第四話 恋の尾行と金色の影(3)
「ほら、行くよ美奈氏! まだまだこれからだぜ!」
「えっ? あ、うん……?」
若葉の声が聞こえていたはずなのに、足元の感覚がふわふわとしていた。日菜子と蒼は腕を組んだまま駅を出て、ショッピングセンターのアイス屋へ。「これ美味しそうだね」と看板を指差す、日菜子の声。それに頷いて微笑む、蒼の表情。ふたりだけで、世界が完結していた。
「はー……アイスいいなあ、お腹減ったぜ。美奈氏、後で絶対食べよーねー! 何味がいっかな……」
「えっ? はあ……いいけど……」
会計を終え、ふたりはベンチに並んで座る。日菜子はピンク色のアイスを、蒼はビターなチョコと濃い抹茶。それぞれがスプーンですくったアイスを、何の躊躇いもなく相手の口元へと運んでいく。
その姿を目に入れた瞬間、まぶたの裏が熱くなって、わたしは反射的に視線を落とした。その動作には甘えも、信頼も、「好き」の輪郭も、すべてが込められていた。その自然さが、見ていられないくらい眩しかった。
胸の奥が、大きく跳ねた。わたしはなんでこんなにも、動揺しているんだろう。日菜子の輝くような笑顔を、わたしは直視できなかった。
――なんだか、いいな。あんなふうに誰かに触れてもらえるの。いいな、あんなふうに甘えても、笑って応えてくれる人がいて。だって、わたしにはそんな相手なんて――いたことがない。
いや、それよりも。わたしは一体、誰にあんなふうに触れてほしいと思っているんだろう。誰に、こんなふうに甘えたいんだろう。
考えたこともなかった。わたしなんかが、そんなことを望んでいいと思ったことすらなかった。
だけど今――目の前の光景に、心が勝手に反応している。ぐらぐらと。ずるずると。名前すら浮かんでこないのに、心のどこかで、うっすら輪郭を持った誰かが――何かを訴えかけている気がした。
……もしかして、わたし、日菜子が――羨ましいのかな。
そう思った瞬間、喉が詰まった。言葉が、呼吸が、うまく回らなくなる。まるで、溺れているみたいだった。
「……もう……我慢できない! 日菜子氏に聞く!」
横で唐突に叫んだ若葉の声に、はっと現実に引き戻された。
「えっ? 若葉ちゃん? ちょっと……! 聞くって、何を……」
わなわなと震えていた若葉が勢いよく陰から飛び出し、日菜子へ一直線に突進する。若葉の服を掴もうとした手が空を切り、その場にわたしだけが取り残された。遠くから聞こえる、日菜子の驚いたような声。
「えーっ、若葉ちゃん! やだあ、なんでいるのー?」
自ら尾行を明かしに行ってしまった若葉に息を吐き、わたしも急いでふたりのもとへ駆け寄った。だけどまだ、胸のざわつきは消えないままだ。
「……というわけで、日菜子ちゃんが気になり尾行していました……。ごめんね……」
「でも美奈氏を巻き込んだのは私だから! ごめん!」
全てを打ち明け、ふたり並んで頭を下げると――日菜子はぱちぱちとまばたきをした後、怒ることもなく、いつもどおり優しく笑いかけた。
「やだ~。見られてたなんて、恥ずかしい。私、変なことしてなかったかな……?」
照れたように髪をくるくる指に巻きながら、隣にいる蒼に視線を流す。ふたりは自然に目を合わせ、蒼は穏やかに微笑んで頷いた。
「蒼ちゃん。このふたりは学校のお友達で、美奈ちゃんと若葉ちゃん」
そう紹介されて、思わず背筋をしゃんと伸ばしてしまう。蒼はわたしたちを見回してから、柔らかい声で言った。
「美奈ちゃんと、若葉ちゃんだね。いつも日菜子が、お世話になっています」
その声は礼儀正しく、爽やかで、隙がない。きらきらとした美しい笑顔を向けられて、顔が一気に熱くなる。慌てて言葉を探すけれど、「こちらこそ……」なんて言うことしかできなかった。
「で、こっちが蒼ちゃん。中学が同じで、今は東高に通ってるの」
「作草部蒼です。ふたりとも、よろしくね」
揺れた短い髪から、ほんのり清潔な香りがした。制服の着こなしも、仕草も言葉遣いも、どこまでも王子様のようにかっこいい。県内有数の進学校である東高に通っていて、こんなにも人当たりがよくて、頭ひとつ分背が高くて……こんな「女の子」が、日菜子の本命?
「でさ、日菜子氏と蒼氏はどういう関係なの? もしかして、付き……」
若葉が前のめりで訊ねかけたその瞬間、わたしは反射的に、彼女の口を両手で塞ぐ。もしかしたら、日菜子にとって失礼なことかもしれない。だって、わたしたちは何も聞いていない。きっと、勝手に詮索していいことじゃない。
日菜子は驚いたように目を丸くして、蒼と視線を交わした。そのやりとりのあと、小さく息を整えるように頷く。
「……美奈ちゃんと若葉ちゃんなら、いいかな……」
日菜子は自分に言い聞かせるように、でもしっかりと、わたしたちを見つめながら言った。
「うん、私……蒼ちゃんと、付き合ってるの」
その言葉が落ちた瞬間、胸がきゅっと収縮するような痛みに襲われた。
きっと、驚いたわけじゃない。でもそれは――なにか、世界の重心が静かにずれるような感覚だった。
日菜子の頬はほんのり赤く、少しだけ不安そうに揺れていた。その手を、蒼が優しく包み込む。そのたったひとつの仕草だけで、空気が変わった。触れ合った指先に、嘘のない恋が宿っていることが、わかってしまった。
「やっぱそうなんだ! めっちゃお似合いじゃん、日菜子氏ったらこんなイケメンな恋人がいるとか……なんで教えてくれなかったのさ~!」
若葉の大げさなリアクションに、日菜子は少し照れながらも笑った。
「ご、ごめんね……。女の子と付き合ってるなんて言ったら、引かれるかと思って……」
「何言ってんだよ日菜子氏! うちらが引くわけないじゃんねえ? だって好きになるのに、性別とか関係ないっしょ。日菜子氏が幸せそうなのが、答えじゃん」
そう言いながら、若葉が勢いよくわたしの腕を叩く。その瞬間、肩がびくりと跳ねた。だけど、言葉がすぐに出てこなかった。口の中で何かが張りついたように、動かなくなる。それでも笑わなきゃと思って、慌てて笑顔を貼りつけた。
「う、うん! そうだよ、日菜子ちゃん。教えてくれて、ありがとう」
そうやって、ちゃんと声は出た。だけどその声が、自分のものじゃないみたいだった。言葉は笑っているのに、心は静かに、でも確かに震えていた。
拒絶じゃない。否定でもない。なのに、息がしづらい。目の前にあるものが綺麗すぎて、まっすぐすぎて、刺さる。
日菜子の横顔。蒼の指先。繋がれた手と、寄り添う気配。どこにも歪みがなかった。そこにはただあたたかくて、本物の恋が存在していた。
――恋って、こういうものなんだ。性別でも、形式でもない。「誰を好きになるか」じゃなくて、「誰といたいと思えるか」。頭では理解できたはずなのに、今それが目の前にあることで、感情の奥底がずるずると引っ張り出されていく。
たぶん、いちばん驚いたのは――日菜子が、こんなふうに誰かと深く繋がっていたということだった。
わたしと同じ年で、同じように学校に通っていて。ふわふわ笑って、時々お菓子を分け合って――そんな日菜子が、こんなにも確かな恋をしていた。
それが、なんだか信じられないようで、でも、目を逸らせないほど綺麗で。
――どうすれば、誰かを信じられるんだろう。どうやって、恋って始まるんだろう。どうして、わたしにはまだ――こんなに、遠いんだろう。
日菜子の目に、涙が滲んでいた。その背を、蒼がそっと撫でる。指先ひとつ。たったそれだけなのに――その仕草が、痛いほどに優しかった。
「日菜子、良かったね」
蒼の囁いた声が耳じゃなく、わたしの心の奥に届いた気がした。
――わたしも、あんなふうに触れられてみたい。何も言わなくても気持ちが伝わるような、そんな手の温度で。そんなの、ただの甘えかもしれない。だけど今この瞬間、どうしようもなく羨ましいと思ってしまった。
誰かにそっと包まれるみたいに、「大丈夫だよ」という言葉より先に、気持ちだけが先に伝わるような――そんな関係。
……そんなふうに誰かを信じられる未来が、いつかわたしにも来るのかな。もし、わたしが誰かに甘えるとしたら。誰かに、そんなふうに手を伸ばすとしたら。その「誰か」って、一体――誰だろう。息が浅くなる。心臓の音が、やけに近い。ぼんやり浮かべた問いの奥から、ふいに、ある景色が立ち上がった。
潮風に揺れる、短い髪。鋭くて、でもどこか寂しげな黒い瞳。金色のトランペットを構える、しなやかな指先。
――カナデ、だった。
思い浮かべただけで、胸の奥がどくんと跳ねる。身体の芯に、熱が走る。しかも、思い出したその顔は――笑っていなかった。わたしを真っ直ぐに射抜く、あの視線。触れもしないのに、心の奥底にまで届いてしまうような、鋭くて、あたたかくて、強いまなざし。
『ミナ』
声もないはずなのに、名前だけが胸の中で鳴った気がした。返事をしかけて、口をつぐむ。
――わたしはいま、誰に返事をしようとしたんだろう。
もう一度心臓が大きく跳ねる。頬が熱い。掌にじっとり汗が滲む。何もされていないのに――思い出しただけで、息が詰まる。
三人の会話は、変わらず続いていた。わたしも笑って、頷いて、ちゃんとその輪の中にいた。でも心だけが、ずっと現実から遅れていた。
わからない。まだ言葉にはできない。だけど、確かに今。名前のない感情が、ゆっくりと形を持ち始めている。




