第五話 金色と銀色の別れ(6)
「待ってよ、奏!」
ほのかが廊下に出た時、奏はまだあまり歩みを進めていなかった。放課後のひんやりとした廊下に、ほのかの声が響き渡る。奏はゆっくりと振り返り、呼び止めてきたほのかを静かに見据える。怒りもせず、泣きもせず。奏は何の感情もこもっていないような瞳で、トランペット片手に立っていた。
「……さっきも言った通り、人望のあるほのかがソロを吹くべきだと思うよ。私はあの子たちが言う通り協調性ないし、部内でも嫌われてるみたいだからさ」
「そんな……そんなことない! 私は、私は奏に吹いて欲しい。皆に、奏の演奏を聴いてほしいの」
奏が部内で上手くやれていないのは、薄々気が付いていた。誰よりも楽器が上手い癖に、出席率が悪い。そんな奏が気に入らなかったのか、「松波奏は調子に乗ってる」なんて言葉が、いつしか部員間で囁かれるようになっていた。ほのかは、部長としてその言葉を諌めるべきだったのに――どこかで「皆、奏の圧倒的な演奏を聴けば奏の凄さを分かってくれる」なんて思っていた。甘かった。全部が、甘かったんだ。ほのかの喉はぎゅっと締め付けられ、声を出すことができなかった。奏は一瞬だけ寂しそうな表情を見せたあと、くるりと踵を返し、片手をひらひらと振って歩きだした。長いスカートが、ほのかを拒絶するように勢いよく花開く。
「待って、奏……」
ほのかがその背中に片手を伸ばそうとした瞬間、背後から「ほのか部長ー」と呼ぶ後輩の声と軽快な足音が響いてくる。奏を追いかけるべきか、向かってくる後輩を待つべきか。ほのかの足は、動かなかった。これ以上、奏にかける言葉が今のほのかには見つからなかった。行かなきゃ。呼び止めなきゃ。だけど――……今の私が、奏に何をしてあげられるというの。全部、遅かったんだ……。ほのかが凍り付いている間に背中はどんどん遠ざかり、呑気な後輩の声が近付いてくる。
「ほのか部長ー! 助けてください、うちのサックスパートの譜割りなんですけど……」
ほのかは唇を強く噛んだ後、声の主の方を笑顔で振り返る。「どうしたの?」という言葉は、きっといつも通り言えていただろう。その瞬間、ほのかは“松波奏の友人の天台ほのか”を殺し、“吹奏楽部部長の天台ほのか”を選択してしまった。それが、全ての間違いだった。
その日の夜、ほのかが音楽室の鍵を職員室へ返却しに行った際、顧問から奏が退部届を提出したと告げられた。その瞬間、ほのかは鈍器で頭を殴られたように思考が停止した。やる気のない顧問は大して気にした様子も見せず、「まあ受験とか色々あるしね」と簡潔に話をまとめてしまった。
ほのかは思考がまとまらないまま一人帰路につき、家に着いた瞬間、携帯で奏に連絡を試みた。だけど電話が通じることはなく、送ったメッセージも既読になることはなかった。翌日奏のクラスに行ってみても姿はなくて、その翌日も、翌日も、奏の席は空っぽだった。奏のクラスメイトに事情を聞いてみても、「松波さんのことはよく分からない」と冷たく言われるだけだった。
その後、ほのかは部長として皆の前では何事もなかったかのように部をまとめつつ、奏を待っていた。そうしているうちに、結局ほのかがソロを務めることとなったコンクールが終了し、奏が復帰しないまま三年生は引退となった。部活を引退してからも、ほのかは定期的に奏のクラスに足を運んでいた。夏が終わって秋になっても、年が明けて受験シーズンが始まっても。最後まで、その姿を見ることは叶わなかった。
中学三年生に上がる頃、奏と一緒にたまたま東高の吹奏楽部の演奏を見たことがある。中学の演奏とは打って変わって、レベルの高さと音の迫力に驚いた。その時に二人は、一緒に東高を受けて吹奏楽部に入ろうと言い合った。二人とも勉強は苦手な方では無かったから、東高は十分狙えるレベルだった。
どうか奏がいますように――。そう願いながら、ほのかは一人で東高の受験を迎え、晴れて入学することになった。だけど、入学式の日に受け取った新入生名簿に、奏の名前は載っていなかった。
奏は、約束を守ってくれなかった。私が、奏を守れなかったから? あの時、私が部ではなくて……奏個人を選んでいたら。ごめん。ごめんね、奏。本当は、部活なんてどうでも良かった。奏のことが大切だった。だけど、私は臆病で――……。そんな後悔を抱えながらも、ほのかは一人、吹奏楽を続ける選択をした。奏と色違いのトランペットが、奏とほのかを今でも結ぶ、唯一のものだと信じていた。ほのか自身が音楽を続けていたら、もしかしたら……いつかまた、奏に会えるかもしれない。
もし奏に会えたら、あの時のことを謝りたい。そして、奏の演奏が好きだと伝えたい。全部が遅い、今更だって分かっている。奏に拒絶されるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。だけど、もう一度。もう一回、私たちの関係をやり直すことはできないのかな。だって私は、奏が――……。