第五話 金色と銀色の別れ(1)
初夏はあっという間に過ぎ、ここ最近は猛暑が続く。わたしの通う海浜高校は海辺にあるせいで、夏のじめっとした潮風と東京湾から漂うちょっと生臭い潮の香りが混じって、不快指数が跳ね上がる日々だった。だからこの一ヶ月、防波堤での練習はパスして、駅前のカラオケ店がカナデとの練習の定番になっていた。冷房が効いていてドリンクバーもあるし、カナデと仲良しの店長がサービスしてくれるから、お財布にも優しくて助かっている。
カナデの丁寧で根気強い指導のおかげで、わたしのトランペットは一オクターブがなんとか吹けるまでに上達した。音が出るたびにカナデがいつも自分のことみたいに喜んでくれるから、もう少し頑張ってみようかなと思ってしまう。何かを目指しているとか、そういうのは今のところないけれど……。カナデが好きな音楽を、少しずつ知っていけるのは楽しかった。あの日カナデに出会わなければ、わたしの高校生活は今よりもずっとつまらないものになっていただろう。
そんな感じで、今日も放課後はカラオケに集い、カナデによる特別レッスンを受けていた。カナデは相変わらず学校のサボり癖が酷く、今日も制服ではなく半袖のシャツとスキニージーンズというラフな格好で身を包んでいる。
細い腕が伸びてきて、指先が五線譜の上をなぞる。わたしはその手に見惚れながら、トランペットを構えて音を出す。わたしが鳴らす、お世辞にも上手いとは言えない音を聴いて、カナデはいつも優しく褒めてくれるし、時には見本を見せてくれる。カナデの指導は、非の打ち所がないほどに完璧だった。将来は、トランペットの先生になった方が良いのではないだろうか。
入室時に汲んだ烏龍茶が底をつき、机の上の水たまりが少しずつ乾いてきた頃、「じゃあ今日はここまでにしようか」とカナデが言った。次回までの宿題は、今吹くことができる音を、今日よりもきれいに鳴らせるよう練習しておくこと。今鳴らせる限界の音が楽に鳴るようになれば、もっと上の音も鳴らせるようになるらしい。確かに今までもそうだったから、そういうものなのだろう。
カナデに借りているトランペットを、四角いケースに丁寧に入れる。この楽器にも、少しずつ愛着が湧くようになっていた。横を見ると、カナデはカナデで自分の楽器を黒いケースにしまっている。カナデのケースは、まるで楽器そのものを象ったような流線型のフォルムをしていた。ぱっと見で楽器が入っていると分かるから、かっこいいなといつも視線が奪われる。わたしもいつか、真面目に楽器に取り組むことがあれば……真似してみても、いいのかもしれない。
いつも通り店長が破格の値段でレジを打ち込み、会計を済ませて店を出る。午後六時を回っているというのに日はまだ高く、昼の暑気がまだ残っていた。「暑いね」なんて無難な会話を交わしながら、並んで駅に向かって歩き出す。
駅の入り口付近は、疲れた顔のサラリーマンに混じって、部活帰りと思われる学生がぞろぞろと連れ立って歩いていた。同じ高校の生徒もいるし、最寄駅が同じである東高の制服も目立っている。
改札に向かって足を進めていると「……奏?」と、背後から鈴みたいな声が響いてカナデを呼んだ。前を歩いていたカナデが足を止めて、振り返る。目がわたしを越えて声の方に吸い寄せられて、つられて見ると、東高の紺の制服を着た女の子が驚いた顔をして立っていた。片手には、わたしが持っている楽器ケースと全く同じケースが握られている。