかもね」
「海……!」
「うん。休みの日に、ミナと行きたい」
その言葉だけで、わたしは次のボーナスを全額車のために貯める決心をしかけた。けれど今は、同棲の準備が先だ。家具も、食器も、カーテンも必要になる。ふたりで生きるには夢だけじゃなくて、お金もいる。
そんな現実の重ささえ、今はどこまでも愛おしかった。
十分ほど車を走らせて、カナデは駅前の小さな不動産屋の前に車を停めた。ガラス張りの店先には、間取り図がいくつも貼られている。ワンルーム、1LDK、2DK。数字と線で描かれた部屋の形が、どうしてこんなに胸を高鳴らせるんだろう。
カナデがエンジンを切る。車内が静かになった。
「行こうか、ミナ」
車を降りて差し出された手を、わたしはそっと握った。まだ鍵もない。家具もない。どんな部屋に住むのかも、何も決まっていない。それでも――カナデと一緒に帰る場所を探しに行くのだと思っただけで、わたしの胸はいっぱいだった。
不動産屋の扉を開けると、小さなベルが軽い音を立てた。店内には印刷された間取り図が壁一面に貼られていて、白い紙の上に並んだ数字や線が、まだ形のない暮らしの輪郭みたいに見えた。カウンターの向こうから、四十代くらいの男性が顔を上げる。柔らかい笑みを浮かべて、わたしたちに会釈した。
「いらっしゃいませ。ご予約の松波様ですか?」
「はい」
カナデが前に出て、落ち着いた声で答える。その横顔はいつものように涼しげで、わたしはつい背筋を伸ばした。
こういう場所は、まだあまり慣れていない。契約書、審査、保証人、家賃――大人になったはずなのに、知らない言葉が並ぶだけで急に足元が頼りなくなる。けれど隣には、カナデがいる。それだけで不思議と息ができた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
案内されたテーブルに、ふたり並んで腰を下ろす。白い机の上には、すでに何枚かの物件資料が用意されていた。駅から徒歩十分、1LDK、楽器相談可。職場からの距離を考えてくれたのか、見覚えのある地名も混ざっている。
カナデが資料を覗き込み、すぐに真剣な顔になった。その横で、わたしは膝の上に置いた両手を握りしめる。左手の薬指にある指輪が、指の間で小さく触れた。
「本日はお二人でのご入居をご希望、ということでよろしいですか?」
「はい」
カナデが短く答える。担当者は頷きながら、申込用紙らしきものに視線を落とした。
「では、ご関係は……ご姉妹、ではないですよね。ご友人同士でのルームシェアという形でしょうか?」
何気ない声だった。本当に、ただ確認しただけなのだと思う。悪意なんてなくて、申込書の空欄を埋めるための、ごく普通の質問だった。それなのに、その一言はわたしの中に小さく刺さった。
ご友人同士。その言葉が、四年前よりもずっと重く聞こえた。高校生の頃なら、わたしはきっと困った顔で俯いていたと思う。どう答えればいいかわからなくて、何も言えなくなって、カナデが横から「友達です」と言ってくれるのを待っていた。
あの頃のカナデの「友達」は、わたしを守るための言葉だった。間違っていない。確かに必要だった。
隣で、カナデがわずかに息を吸う気配がした。きっと、答えようとしてくれている。わたしが困らないように、変な空気にならないように――いつものように、先に盾になってくれようとしている。
わたしはカナデの袖を、そっと摘まんだ。カナデの視線がこちらへ向く。その瞳が、少し驚いたように揺れていた。
「あの……」
声が震えた。自分でも情けないくらい、小さな声だった。担当者がペンを止めて、わたしを見る。カナデも何も言わず、わたしの言葉を待ってくれていた。
喉が乾いて、指先が冷たくなる。それでもわたしは、息を吸った。
「友人、ではなくて……」
左手を握りしめると、薬指の指輪が掌に食い込んだ。
「……パートナー……なんです」
言えた。たったそれだけの言葉なのに、胸の中で何かが大きく鳴った。怖くて、恥ずかしくて、でもそれ以上に――これだけは、譲りたくなくて。
最後のほうは、ほとんど消えそうな声だった。それでも、ちゃんと言葉になった。
カナデが息を呑む音がした。横を見る勇気はなかった。見てしまったら、泣いてしまいそうだった。だからわたしはただ、膝の上の手を握っていた。
担当者は一瞬だけ目を瞬かせたあと、すぐに表情を整えた。
「ああ、失礼いたしました。では、パートナー同士でのご入居ですね」
そう言って、用紙の欄に何かを書き込んでいく。声の調子は、さっきとほとんど変わらなかった。その何気なさが、逆に少しだけ胸に沁みた。
「物件によっては、契約者様と同居人様という形で申請していただくことになります。管理会社さんによって確認事項が違うので、そのあたりも含めてご説明しますね」
「……はい。お願いします」
返事をしたのは、カナデだった。その声はいつもより少しだけ低くて、かすかに震えていた。わたしがそっと横を見ると、カナデは正面を向いたまま、何かを堪えるように唇を結んでいた。
机の下で、カナデの手がわたしの手を探す。触れた指先は、驚くほど熱かった。わたしが握り返すより先に、カナデの指がぎゅっと絡んでくる。強いのに、少しだけ頼りない。その力に、胸が締めつけられた。
担当者が資料を広げ、家賃や条件の説明を始める。わたしは頷きながら、ずっとカナデの手の温度を感じていた。
友人ではなく、姉妹でもなく。恋人、と書く欄もない。婚約者、と呼ばれることもない。夫婦には、なれない。
それでも今、わたしは自分の声で言った。
――カナデは、わたしのパートナーだ。
担当者は資料を一枚ずつ並べながら、家賃や初期費用、駅からの距離、周辺環境について説明してくれた。
「こちらは駅から徒歩十二分ですね。築年数は少し経っていますが、リフォーム済みです。楽器については、時間帯の制限付きで相談可能となっています」
楽器相談可。その言葉に、カナデの指がぴくりと動いた。机の下で繋いだ手から、その反応がはっきり伝わってくる。わたしは横目でカナデを見る。カナデはもういつもの落ち着いた顔に戻っていて、資料に視線を落としながら、真剣に頷いていた。
「……時間帯って、具体的には何時から何時までですか?」
「物件によりますが、午前十時から午後八時までとしているところが多いですね。金管楽器の場合は使用する楽器や演奏時間、防音対策について、管理会社への確認が必要になります」
「わかりました。できれば、家でも普通に吹ける物件を探していて」
「でしたら、こちらは比較的条件に合うと思います」
「なるほど……」
カナデの表情が、すっと引き締まる。音のことになると、カナデはいつも真剣だ。けれどその表情は高校生の頃のような尖ったものではなくて、ひとつひとつ現実を確かめていく大人の顔だった。
その顔を見るだけで、目の奥が熱くなる。わたしたちは、本当に家を探している。デートの行き先を選んでいるわけじゃない。気まぐれに未来を夢見ているわけでもない。家賃を見て、条件を確認して、通勤時間を考えて、楽器の音をどうするか悩んでいる。そんな現実のひとつひとつが、あまりにも眩しかった。
「こちらは駅から少し離れますが、2DKです。お二人それぞれのお部屋を確保できますし、収納も多いです。ただ、職場までは少し距離がありますね」
担当者が次の資料を差し出す。そこには四角く区切られたふたつの洋室と、ダイニングキッチンが描かれていた。線だけの間取り図なのに、見ているだけで想像が膨らんでしまう。
ふたつも部屋がある。寝室はどうするのだろう。休日の朝には窓を開けて、ふたりでコーヒーを飲んで――。
そこまで想像したところで、頬が熱くなった。
「……ミナ?」
カナデが横目でわたしを見て、小さく首を傾げる。
「な、なんでもない……」
「今、絶対なんか考えてたでしょ」
「考えてないよ……」
「嘘。顔が赤い」
担当者の前なのに、カナデは平然とそんなことを言う。慌てて俯くと、机の下で繋いだ手を軽く握られた。からかうみたいで、でもどこか優しい力だった。
ずるい。わたしばっかり、こんなにも落ち着かない。
「お二人とも、通勤やお仕事の都合はどちらを優先されますか?」
担当者の声に、わたしははっと顔を上げた。
「えっと……わたしは市役所の方まで通うので、できれば近いと助かります。だけど、カナデも仕事で移動が多いと思うので……」
そこまで言うと、カナデがすぐに首を振った。
「私は大丈夫。だって、呼ばれる場所も毎回違うから。ミナの通勤を優先した方がいい」
「でも……」
「ミナは平日毎日通うでしょ。私は毎日同じ場所に行くわけじゃないし」
あまりにも当然みたいに言われて、喉元が詰まる。カナデはいつもそうだ。わたしのことを、わたし以上に考えようとしてくれる。嬉しい。けれど、それだけじゃ嫌だった。
「……カナデのことも、大事だよ」
声はまだ頼りなかったけれど、わたしはカナデの目を見た。
「わたしだけが楽な場所じゃなくて、カナデもちゃんと、住みやすい場所がいいよ」
そこまで言うと、カナデの瞳がほんの少し揺れた。さっき「パートナーです」と言ったときと同じように、カナデは驚いた顔をした。わたしがそんなことを言うなんて、思っていなかったのかもしれない。
でも、違う。わたしはもう、カナデに守ってもらうだけではいたくない。隣に立つと決めたのだから、カナデが息をつける場所も、一緒に探したい。
「……じゃあ、どっちも大事か」
カナデは困ったように笑った。けれど、その目は確かに嬉しそうだった。
「通勤しやすくて、楽器も吹けて、ミナがちゃんと眠れる家」
「あと、カナデが無理しなくていい家」
「それは……条件に書く欄ないでしょ」
「あるよ。わたしが書く」
「何それ」
カナデが吹き出す。担当者もつられたように、柔らかく笑った。
「大切な条件ですね。では楽器相談可で、防音性がある程度あって、通勤もしやすい範囲で探してみましょうか」
「お願いします」
カナデと声が重なった。それだけで、また胸がいっぱいになる。たった一言が重なっただけなのに、同じ未来を見ているみたいだった。
担当者は何件か候補を絞り込み、資料を並べ直してくれた。そのうちのひとつに、わたしの視線が止まる。
市役所から徒歩十五分。駅もそれほど遠くない。間取りは2LDK。築年数は少し経っているけれど、鉄筋コンクリート造で、隣室との間には収納を挟んでいるから音も比較的響きにくいらしい。リビングは広くて、二つある洋室のうち一方は寝室に、もう一方は楽器や譜面を置く部屋にできそうだった。
資料の写真には明るい窓と、白い壁の部屋が写っていた。何もない部屋だった。それなのに、なぜか目が離せない。写真の向こうに、まだ見たことのない日常が待っているような気がした。
「……ここ」
思わず呟くと、カナデが資料を覗き込んだ。
「気になる?」
「うん……。なんとなく、だけど」
「なんとなく?」
「うまく言えないけど……帰ってきたい感じがする」
自分で言って、なんだか恥ずかしくなる。まだ見てもいない部屋なのに、何を言っているんだろう。カナデは真剣な顔で資料の写真をじっと見つめてから、静かに頷いた。
「じゃあ、見に行こうか」
その言葉に、心臓が跳ねた。
担当者はすぐに管理会社へ確認の電話を入れ、その日のうちに内見ができることになった。話が進んでいくたびに、現実が少しずつ近づいてくる。怖いくらいに。嬉しいくらいに。
店を出る準備をしている間、カナデは黙っていた。いつものようにさらりと笑うわけでもなく、資料を手にしたまま、どこか遠くを見るような顔をしている。
「カナデ……?」
呼びかけると、カナデははっとしたようにこちらを向いた。
「ごめん。ちょっと……さっきの、思い出してただけ」
「……さっきの?」
「ミナが、パートナーって言ってくれたこと」
心臓がまた跳ねる。急にその話に戻されて、頬が熱くなった。担当者は鍵を取りに奥へ行っていて、店内にはわたしたちしかいない。けれど、それでも恥ずかしくて、わたしは机に視線を落とした。
「……勝手に言って、ごめんね」
「なんで謝るの」
「だって……カナデが困るかなって。こういう場所で、そういうふうに言ったら……」
「困るわけないじゃん」
カナデの声が、思ったより強かった。驚いて顔を上げると、カナデは眉を寄せていた。怒っているわけではない。ただ、胸の中で何かが追いつかないみたいな顔だった。
「びっくりはした。私が答えようと思ってたのに、ミナが先に言ったから」
「うん……」
「でも、嬉しかった」
カナデはそこで言葉を切った。それから細く息を吐き、逃げるようにわたしの左手へ視線を落とした。指輪が光っている。カナデがそこに触れるか迷うように指を動かして、結局、机の陰でそっとわたしの手を取った。
「すごく……嬉しかった。ミナが、勇気を出して言ってくれたことが……思った以上に、嬉しかったみたい」
その声があまりにも優しくて、また泣きそうになる。喉元がぎゅっと詰まって、わたしは俯いた。
「だって……カナデと結婚しようって言ったのに、ここで友達ですって答えたら……わたしが自分で、あの言葉を傷つけちゃうような気がしたの。でも……やっぱり、怖かったよ」
カナデは何も言わなかった。その代わり、繋いだ手に力がこもる。痛いくらいではない。けれど、はっきりとした力だった。カナデの指が、わたしの指の間に深く絡む。
「……ミナは、強いね」
ぽつりと落とされた声は、どこか泣きそうだった。わたしは首を振る。
「そんなことない……」
「それでも、ミナはちゃんと言ったじゃん」
カナデは、わたしから目を逸らさなかった。
「……そういうの、強いって言うんじゃない」
それに、胸がゆっくり熱くなる。わたしは強くなんてない。今だって怖いし、知らない人の前で自分たちの関係を口にするだけで、こんなにも心臓がうるさい。けれど――カナデがそう言ってくれるなら。カナデの隣にいるわたしが、ほんの少しでも強く見えたのなら。それだけで、もう少しだけ頑張れる気がした。
「……でも、ひとりで全部背負わなくていいから」
カナデがわたしを見て、低い声で続ける。
「次は私も言うし、ミナが言いたくないときには、無理に言わなくていい」
「……うん」
「誰に何を言われても……私たちは、パートナーなんだから」
私たちは。その響きが、左手の指輪よりも確かな重みを持っていた。
奥から担当者が戻ってくる気配がして、わたしたちは慌てて手を離した。けれど指先には、まだカナデの熱が残っている。その熱を逃がしたくなくて、わたしはそっと左手を握った。
「それでは、こちらの物件からご案内しますね」
担当者が鍵を掲げる。小さな金属が、蛍光灯の下できらりと光った。
まだ、わたしたちの鍵ではない。それでもその光を見た瞬間、胸が大きく高鳴った。
カナデとわたしが帰る場所。その扉を開ける鍵が、今、目の前にある。
「はい。お願いします」
今度もカナデと声が重なった。わたしたちは顔を見合わせて、少しだけ笑った。
不動産屋を出ると、外の光が眩しかった。担当者は店の前に停めてあった白い営業車に乗り込み、窓を開けて「それでは、前を走りますのでついてきてください」と声をかけてくれる。カナデは軽く頷いて、お兄さんから借りた紺色の車のドアを開けた。
助手席に乗り込むと、いちごミルクがドリンクホルダーの中で結露していた。甘い匂い。革のシートの匂い。カナデの柔軟剤とも、シャンプーともつかない、かすかな匂い。
全部がさっきまでと同じなのに。わたしの胸の中だけが、まだ落ち着かなかった。
担当者の車がゆっくりと走り出す。カナデもそれに続いて、静かにアクセルを踏んだ。車内にはしばらく、何の音もなかった。エンジンの低い響きと、ウインカーの規則正しい音だけが、やけにはっきり耳に届く。
窓の外を、日曜日の街が流れていく。買い物袋を提げた親子連れ。自転車で横断歩道を渡る学生。犬を連れて歩く人。どれもなんでもない日常で、わたしもこれまで何度も見てきた光景のはずだった。
それなのに今日は、少しだけ違って見えた。
この街のどこかに、カナデとわたしの家ができるかもしれない。そう思っただけで通り過ぎるスーパーも、パン屋も、知らない名前のクリーニング店さえも、急にわたしたちの生活の一部に見えてくる。
「……ミナ」
前を見たまま、カナデがわたしの名前を呼んだ。
「うん……?」
「さっきから、すごい顔してる」
「えっ? どんな顔……?」
「今にも泣きそうで、でもちょっとニヤけてる顔」
言い当てられて思わず頬に手を当てると、カナデは口元を緩めた。
「ミナの顔見てると、面白いよ」
「だって、いろいろ考えちゃって……。この道をカナデと一緒に通るのかなとか。このスーパーで買い物するのかなとか。カナデが家で待っててくれる日もあるのかなとか……そういうの……」
言葉にすると、急に恥ずかしくなった。けれど、カナデは笑わなかった。横顔のまま、ほんの少しだけ目を細める。
「いいね」
「……えっ?」
「そういうの。私も考えてた」
心臓が小さく跳ねる。カナデは営業車との車間距離を保ちながら、ゆるやかにハンドルを切った。カナデの左手の薬指にある指輪が、窓から差し込む光を受けて、ふっと光る。
「ミナがこの道を通って、私たちの家まで帰ってくるのかなとか」
その声は、いつものカナデより少しだけ柔らかかった。
「……ちゃんと考えてたよ。私も」
胸が詰まった。カナデも、同じ未来を見てくれている。わたしだけが浮かれているわけじゃない。わたしだけが、こんなにも生活を夢見ているわけじゃない。
そう分かっただけで、また泣きそうになる。
「カナデ……」
「でもさ……」
そこまで言って、カナデが小さく息を吐く。
「私、ちゃんとできるのかな」
その声が少しだけ低くなった。ふいに、車内の空気が変わる。わたしは黙って、カナデの横顔を見つめた。サングラスはもう外していて、その瞳は真っ直ぐ前を向いている。けれど、どこか遠くを見ているようにも見えた。
「生活って……楽器みたいに練習すればできるってわけでもないでしょ。家賃とか、家事とか、仕事とか。ミナは毎日ちゃんと働いてて、ちゃんと生活してて。私、そういうの全部苦手だし……」
「カナデ……」
「ミナにばっか、背負わせたくないんだよ」
それは、冗談ではなかった。この間「ヒモになりそう」なんて笑っていたカナデの言葉の奥に、本当はこんな不安があったのだと今さら気づく。カナデは自由で、どこへでも行ける人だ。音楽を持って、風のように生きていける人。だけどその自由は、きっと不安定さと隣り合わせで。
わたしの安定がカナデを安心させることもあれば、逆に傷つけることもあるのかもしれない。そう思った瞬間、胸が痛んだ。
「……わたしもね」
信号が赤に変わり、車がゆっくり停まる。担当者の営業車も、少し前でブレーキランプを灯していた。わたしは膝の上で両手を握りしめながら、小さく言った。
「わたしも……ちゃんとできるか、わからないよ」
カナデがこちらを見る。
「仕事して、家のことして、楽団のこともして……それでカナデと暮らして。きっと、疲れて帰ってきて……何もできない日もあると思う。情けない顔もすると思うし、カナデに甘えすぎちゃうことも……あると思う」
言いながら、自分で少しだけ怖くなる。夢みたいな同棲。ずっと望んでいた未来。だけど、それは綺麗な場面だけでできているわけじゃない。疲れた夜も、散らかった部屋も、すれ違う時間も、言いすぎてしまう日も、きっとある。
それでも。
「でも……わたしはカナデと一緒に、できるようになりたいよ」
わたしはカナデを見つめた。
「最初からちゃんとできなくても……ふたりで覚えていきたい。カナデが料理を覚えるみたいに、わたしも……カナデと暮らすことを、少しずつ覚えたい」
「……料理?」
「たとえばの話」
「まあ、そうだけどさ」
カナデが思わず吹き出した。さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。信号が青に変わり、車がまたゆっくりと動き出した。
わたしは胸の奥に残る怖さごと、言葉を続ける。
「だから……カナデだけが頑張らなくていいよ。わたしだけが頑張るのも、たぶん……違う。ふたりで失敗しながら、一緒に暮らしていきたいの」
カナデはしばらく黙っていた。その横顔は泣きそうにも、笑いそうにも見えた。やがて小さく息を吐いて、カナデは前を向いたまま呟く。
「ミナって、たまにすごいこと言うよね」
「えっ……そうかな?」
「うん。今の、かなり効いた」
「効いた……?」
「効いた」
カナデは片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手をそっと伸ばしてくる。そして一瞬だけ、わたしの手に触れた。運転中だから、ほんの少し。指先が重なるだけの、短い接触だった。
それでも十分だった。
「……じゃあ、ふたりで覚えよう」
カナデが言う。
「家のことも、生活のことも。ミナに甘えることも、ミナを甘やかすことも。喧嘩したあとの仲直りの仕方も、疲れてる日のご飯の手抜きも」
「うん……」
「あと、料理も」
「ふふっ、それは一緒にがんばろう」
「努力する」
笑い合って、車内の空気がやわらかくほどける。
担当者の車は駅前の通りを抜けて、少し静かな住宅街へ入っていった。歩道沿いには植え込みが続き、小さな公園の横を通り過ぎる。ベンチでは年配の二人が、並んで缶コーヒーを飲んでいた。
ふたりとも白髪で、背中が少し丸くて、けれど肩が触れ合う距離に自然と座っている。その姿を、思わず見つめてしまった。カナデも気づいたのか、ちらりと視線を移していた。
「……ミナ」
「うん」
「ああいうの、いいね」
それだけで、言いたいことはわかった。
――一緒に歳を取って、一緒におばあちゃんになっていこう。
あの夜の言葉が、胸の中で静かによみがえる。遠い未来だと思っていた。でも、こうして街の中にある誰かの日常として目の前に現れると、それは急に、手を伸ばせば届きそうなものに見えた。
「うん……いいね」
わたしは頷く。
「カナデとなら……わたしも、ああなりたい」
言ってから、顔が熱くなる。カナデは前を向いたまま唇を結び、静かに頷いた。
「なるよ」
短い言葉だった。けれど、その声に迷いはなかった。
「絶対、なる」
そのうち担当者の車がウインカーを出し、白い外壁のマンションの前で停まった。五階建ての、派手ではないけれど清潔感のある建物だった。エントランスの横には小さな植栽があって、日当たりのいい場所に自転車置き場が並んでいる。
カナデが車を停め、エンジンを切った。
わたしは目の前の建物を見上げた。ここが、もしかしたら。もしかしたら、わたしたちの帰る場所になるかもしれない。そう思っただけで、息の仕方がわからなくなる。
「……ミナ、大丈夫?」
カナデが心配そうに覗き込んでくる。わたしは慌てて頷いた。
「大丈夫。ちょっと……緊張してるだけ」
「内見でそんなに緊張する?」
「だって……カナデと住む家かもしれないんだよ」
そう言うと、カナデは一瞬だけ目を見開いて、それから困ったように笑った。
「……そうだね」
その声が、ひどく優しかった。
車を降りると、あたたかい風が頬を撫でた。担当者が鍵を手に、エントランスの前で待っている。カナデはわたしの隣に並び、そっと歩幅を合わせてくれた。
自動ドアの前に立つ。ガラスに映ったわたしたちは、どこか緊張した顔をしていた。担当者が鍵を差し込み、エントランスの扉を開けた。
「では、ご案内します」
その声に促され、わたしたちは一歩を踏み出す。まだ知らない部屋へ。まだ名前のない未来へ。カナデと一緒に、帰る場所を探すために。
エントランスを抜けると、ひんやりとした空気が肌に触れた。外の春めいた風とは違う、建物の中に沈んだ静かな匂い。ほんの少しだけ消毒液のような、コンクリートのような、知らない誰かの生活が遠くに残っているような匂いがした。
担当者に案内されて、エレベーターに乗る。狭い箱の中で、わたしとカナデは自然と肩が触れ合う距離に立った。カナデがちらりとこちらを見たけれど、今度は何も聞かなかった。ただ、触れた肩を離さずにいてくれた。
胸の前で鞄の紐を握りしめる。大丈夫、のはずだった。けれど心臓はずっと落ち着かない。これから見る部屋が、もしかしたらカナデとわたしの家になるかもしれない。その事実だけで、足元が少し浮いたような気がした。
エレベーターが小さく揺れて止まる。廊下に出ると、窓の向こうから穏やかな光が差し込んでいた。廊下の端には青い空が見える。遠くで車の走る音がして、どこかの部屋からかすかに洗濯機の回る音が聞こえた。
生活の音。まだわたしたちのものではないのに、その響きに胸がきゅっと締め付けられる。
「こちらです」
担当者が一番奥に近い部屋の前で足を止めた。手元の鍵が、ちゃり、と小さく鳴る。その音に、わたしは思わず息を止めた。
鍵が差し込まれ、ゆっくりと回される。扉が開くと、薄暗い玄関の向こうから、何もない部屋の匂いが流れてきた。ワックスの匂いが残る床と、白い壁と、まだ誰のものでもない空気。
「どうぞ」
促されて、カナデが先に一歩入った。わたしもその後に続く。
玄関は、思っていたより広かった。靴箱が壁いっぱいに備えつけられていて、棚板の高さも変えられるらしい。カナデはすぐに靴箱を開けて、中を覗き込んだ。
「靴箱、結構入るね」
「……カナデ、靴たくさん持ってるの?」
「全然。でも、ミナが増やすかもしれないじゃん」
「わ、わたしもそんなに持ってないよ……!」
まるで当然みたいに、カナデはわたしの靴がここに並ぶことを考えている。それがおかしくて、どうしようもなく愛しかった。
廊下を抜けると、目の前にリビングが広がった。白い壁。木目の床。大きすぎないけれど、ふたりで過ごすには十分な空間。南向きの窓からは光がたっぷり差し込んでいて、床の上に四角く明るい影を落としていた。
何もない部屋だった。テーブルも、カーテンも、ソファーもない。誰かの笑い声も、食器の音も、トランペットの音もない。ただ空っぽで、少し響くような静けさだけがあった。
なのに――わたしには、見えた。窓辺に立つカナデ。朝の光を浴びながら、マグカップを手にしている。キッチンからは少し焦げた朝ご飯の匂いがして、わたしは寝ぼけたまま廊下を歩いてくる。カナデが振り返って、「おはよう」と笑う。わたしはその声だけで、今日も生きていけると思う。
夜には、ここにテーブルを置く。仕事から帰ったわたしが「ただいま」と言うと、カナデが玄関まで迎えに来てくれる。ふたりでご飯を作って、たぶん時々失敗して、笑いながら食べる。食後にはソファーに並んで座って、カナデがわたしの髪に触れて、わたしはその肩にもたれかかる。
まだ何もない部屋なのに。わたしの中ではもう、いくつもの朝と夜が始まっていた。
「……ミナ?」
カナデの声で、はっと我に返る。気づけばわたしは、リビングの真ん中で立ち尽くしていた。担当者は窓の鍵や設備について説明していたようだけれど、ほとんど耳に入っていなかった。
「どうしたの」
カナデが近づいてくる。その声は、少しだけ心配そうだった。
「……なんでもない」
「なんでもない顔じゃないでしょ」
「うん……」
ごまかそうとしたけれど、できなかった。胸の奥がいっぱいで、今にも零れてしまいそうだった。
「なんか……ここに、カナデがいるのが見えた気がして……」
言った瞬間、顔が熱くなる。何を言っているんだろう。まだ決まってもいない部屋で、そんなことを。カナデの目が、わずかに見開かれた。
「私?」
「うん。カナデに、おはようって言う朝が……見えた気がしたの」
そこまで言うと急に恥ずかしくなって、わたしは慌てて俯いた。
「ごめん……変なこと言ってるよね……」
「変じゃないよ」
カナデの声は、驚くほど穏やかだった。顔を上げると、カナデはリビングの窓の方を見ていた。光の中に何かを探すように、眩しそうに目を細めている。
「……いいね、それ」
ぽつりと呟かれた言葉が、床に落ちた光みたいに柔らかかった。
「ミナがここで、おはようって言ってくれるの」
カナデはそう言って、窓の方へ視線を逃がした。
「私も見たい」
その一言で、胸の奥が崩れそうになる。わたしだけじゃない。カナデも、この部屋に未来を見ようとしてくれている。
担当者は気を遣ってくれたのか、少し離れたところで設備の確認をしていた。カナデはわたしの隣に立ち、同じように部屋を見渡す。
「広さは……ふたりなら十分かな。ここにテーブル置いて、あっちにソファー置けそう」
「カナデ、もう置く場所考えてる」
「ミナだって、朝のことまで考えてたでしょ」
「それは……そうだけど……」
「じゃあ同じ」
カナデはふっと笑う。わたしもつられて笑った。同じ。その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。
リビングの隣には洋室があった。こちらにも窓があって、やわらかい光が入っている。寝室にするにはちょうどいい広さで、クローゼットも思ったより大きい。
「……ダブルベッド、置けるかな」
カナデが何気なく言ったその瞬間――カナデのぬくもりを思い出してしまって、顔が一気に熱くなった。カナデは一拍遅れて、わたしの反応に気づいたらしい。視線をこちらに向け、ほんの少しだけ呆れたように頬を緩めた。
「……ミナ、何考えたの?」
「な、何も考えてない……!」
「絶対考えたでしょ」
「考えてない……!」
「ふうん」
カナデは楽しそうに笑う。ずるい。こういうときだけ、昔みたいにわたしをからかう顔をする。けれど、その頬も少しだけ赤いことに気がついた。カナデだって、きっと同じことを考えてる――そう思ったら恥ずかしさの奥に、ふわりとした嬉しさが広がる。
わたしたちは同じ未来だけじゃなくて、同じ夜まで想像している。それがたまらなく、くすぐったかった。
キッチンは対面式で、思ったより使いやすそうだった。コンロは二口。シンクも広い。作業台は少し狭いけれど、工夫すればなんとかなりそうだ。カナデはしばらく黙って、キッチンを見つめていた。
「……ここなら、ミナのごはん作れそう」
「えっ」
「何、そんなに驚く?」
カナデは少しむっとした顔をしたあと、すぐに笑った。
「まあ、得意じゃないけど。でもこれだけあれば、ミナと並んで料理の練習できそうだよ」
「……うん。ふたりで覚えるんだもんね」
覚える。その小さな言葉が、今は何より確かな約束に思えた。
「わたしも……カナデの好きなごはん、作れるようになりたい」
「私、ミナが作ってくれるなら何でも好きだけど」
「そういうの、ずるい……!」
「だって本当のことだし」
カナデは平然と言う。わたしはもう何も返せなくなって、ただキッチンの蛇口を見つめた。洗い物をする人と、隣で食器を拭く人。そんな役割さえ、これからふたりで決めていくのだろう。
そんな、なんでもない未来。それが欲しくてたまらなかった。
寝室にできそうな洋室の向かいには、もうひとつ、少し狭い部屋があった。カナデは中に入るなり壁を見回して、クローゼットの奥行きを確かめる。
「……ここ、楽器の部屋にできそう」
「カナデの仕事部屋?」
「私だけのじゃないよ。ミナの楽器も置くんだから、ふたりの部屋」
当然みたいに言われて、胸の奥が温かくなる。壁際に並ぶ二つのケースが、まだ何もない床の上に見えた気がした。
「防音については管理会社さんに改めて確認しますが、通常の物件よりは音が響きにくい造りです。ただ、時間帯や音量には注意が必要ですね」
担当者の説明に、カナデは真剣な顔で頷いた。
「時間帯は守ります。必要なら防音設備も入れます。家でも吹けることが、私には大事なので」
「その形でしたら、相談しやすいと思います」
カナデは資料を見ながら、設備や条件を一つひとつ確認していく。わたしは黙って、その横顔を見ていた。さっきまでわたしとベッドのことで赤くなっていた人とは思えないほど、落ち着いた顔だった。頼もしくて、どうしようもなく誇らしい。
「……ミナは、どう?」
ふいに、カナデがこちらを向いた。
「えっ?」
「私は結構いいと思う。条件も悪くないし、日当たりもいい。楽器のことは確認が必要だけど、ちゃんと相談できそうだし。でも、ミナが住みたいと思えるかが一番大事だから」
住みたい。
そんなの、リビングへ入った瞬間から決まっていた。ここにカナデがいる朝を見てしまった。ここへ帰ってくる自分を想像してしまった。だったら、答えはひとつしかない。
それでも、この部屋がいいと言ってしまえば、本当に未来が始まる。幸せが現実になる瞬間は、こんなにも足がすくむものなのだと初めて知った。
わたしは左手の指輪に触れた。冷たい金属の輪郭が、指先に確かにあった。
「……わたし」
声が震える。
「……ここが、いい」
言えた瞬間、胸の中に光が差したような気がした。
「わたし、ここに……カナデと帰ってきたい」
カナデは少しだけ息を呑んだ。それから、ひどく柔らかい顔で笑った。泣きそうにも見えるその笑顔を見た瞬間、わたしの視界まで滲みそうになる。
「……うん」
カナデが頷く。
「じゃあ、ここにしよう」
「いいの……?」
「ミナがそう思ったなら、ここがいい」
その声には迷いがなかった。わたしは何も言えなくなって、ただカナデを見つめた。カナデは担当者の方へ向き直り、静かに言う。
「申し込みを前向きに進めたいです。条件の確認をお願いできますか」
「承知しました。では、管理会社へ楽器の件も含めて確認してみますね」
担当者が頷き、書類を取り出す。その現実的な動作に、胸がまた高鳴った。申し込み。審査。契約。これからまだ、いくつも越えなければいけないものがある。すべてがこの場で決まるわけではない。
まだ、わたしたちの家ではない。それでもわたしたちは今、確かに選んだ。
この部屋を。この未来を。
カナデがわたしの隣に立った。並んだ手の小指だけが、そっと触れた。
――ここにしよう。
言葉にしなくても、カナデの指先がそう言っていた。




