第五話 金色と銀色の別れ(1)
あの午後のざわめきが、まだ心のどこかに残っている。胸の奥で跳ねた鼓動。日菜子と蒼が手を繋ぐその光景を見つめながら、ふいに浮かんできた――カナデの顔。
どうしてあのとき、あんなにはっきりと思い浮かべてしまったのか、わたしにはまだ分からない。でも、あの瞬間からずっと、潮風の匂いをかぐたびに、真っ直ぐな視線を思い出す。触れもしないのに、なぜか身体の奥が熱くなる。思い出すだけで、息が苦しくなってしまう。
初夏はあっという間に過ぎ、ここ最近は猛暑が続いている。わたしの通う海浜高校は海辺にあるせいで、潮風に含まれる湿気と、東京湾からのどこか生臭い風が混ざり合い、不快指数はうなぎ登り。そんなわけでこの一ヶ月、防波堤での練習は中止して、駅前のカラオケ店がカナデとの練習場所になった。
冷房が効いていて、ドリンクバーもある。しかも、カナデと仲良しの店長がちょっとしたサービスをしてくれるから、お財布にも優しい。そんな理由を並べながら、それでも毎日のように足を運んでしまうのは、たぶん……きっと。
カナデの音が、好きだからだ。カナデの丁寧で根気強い指導のおかげで、わたしのトランペットは一オクターブがなんとか吹けるまでに上達した。音が出るたびにカナデが、まるで自分のことのように喜んでくれるから――またその顔が見たくて、わたしは今日も楽器を持つ。何かを目指しているわけじゃない。ただ、カナデと一緒に音を重ねるのが、楽しかった。
あの日、カナデに出会っていなければ。もしも、カナデの笑顔を知らなかったら――わたしの高校生活はきっと、今よりずっと退屈で、色のないものだったと思う。
そんなふうにして、今日も放課後は、カラオケ店でふたりだけの練習が始まった。制服を着てこないのは、もはやカナデの通常運転。シンプルなシャツにスキニージーンズ、少しだけ跳ねた短髪と、無頓着な格好なのに――どこか絵になるのがずるい。五線譜の上を滑る細く白い指先に、わたしの視線は自然と吸い寄せられた。
不器用な音が部屋に響くたび、カナデはいつもと変わらぬ声で笑ってくれる。「今の、惜しかったね。こんな感じでやってみて」「あっ、すごい。ミナ、すごくいい感じだった」なんて――そんな言葉が本当の実力以上に思えて、また音を出してみたくなる。
先生でもないのに、どうしてこんなに教えるのが上手なんだろう。きっとカナデが先生になったら、わたしみたいな初心者だって、ずっと楽しく続けていける。
――そんなことを考えている時点で、もう楽しくなっている証拠なのかもしれない。
いつのまにかわたしの烏龍茶のグラスは空になり、机に残った水滴がゆっくりと乾いていく。
「……じゃあ、今日はここまでにしようか」
そう言ってカナデは、小さく背伸びをした。宿題は、「今鳴らすことができる音を、もうちょっとだけ、自信をもって綺麗に鳴らす」。ただそれだけ。でも、わたしには十分すぎるほど難しい。
借りているトランペットを丁寧にケースにしまいながら、ふと隣を見る。カナデは自分の楽器を、流線型の真っ黒なケースに静かに収めていた。ぱっと見ただけで「中に楽器がある」と分かるあの形。シンプルで、凛としていて、かっこいい。
――いつか、本気で続けるって決めることがあったら、わたしもああいうのにしてみようかな。
いつものように店長が破格の値段でレジを打ち、わたしたちは軽く会釈して外に出る。午後六時を過ぎたというのに、空はまだ眩しいほどに明るくて、アスファルトがじりじりと熱を放っていた。「暑いね」と言い合う、そんなあまりに普通の言葉すら、隣で並んで歩くカナデとなら、少しだけ特別に感じる。
駅前は、夕方の喧騒に満ちていた。スーツ姿の大人たち、部活帰りの高校生、ざわめく雑踏。わたしと同じ制服の生徒もいるし、最寄り駅が同じである東高の紺色の制服もちらほらと見かける。何の変哲もない、いつも通りの帰り道――の、はずだった。
「えっ……奏……?」
背後から響いた声は、澄んでいて、どこか鈴のようだった。カナデの足がぴたりと止まり、反射的に振り返る。わたしの視線も、つられるように声の主へと向かった。
東高の制服を着た女の子が、こちらを見つめていた。瞳を見開いて、まるで時間に出会ってしまったかのような表情で――その手には、わたしが今手に持っている楽器ケースと、まったく同じケースが握られていた。




