第五話 金色と銀色の別れ(6)
「待ってよ、奏!」
ほのかの声が、放課後の廊下に乾いたように響く。追いつける距離にいるはずなのに、奏が背を向けて歩くその数歩が、絶望的に遠く感じられた。
振り返った奏は、ただ静かにほのかを見た。怒っているわけでも、涙を浮かべているわけでもない。――まるで、もう何も期待していないような目だった。
「……さっきも言った通り、人望もあって、部長で、みんなに慕われてるほのかがソロを吹くべきだと思うよ。私はあの子たちが言う通り協調性ないし、部内でも嫌われてるみたいだからさ」
「そんな……そんなことない! 私は、私は奏に吹いて欲しい。皆に、奏の演奏を聴いてほしいの」
叫ぶように言った言葉は、思った以上に空虚だった。奏が部内でうまくやれていないこと、ほのかはずっと気づいていた。誰よりも楽器が上手い癖に、出席率が悪い。そんな奏が気に入らなかったのか、「松波奏は調子に乗ってる」なんて言葉が、いつしか部員間で囁かれるようになっていた。ほのかは、部長としてその言葉を諌めるべきだったのに――どこかで「皆、奏の圧倒的な演奏を聴けば奏の凄さを分かってくれる」なんて思っていた。甘かった。全部が、甘かったんだ。
私は――誰かを庇う代わりに、誰かを敵に回す勇気を持てなかった。優しい言葉で場を丸くし、みんなに笑顔を向けて……それが正しいと思っていた。その結果、奏は孤立した。
奏は、ほのかをじっと見つめる。今まで見せたことのないほど静かな、深い諦めの色が滲んでいた。
「……ほのかに、私は必要ないよ」
初めて、ほのかの喉がぎゅっと締まった。指先が震える。必要ない? 何それ? 頭の中が真っ白になりながら、必死で言葉を絞り出す。
「や……やだ、奏ったら……何言ってるの……」
「だってほのか、部長だから。みんなの前で、私を正しく扱わなきゃって、頑張ってたんでしょ。分かってたよ。迷惑かけて、ごめん」
図星すぎて、息が詰まる。言葉を失ったほのかを前に、奏は続ける。
「ほのかが優しいのは、昔から知ってる。だからこそ……私はほのかの、邪魔になる。もう私には、構わないで。ほのかは今のまま……みんなのための部長で、いるべきだよ」
その言葉は、ほんの少しだけ震えていた。だけど、それがなおさら決定的だった。くるりと踵を返し、片手をひらひら振りながら奏は歩き出す。長いスカートが、ほのかを拒絶するように勢いよく花開いた。
「待って、奏……」
ほのかは衝動的に手を伸ばす――その瞬間。
「あっ、いたー! ほのか部長ー!」
廊下の反対側から後輩が、呑気に明るい声で走ってくる。奏を追いかけるべきか、向かってくる後輩を待つべきか。奏に触れたかった指先は宙で止まり、ほのかの足は動かない。
これ以上、奏にかける言葉が今のほのかには見つからなかった。行かなきゃ。呼び止めなきゃ。だけど――……今の私が、奏に何をしてあげられるというの。全部、遅かったんだ……。ほのかが凍り付いている間に背中はどんどん遠ざかり、後輩の声が近付いてくる。
「ほのか部長ー! 助けてください、うちのサックスパートの譜割りなんですけど……」
どちらに向けばいいかなんて、本当は分かっていた。でも、今のほのかは――部長の顔しか持っていなかった。唇を噛みしめてほのかは笑顔を作り、声の主に向き直る。
「……どうしたの?」
その言葉は、きっといつも通り言えていただろう。その瞬間、天台ほのかは 「松波奏の友達」を捨ててしまった。それが、取り返しのつかない過ちだった。
その日の夜、ほのかが音楽室の鍵を職員室へ返却しに行った際――顧問が何気なくほのかに言った。
「そういえば、さっき松波さんが退部届を出しに来たよ」
「えっ……」
その瞬間、ほのかは鈍器で頭を殴られたように思考が停止した。「どういうことですか」と詰め寄ってもやる気のない顧問は大して気にした様子も見せず、「分からないけど、まあ受験とか色々あるしね」と簡潔に話をまとめてしまった。
理解できないまま家に帰り、震える指で奏に電話をかける。繋がらない。メッセージも既読にならない。翌日奏のクラスに行ってみても姿はなくて、その翌日も、翌日も、奏の席は空っぽだった。事情を聞きに行っても、同じクラスの子は冷たく言うだけだった。
「松波さん? そういえば最近来てないね。あの子のことは……誰も、よく分からないんじゃないのかな」
その言葉にほのかはただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
その後ほのかは部長として、何事もなかったかのように部をまとめ続けた。笑顔を絶やさず、練習を回し、後輩たちの相談に乗って。でもそのすべての裏で――ほのかは、ずっと奏を待っていた。
姿を見せなくなった奏の教室に、ふとした瞬間に視線をやる。教室の後ろのロッカー、机からはみ出ている大量のプリント、もう誰も座らない椅子。どこかに、奏の痕跡を探していた。
やがて迎えたコンクールで、結局ソロは、ほのかが務めることになった。奏の音じゃない、ほのかの音で演奏されたあの曲。審査員からの講評を読みながら、心の奥がじくじくと痛んでいた。
コンクールが終わり、三年生は引退した。だけどほのかは、それで終わることはできなかった。部活を引退してからも、ほのかは何度も奏の教室を訪ねた。夏が過ぎ、秋が訪れ、冬になって受験シーズンが始まっても、奏の席が埋まることは一度もなかった。
――あの約束があったから。
中学三年に上がる頃、二人で偶然訪れた駅前で、東高の吹奏楽部が演奏をしていた。息を呑むような合奏に、二人は目を輝かせた。
『ねえ、奏! すごいね……すごく上手い。一緒に東高、目指そうよ』
ほのかがそう言うと、奏は目を細めて頷いた。あのときの表情を、ほのかは今も忘れていない。
どうか、奏がいますように。
祈るような気持ちで、ひとり挑んだ受験。ほのかは合格し、東高への進学が決まった。入学式の日、新入生名簿を手に取る指先が震えていた。
――名前は、なかった。
頭が真っ白になった。鼓膜の奥で、何かがぽきりと折れた気がした。ほのかより頭の良い奏が、東高に落ちるはずがない。奏は、選ばなかったんだ。約束を――奏は守ってくれなかった。
……いや、違う。奏が守れなかったんじゃない。私が、奏を守らなかったからだ。
部を選んで、顔色を見て、誰にも嫌われないように笑って。本当に守るべきたったひとりを、見失って。あの日、廊下で「部長」を選んだのは、私だ。あのとき、迷わず奏の側に立っていれば――。
「奏……ごめんね……」
ほのかの声は、誰にも届かない空気に溶けていった。本当は、部活なんてどうだってよかった。私が守りたかったのは、奏だけだった。だけど臆病で、弱くて、怖くて――あの時、ちゃんと選べなかった。手を伸ばして、後輩に背を向けて、ただ「待って」と一言呼びかけていたら。それだけで、もしかしたら奏は立ち止まってくれたかもしれないのに。一歩を踏み出す勇気が、どうしても出せなかった。
それでもほのかは、ひとりで吹奏楽を続ける選択をした。奏と一緒に買った、色違いのトランペット。今でもそれだけが、ふたりを繋いでいる唯一の証のように思えた。いつかきっと、また会える――そう信じて、吹き続けた。
もし奏に会えたら、あのときのことを謝りたい。奏の演奏が、どれほど心に残っているかを、ちゃんと伝えたい。
もう遅いって、分かっている。奏にはきっと、私なんかもう――必要ないって、分かっている。奏に拒絶されるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。だけど、どうしても願ってしまう。
もう一度だけ。もう一度だけ、私たちの関係をやり直すことは、できないかな。だって、私は。奏のことを、誰よりも――……。




