第四話 恋の尾行と金色の影(2)
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ホームルームが終わると、教室には気怠い喧騒が満ちていた。談笑する声、椅子を引く音、廊下を走る足音。ざわざわと波立つ空気のなかで、いつもなら若葉と部室棟に向かう日菜子が、小さく手を振る。
「……今日は用事があって、先に帰るね。若葉ちゃん、美奈ちゃん、また明日!」
申し訳なさそうな笑顔でそう言って、日菜子は鞄を抱えて小走りに教室を出ていった。わたしたちは手を振りながら、その背中をただ目で追う。
「日菜子氏、やっぱりか……」
わたしの横でぼそりと呟いた若葉が、得意げに振り返った。
「美奈氏、行くぜ。準備はいい?」
リュックを肩に背負った若葉は、もはや完全に探偵モードだった。まさか本当に尾行するとは――と内心で呆れながらも、わたしも鞄を手にして教室を後にする。
日菜子との距離は、およそ三十メートル。彼女は玄関でローファーに履き替え、ちらりと腕時計を確認してから校門をくぐる。その背中を、わたしと若葉は目立たないように追いかけた。
高校前のバス停から駅行きのバスに乗り込む日菜子を確認し、その後、わたしたちも気づかれないように後を追う。既に車内は、同じ制服姿の生徒でぎゅうぎゅうだった。先頭から乗り込んだわたしたちは、人に揉まれながらどうにか立ち位置を確保した。けれど――日菜子の姿は見えない。確かに車内にいるはずなのに、視界の中には同じような頭が並ぶばかり。
「うっ……うおお……!」
若葉の唸り声が、すぐ隣で聞こえた。小柄な彼女は人の波にもみくちゃにされて、ほとんど身体が埋もれている。わたしもこの路線は通い慣れているけれど、今日に限って異常な混雑だった。
……みんな、そんなに早く帰りたいものなんだろうか。胸の中でわずかに波立つ感情を振り払うように、目を閉じる。人の流れに身を任せながら、誰にも気づかれず、ただ呼吸を整えた。
終点の駅前に着くと、バスから一斉に生徒たちが吐き出される。わたしたちもその波に乗じて素早く降車し、ロータリー近くの柱の陰へと身を隠した。髪はぐしゃぐしゃ、肩も痛い。若葉の前髪なんて、重力に逆らって跳ねていた。
だけど――日菜子はそんな嵐の中にいたとは思えないほど、整っていた。スカートの裾がふんわりと広がり、耳元のリボンが風に靡く。何気ない足取りなのに、まるで待ち合わせに向かうヒロインみたいに、ひとつひとつの動きが華やかだった。
日菜子は改札前の柱に寄りかかりながら、スマートフォンを取り出して画面を覗き込む。手櫛で前髪を整えて、ふわりと笑みが零れたかと思えば、すぐに視線を落として恥ずかしそうに俯いた。
――えっ。なんだろう、今の仕草。
「美奈氏、見た今の……? かっわ……日菜子氏かっわ……!」
隣から、若葉の震えるような声が聞こえる。わたしも口元を押さえながら、思わず頷いていた。
うん、本当に――可愛い。だけど、それだけじゃない。今、わたしたちが見つめている女の子は、わたしが知っている日菜子じゃない気がした。少し浮かれていて、期待していて、誰かに会う準備をしてきた顔。……あれが、日菜子の「好きな人に会う顔」なんだと、わたしはそこで初めて知った。
それにしても、わたしはいま――何をしているんだろう。若葉に流されて日菜子のあとをつけて、隠れて見張って、笑った顔すら盗み見て。こんなのって友達として、どうなんだろう? そんな声が、心のどこかで囁いてくる。
だけど――それでも、目が離せなかった。日菜子が誰かに向けて笑う顔を、どうしてもこの目で見てみたかった。
興味なんかじゃない。たぶん、わたしの中の、何か欠けた部分が――目の前の光に、ただ触れようとしていた。
ふいにスマートフォンが震えたのか、日菜子が顔を上げる。ぱっと、花が咲いたような笑顔だった。左右にふるふると髪を揺らして、誰かを探す仕草をする。
「日菜子、お待たせ」
――その声は、遠くからでも澄んで聞こえた。わたしと若葉の身体が、同時にぴくりと反応する。改札口にすっと現れたのは、さらさらのショートカットで、スラックスを履いた長身の高校生。制服の着こなしも、中性的な雰囲気も、その立ち姿すら美しい。その姿を見た瞬間、騒がしかった駅前の音が、薄い膜を張ったみたいに遠のいた。
「……蒼ちゃん!」
弾けるように笑って、日菜子が駆け寄る。その表情は、わたしたちの前で見せるものとはまるで違った。彼女の笑顔には、誰かを本気で「好き」になった人だけが持つ、きらめきがあった。蒼と呼ばれたその人は優しく微笑みながら、日菜子をその腕に抱きとめる。
――綺麗だった。ふたりとも、眩しいほどに。
息を吸ったのに、肺の奥まで入ってこなくて、喉のあたりで浅く引っかかった。わたしは言葉も出せずに、ただその光景を見つめていた。他人の恋を見ているだけのはずなのに、胸の中がひどくかき乱された。
「……めっちゃイケメンなんだけど……」
若葉が、ぽかんと口を開けて呟く。その横でわたしもきっと、同じように呆気に取られていた。光沢のある短い髪。端正な顔立ち。紺色のブレザーに細身のスラックス。日菜子の頭を迷いなく、自然に撫でるその手つき。
まるで――王子様みたいで、現実味がなかった。
「アレって、東高の制服じゃん……しかもスラックス女子だよ。日菜子氏が『東高の女子用スラックスがかっこいい』って言ってたの、あれだね完全に……」
「えっ。あの子、女の子なの……?」
思わず、声が漏れた。王子様のようなその人を、わたしは当然のように男の子だと思い込んでいた。でも――言われてみれば確かにその美しさは、性別という枠を軽々と超えていた。まるで少女漫画からそのまま出てきたみたいな、現実離れした存在感を放っている。
「東高は女子用のスラックス制服があって、男子用と若干違うんだよ。女子用はチェックの模様が入ってるのー……って、日菜子氏が前に教えてくれた。で、あれはチェック入りだ」
「はー……そうなんだ……」
口では相槌を打ちながらも、わたしの心は完全に、目の前のふたりに持っていかれていた。蒼は日菜子に抱きつかれたまま、穏やかに微笑む。
「ふふ。相変わらず日菜子は、甘えん坊だね」
その言葉が、耳をくすぐるように優しかった。頭を撫でられた日菜子が、恥ずかしそうに笑って頬を緩ませる。その笑顔を見た瞬間――喉の奥が、ぐっと詰まった。
なぜだか、ひどく苦しくなった。羨ましいのか、寂しいのか、悔しいのか――自分でもわからない。言葉にならない何かが、わたしの中で渦を巻いた。
――あんな顔、初めて見た。誰かのために、あんなふうに笑っている日菜子を。誰かに触れられて、あんなに幸せそうな日菜子を。わたしたちには、あんな顔、見せたことない。
わたしはきっと、あんな笑顔を誰にも見せたことがない。誰かに向けてあんなふうに笑ったこともないし――誰かから、あんなまなざしを向けられたこともなかった。
あんなふうに迷いなく選ばれるのって、どんな気持ちなんだろう。そんな表情を向けてもらえる、誰かの特別になれること。恥ずかしそうに甘えられて、それを当たり前のように受け止めてもらえること。
わたしは慌てて目を逸らし、若葉を見る。若葉はそんなこと気にも留めず、むしろ双眼鏡でも持ってきそうな勢いでふたりを凝視していた。
「おっ……動くみたいだ」
その声に引き戻され、再びふたりに視線を戻す。日菜子は抱きついていた腕をそっとほどき、今度は蒼の腕に身体を預けるようにして、ぴたりと寄り添った。肩と肩が触れている。ふたりで笑い合っている。日菜子の頬はほんのり赤く、目尻には、とろけるみたいな甘さが滲んでいた。
――これが、恋人の顔なんだ。
まるで、光に照らされているようだった。今のわたしには遠すぎるほど眩しくて、綺麗で、現実味がなくて。
それなのに、なぜだろう。その温度が、わたしの心にも触れてしまった。触れてしまって、ずるいくらいに、胸が痛んだ。
女の子同士でも、こんなふうに笑って、寄り添って、幸せになれるんだ。そんな当たり前のような事実が、わたしの世界を――ゆっくり、でも確かに揺らしていた。




