第五話 金色と銀色の別れ(7)
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ほのかと別れて帰宅したわたしは、家族に挨拶もろくにせず、暗い部屋のベッドに倒れ込んだ。制服のスカートが皺になるかもしれないけれど、どうでもよかった。着替える気力も、電気をつける余裕も、残っていない。
聞いてしまった。ほのかが語った、カナデの過去。――退部。登校拒否。カナデは音を、場所を、全部をひとりで失っていた。
枕に顔を押しつけて、指先がぐしゃりとシーツを握りしめる。あの話は、嘘じゃない。生真面目なほのかが作り話をするはずなんて、あるわけない。全部、本当なんだ。楽器が上手すぎて部で浮いて、当時のカナデは、どれだけ孤独だったんだろう。凡人のわたしには、きっと一生、理解することはできない。
そんなカナデがわたしの前では、あんなふうに笑っていた。どれだけ無理をしていたんだろう。あんなに真っ直ぐな音で、わたしの前では何でもないみたいに吹いていたのに。
『……私はただ、自由に演奏してたいだけなんだ。楽器吹くだけだったら、どこでもできるしね』
いつか教えてくれたカナデの声が、耳の中で反響する。顔を横に向けると、部屋の隅にある楽器ケースがぼんやりと浮かんで見えた。
ほのかとカナデの――色違いの記憶。あのトランペットは、カナデにとって塗り替えたい過去の象徴だったの? だから買い替えたの? カナデはこれを、手放したかったの? それとも、わたしに託したかった何かだったの?
わからない。何ひとつ、答えはわからない。でも――。
『この子も……誰かが吹いてくれたほうが、喜ぶからさ』
『……ミナに、持っていて欲しいんだ』
それでも、わたしはこの楽器を受け取ってしまった。だったら、もう背けられない。わたしが手にしたのは、きっと、ただの楽器なんかじゃないんだ。
目を閉じても、ほのかの最後の言葉が耳に残っていた。
『奏と、昔みたいに友達に戻れたらって思うんだけど……。さっきの奏の姿を見ると、もう……無理なのかな……』
その笑顔は、ひどく寂しそうだった。心から後悔しているんだと思った。小四からずっと一緒に音楽をやってきた、カナデにとっての特別な人。わたしが入るより、ずっと前から。
カナデには、あんなふうに想ってくれる人がいたなんて。それに、あの音に惹かれたのだって……わたしだけじゃなかった。しかも、わたしよりもずっと昔に。だって、あんなに綺麗な音なんだもん。カナデの音に惹かれるのは当たり前。当たり前のことなのに――そう思うだけで、身体がひどく重たくなる。
ほのかは、素敵な女の子だった。優しくて、まっすぐで、きっと誰よりもカナデの音を知っている人。だけど――心の奥の奥が、じりじりと熱く疼く。
あんなふうに話せるの、カナデのことを小学生の頃からそんなに深く知っているの、ちょっと羨ましい。わたしは、知り合ったのだって最近で――カナデのこと、何も知らなかったのに。ただ最近は、カナデのそばにいるのが当たり前みたいに思っていて……わたしは何も、知らなかった。
涙は出なかった。感情が溢れすぎて、もう泣くこともできなかった。
ベッドからゆっくり身体を起こして、放り投げていた鞄の中からスマートフォンを取り出す。画面を点けた瞬間、ロック画面がぱっと浮かんで、思わず顔を背けた。眩しい。通知は何も、来ていなかった。
メッセージアプリを開くとトーク画面の一番上に、カナデのアイコンが並んでいた。開く指が、震える。
わたしは何を言えばいいの? ほのかと話したよ、なんて……言えるわけない。でも、何か伝えなきゃ。わたしは逃げないって――さっき決めたばかりじゃないか。
言葉が何も、出てこなかった。文字を打っては消して、また打っては全部削除して。何度も何度も、文字を壊した。こんなに伝えたい気持ちがあるのに、文字にしようとすると全部、陳腐になってしまう。
言葉じゃ、足りない。だったら、迷っている場合じゃない。わたしの指は、気づいたら通話ボタンを押していた。暗い部屋に、コール音が鳴り響く。
心臓が壊れそうなほど、鳴っていた。指先が汗で濡れて、スマートフォンがつるりと滑りそうになる。やっぱりだめかもしれない――そう思った瞬間、ぷつんと、音が途切れた。
『……ミナ?』
カナデの落ち着いた声が、受話口からふわりと零れる。その声が鼓膜を震わせた瞬間、心臓がばくんと跳ねた。深呼吸をしたはずなのに、掌がじっとりと湿っていく。
「あっ、カナデ……あ、あの……!」
言葉が何も、出てこない。焦れば焦るほど空回って、喉がからからに乾いて、声がひっくり返りそうになる。どうしよう、変な感じじゃないかな、引かれないかな――と頭の中がぐるぐる回っていたとき、『ははっ……』と、電話越しにくすくすと笑う声が聞こえてきた。柔らかいのに、ちょっとだけ意地悪で、でも確かに優しい。その声に、少しだけ胸が緩む。
『……ミナったら、焦りすぎ。ごめん。心配して、電話くれたんでしょ? ……ミナは優しいね。もう大丈夫だから、心配しないで』
「で、でも。カナデ……!」
言葉を探しながら、喉が震える。その向こうで、カナデが少しだけ間を置いて、ぽつりと呟いた。
『ちょっとね……過去に色々、迷惑かけた子なんだ。ほら……私って、人間関係下手くそだから。まだ自分の気持ちが、上手く言葉にできなくてさ』
自嘲するように乾いた笑いが、かすかに響いた。カナデが自分の弱さを口にするのは、たぶん、すごく珍しいことだ。でもその声はどこか、冗談めかしていて。本音を隠すように、さらっと流そうとしていて――。わたしは、その誤魔化しを見逃したくなかった。
わたしは……カナデのために、何をしてあげることができるんだろう。
「……カナデ」
『ん?』
優しく返された声に、わたしは少し唇を噛んでから、問いかけるように言葉を継いだ。ふたりの問題だってわかっているけれど、カナデのために、わたしは……。
「……今週の土曜日か日曜日、どっちか空いてる?」
わたしの口から飛び出たのは、突拍子もない誘いだった。自分で自分に驚いて、心の中が真っ赤に染まる。でも、言ってしまったらもう止まれない。覚悟を決めて、ぐっとスマートフォンを持つ手に力を込めた。
『今週? ……どっちも空いてるけど、どうしたの?』
さっきより、少しばかり慎重な声だった。その沈黙の間に、カナデがこちらの気持ちを探ろうとしている気配があった。
「……じゃあ土曜日に、遊びに行こう」
その言葉に一瞬、スマートフォン越しの空気が止まった気がした。
『……えっ?』
間の抜けた声が返ってきて、わたしは少しだけ口元を引き締める。そのまま勢いに任せて、言葉を繰り返した。
「だ、だから、カナデ……遊びに行こう!」
勢いで、そう言い切ってしまう。止まれなかった。もう、止まりたくなかった。逃げないって、決めたから。
カナデにはあんなふうに想ってくれる女の子が、過去にいた。それでも今、カナデの隣にいるのは――わたしだ。その事実から、逃げたくなかった。
だから、わたしは――今、カナデと向き合いたい。
『ミナがそんなこと言うなんて……珍しいね。急にどうしたの?』
「だって、わたしが……カナデと一緒に過ごしたいって……思ったから……!」
顔が熱くなる。鼓動が煩い。こんなことを言うなんて……もう、恥ずかしさで溶けそうだった。だけど、後悔はしていない。しばらく間が空いて――ふっと、カナデが笑った。
『ははっ……何それ。そっか。分かったよ。……じゃ、土曜日ね』
その声は、どこかくすぐったそうで。それでいて、ほんの少しだけ安心しているようにも聞こえた。
『……ミナとのデート、楽しみにしてるよ』
「えっ? や、やだ! 何言ってるの……? 別に、デートじゃないから……!」
思いがけない単語を慌てて否定すると、電話の向こうでカナデが声をあげて笑い出した。もう、絶対にからかわれている。でも、その笑い声があんまりにも明るくて――悔しいけれど、わたしもつられて笑ってしまった。
少しでも、カナデの顔を明るくできたなら。この電話をかけた意味が、あったのかもしれない。
『せっかくミナが誘ってくれたデートだし……楽器は持っていかない方がいいよね?』
そんなことを冗談っぽく言ってくるカナデに、わたしは力強く頷いた。今回は、カナデの演奏を聴くためや、楽器を教えてもらうためじゃない。カナデの生徒としてじゃなくて――カナデの友達の春日美奈として、カナデと過ごしたい。そんなふうに思った。
そのあといくつかの雑談を交わし、ゆっくりと通話は終わった。スマートフォンを持つ手が少し震えていたのは、きっと気のせいじゃない。真っ暗な部屋でひとり立ち尽くしたまま、わたしはしばらくカナデのアイコンを見つめていた。
……何をすればいいんだろう。どこに行けば、カナデを笑顔にできる?
液晶画面の明かりだけが眩しくて、まぶたの裏にさっきの声が残っている。おそるおそる検索バーを開き、指先が文字を綴る。どきどきしながら「高校生 デート おすすめ」と打ち込んだあと、正気に戻って文字を消した。
部屋の中で、スマートフォンの画面とカナデの楽器ケースの金具だけが、静かに光っていた。




