第一話 金色の色と灰色のわたし(2)
交差点を抜けると、海沿いの大きな公園にたどり着く。防砂林が生い茂る朝の公園は人の気配がなく、どこか寂しい。潮の匂いが近づき、波の音がする。
彼女は足を緩めることなくどんどんと突き進み、海まで出たかと思えば砂浜を歩き続け、浜辺の端にある防波堤に腰掛けた。波は穏やかで、ぴちゃりぴちゃりと水遊びをするような音が響いている。わたしは咄嗟に、近くの岩場に身を潜めた。
彼女は背負っていた荷物を地面に下ろし、中から金色の楽器を取り出した。太陽の光を燦々と浴びて、眩しく反射しているそれは……トランペット。
彼女はその輝く楽器を抱きしめるようにして無造作にヘッドホンを外すと、無言のまま立ち上がった。潮風が、彼女の黒い短髪をさらりと揺らす。長い脚をゆったりと開き、背筋を伸ばしたその姿は、何もかもが堂々としていて――次の瞬間、彼女はまるで恋人に触れるように、その金色の楽器に唇を寄せた。その仕草があまりにも自然で、静かで、美しくて。わたしの心臓が、ひとつ鳴る。
ほんの一瞬だけ、世界が息を呑む。そして、澄んだ音が空気を切り裂き、光が跳ねた。
トランペットの音は鋭く高く、まるで空を切り裂く矢のようだった。波の音すら一瞬止まり、わたしの耳に熱く響く。五月の光が、彼女をスポットライトのように照らしていた。その姿がひどく綺麗で、眩しすぎて、わたしは呼吸の仕方を忘れていた。
まぶしい。金色のトランペットも。毅然とした、あの姿も。そう思った瞬間、胸がきゅっと痛くなる。わたしの目には、彼女がまるで――物語の中から抜け出してきた、登場人物みたいに見えた。現実みがまるでないのに、目を逸らすことなんてできなかった。感情の名前もわからない何かが、身体の奥から湧き上がってくる。
すごい。こんな演奏を、こんな風に――こんなにも、美しく。自然と、わたしの手が胸元を掴んでいた。息もできないまま、ただその音に心を奪われていた。
彼女の最後の音が消えた時、気づけばわたしは立ち上がって、拍手をしていた。頬が熱い。胸の奥が、びりびりと震えている。まるで、雷に打たれたみたいだった。
どうして、こんなにも胸を打つんだろう。わたしなんかとは、全然違う。手が届かない。だけど――わたしは今、確かにこの人を見つめていた。
「……えっ?」
楽器を手に持った彼女が、目を丸くしてわたしを見る。その黒い瞳が真っ直ぐにわたしを捉えた瞬間、全身がびくりと跳ねた。
何かに見透かされたみたいな気がして、息が詰まる。はっとして、自分が彼女を追いかけてここまで来たことを思い出した。しまった、と思った瞬間――身体が急激に熱を帯びていく。掌がじんわりと湿って、心臓がうるさく鳴っていた。
「あっ、あの……あまりにも素敵な演奏だったから、聴き入ってしまって……! えっ、ええと……ご、ごめんなさい……!」
口を開くと、声が上ずる。情けないほど、言葉にならない。謝りながらも、謝りたくなんてなかった。彼女の音を聴けてよかったと、本当は伝えたかったのに。慌てて頭を下げると、彼女は一瞬きょとんとして、次の瞬間――お腹を抱えて笑い出した。その笑い声は、さっきの鋭い音とは正反対だった。その声は軽くて、明るくて、波の音に溶けていく。
「ははっ……そんな、緊張し過ぎじゃない? がっちがちじゃん」
その時の笑顔が、ずるいくらいに優しくて。さっきまでの凛とした佇まいが嘘みたいに、彼女の表情はころころ変わる。さっきの音の主が、こんなにも人間らしい顔を見せるなんて――不意を突かれたみたいに、胸がざわめいた。彼女は笑いながら、わたしとの距離を縮めてくる。
「っていうかさ……きみ、すごいね。私の後を、こっそりつけてきたんでしょ?」
「……えっ」
「バレバレだって。後ろから、なんか視線感じるなーと思ってたんだよね……。まさか、ついてくるとは思わなかったよ」
その言葉に、わたしの中の空気が一瞬で沸騰する。さっきまでは知らない誰かだった女の子が、こんな風に冗談みたいなことを言って、笑っている。わたしの世界に、ずかずかと入り込んでくる。その大胆さに戸惑っていると、彼女は目元に溜まった涙を拭い、トランペットのベルをわたしの身体に控えめに当てた。
「きみも変わってるね。……演奏、聴いてくれてありがとう。まだ練習中だから、あんまり上手くなかったと思うけど」
「ぜ、全然そんなことありません! 本当にすごかったです……キラキラしていて、まぶしくて……。かっこよかった、です」
心からの言葉が、するすると口からこぼれた。かっこいいなんて、口にしたのはいつぶりだろう。取り繕う間もなく本音がこぼれてしまって――自分でも驚く。
「……大げさじゃない? 照れるんだけど。でも、まあ……私にはこれしか無いからね。ありがとう」
彼女は頬を掻いてそう言うと、何かを振り払うように視線を逸らした。その横顔には、演奏しているときの自信とは違う、どこか遠くを見つめるような表情が浮かんでいた。
わたしの身体は、まだ熱を持っている。心はふわふわして、音の余韻が残っていた。あの音が、あの姿が、わたしの中から消えてくれない。
彼女は、どうしてこんなにも眩いんだろう。本当に、わたしと同じ高校生? きっとわたしが見ているのは、ただの同じ高校の生徒じゃない。もっと遠くて、もっと自由で――。
彼女の姿をぼんやりと眺めていると、ふいに視線が交わった。その瞬間、心臓が跳ねる。真っ直ぐに向けられた黒い瞳が、わたしの中をするすると覗いてくる。嘘も飾りも全部が見透かされていくようで、息が詰まった。
彼女の視線が、わたしの表面をゆっくりと――まるで筆で撫でるみたいに――なぞっていく。心臓が大きく鳴る。指先が震える。わたしは慌てて、視線を逸らした。
「きみは……一年生? こんな時間にここに居るなんて、サボりだね」
突然の言葉に、わたしは身を引いた。サボり常習犯みたいなその子にサボりを指摘されるとは思っていなくて、つい顔をしかめてしまう。けれど――彼女がくすっと笑って、目が合った。唇の隙間から覗く、白い歯。いたずらっぽい笑顔。さっきわたしを打ち抜いたトランペットの主と同じ人物とは思えないほど、無邪気だった。
「大丈夫。私も一年だし、すごいサボってるから。仲間だね」
「えっ。一年なんですか」
「一年C組、松波奏」
――松波奏。その名前が、脳内で何度も反響する。クラスメイトの名前をまだほとんど覚えていないわたしが、全く接点のないC組の彼女のことなんて、知らなくて当然だ。わたしは俯いたまま、サボり魔らしい彼女に視線を移す。
さっきまで知らなかった存在に、音が宿った。それだけで、その人がぐっと近くに感じられる。でも、同時に――名前を知ってしまったことが、少しだけ怖かった。これから、忘れられなくなる気がしてしまって。堂々とした彼女の立ち姿は、どこまでも自由で、大きく見えた。
「一年G組の春日美奈で……す」
同じ学年の相手に敬語を使うのも変だし、かといってタメ口なんて、緊張して無理で。わたしの声は、相変わらず頼りなく揺れていた。そんなわたしを見て、松波奏は軽く笑った。




