第五話 金色と銀色の別れ(2)
「やっぱり奏だ。ねえ……」
彼女が手を伸ばしかけた、その瞬間だった。カナデの肩が、ぴくりと揺れる。無意識に、とても自然に、わたしとの距離を半歩ほど取った。その仕草に悪意はなかった。でも――あまりにも直感的で、拒絶的だった。
彼女の伸ばした手は、空を彷徨ったまま止まる。何かに触れようとして、ぎりぎりのところで止まってしまったように。
空気が、きしむような音を立てて張りつめた。カナデの表情が、わずかに翳る。わたしが声をかけようとするより早く、その声が降ってきた。
「……ミナ、ごめん。今日は先に帰るね、また連絡するから」
早口だった。何かを断ち切るように、カナデはそのまま走り出す。改札へと向かって、迷いなく。
「カナデ……!」
名前を呼ぼうとした唇が、震える。けれど、声にはならなかった。ただ、その背中を見送ることしかできなかった。
「……待って、奏!」
代わりに、女の子が叫んだ。声は澄んでいたけれど、ひび割れそうなほど切羽詰まっている。改札へ駆け出したその背中を追いかけるように風が吹き抜けて、ハーフアップにした長い髪がふわりと揺れる。
改札に定期ケースを突き出したその瞬間、「ピンポーン!」と警告音が鳴り響いた。バーが下りて彼女の行く手を遮り、立ち止まった彼女は一瞬、完全に動きを止めた。茫然とした目が、人混みに消えていったカナデの背中を――諦めきれないように、じっと追っていた。
わたしの方が、先に我に返った。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
声をかけながら駆け寄ると、ぬいぐるみの定期ケースが逆さまになっていて、つぶれた顔がこっちを向いていた。彼女ははっと我に返ったように、手元を見下ろして、小さく息を飲んだ。
「あはは……ありがとうございます。タッチするとこ、逆でしたね……」
彼女は乾いた笑みを浮かべて、定期をそっと引っ込める。ほんの一瞬、頬に添えられた指が震えていたように見えた。気のせいかもしれない。でも――この子、ほんとうは今、泣きそうなんじゃないかと思ってしまった。
彼女は改札を抜けるのを諦めたようで、ゆっくりとわたしの方に向き直った。東高の制服をきちんと着こなしていて、見た目はどこまでも清楚で整っている。それなのに――その瞳だけが、張り詰めたままだった。
一瞬だけ、視線がわたしの持つトランペットケースに移った。その瞬間、わたしは無意識にそれを持つ手に力を込めていた。彼女も、同じように自分のケースをぎゅっと握りしめていた。
「……あのっ、奏のお友達……ですか?」
それは、柔らかい声だった。だけど、その裏にあるものを、わたしは感じ取ってしまった。
――この子はカナデを、探していた。必死に、探していた人をやっと見つけて、でもその人は、逃げていった。その焦燥が、彼女の全身から滲んでいた。
「奏のことで、ちょっと……聞きたいことがあって……。少しだけ、お時間いただけませんか」
言葉だけなら穏やかなお願いのはずなのに、なぜか圧を感じてしまう。わたしは思わず半歩、引きそうになる。でも、それ以上に――わたしの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
この子は、カナデのことを知っている。わたしが知らない、過去のカナデを。いつかのことを思い出す。カラオケ店の店長が話していた、中学の友達。
――ほのか。たぶん、この子が、そうだ。
カナデの表情があんなふうに変わったのは、きっとそのせいだ。でも、それでも。逃げるように背を向けたカナデを、わたしは――放っておけなかった。
「……わかりました」
震える声でそう告げると、彼女の張りつめた気配が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「……ありがとうございます。じゃあ、どこか入りましょうか」
その微笑みはとても綺麗で、まるで花が咲いたみたいに柔らかい。でも――その笑顔は、どこか痛々しかった。
彼女が背を向けて歩き出すのを、わたしは小さく息を呑んで見送る。そして、ひと呼吸置いてから、その背中を追いかけた。




