第四話 恋の尾行と金色の影(1)
今日の昼休みに、カナデはいない。わたしのスマートフォンの画面に表示されたのは、いつも通りの軽い一文だった。
『寝坊したし、夕方レッスンで練習できてないから学校サボるね』
そのメッセージは淡々としていて、どこかカナデらしかった。なのに、わたしの心には、小さな波紋が広がった。
――本当に、それだけ? わたしのせいじゃない? カナデは最近毎日のように、わたしのトランペットの練習に付き合ってくれている。そのせいなんじゃないかと思って、思い切って訊いてみた。
『曲が好みじゃなくて、面倒だっただけ。美奈のせいじゃないよ。気にしないで』
すぐに返ってきた返事はそれだけで、どこまでも真っ直ぐだった。気遣いかもしれないけれど、以前「気を遣わなくていい」と言ってくれた、あのときの優しい声を思い出して――わたしは、それを信じることにした。
……それでも、やっぱりざわつきは消えない。信じるって、難しい。こんなにも些細なやりとりなのに、どうしてだろう。画面を閉じても、指先だけがまた開こうとする。近いはずなのに、その距離がまだうまく掴めなかった。
だから今日は、若葉と日菜子と三人で昼食をとっていた。カナデがいないと聞いて、若葉は「松波奏に振られたのん?」と笑ってから、あっさり話題を流してくれた。それがかえってありがたくて、少し安心してしまう。他愛もない話をしながら弁当をつつき、日菜子がお手洗いに立ち上がった瞬間だった。姿が消えたのを確認した若葉が急に身を乗り出し、わたしにぐっと顔を近づけてきた。
「……今日の日菜子氏、なんか可愛くない?」
「えっ?」
至近距離からの不意打ちに、心臓が跳ねる。頬にかかる息に戸惑っていると、若葉はお決まりの唐突さで、こそこそとわたしの耳元に囁いてきた。
「日菜子氏ってさ、いつも可愛いけど……。今日はいつにも増して、なんかこう……あざとくない?」
「はあ……?」
わたしが困惑している間にも、それに気づいていないのか――若葉はひとり興奮気味に、どんどん話を畳みかける。
「日菜子氏はスカート、いつも二回巻きで清楚に決めてるじゃん。でも今日、短いよ。あれは三回巻きだよ。それに髪、可愛いリボンで結んでる! いつもゴムなのに! あと近づくと、なんか甘くて女の子って感じの香りがする……!」
最初は囁き声だったのに、だんだん声が大きくなってくる若葉に、思わず身を引いて耳を塞ぐ。
本当、日菜子の変化に気づくなんて鋭いな。スカートの長さとか、リボンとか、全く気づかなかったけれど……でも確かに言われてみれば、今日の日菜子は――ふわふわの髪をピンクのリボンで二つに結んで、スカートの裾から覗く白い脚が、いつもより大胆だったのかもしれない。
「これは絶対なにかある! こないだ言ってた、本命とやらとデートをするのかもしれない! ……というわけで美奈氏、今日放課後暇?」
「えっ。ええ……?」
あまりにも突然に名前を呼ばれ、思考が追いつかない。放課後……今日はカナデもいないし、思い当たる予定は何もない。
「暇だけど、若葉ちゃん、部活は……」
「創作のネタ集めって言って休む! こんな身近に、ネタが落ちてるとは思わなかった~!」
両目をキラキラさせながらガッツポーズを取る若葉を、呆れつつも少しだけいいなと思ってしまう。ああやって、思いつきを即行動に移せるのって、ちょっとだけ眩しい。そんなことを考えているうちに、日菜子がにこにこと戻ってきた。
「ただいま~」
柔らかな声に視線を向けた瞬間、その姿に思わず息を呑む。ピンクのリボン、ふわふわの髪、少し短くなったスカートの裾――そんなものに注目している自分がなんだか変な気がして、慌てて視線を逸らした。
でも、どうしても視界の端で追ってしまう。今日の日菜子は、確かに若葉の言う通り、明らかに「誰かに見せるために」可愛くなっていた。誰かのために装って、誰かのために笑って、それをまっすぐ届けられる世界に、日菜子はいる。
それがなんだか少しだけ、羨ましかった。
「……ふたりとも、どうしたの?」
困ったように笑う頬は、ほんのりとピンク色。若葉の「日菜子氏、可愛いな〜って話をしてた」という台詞に、日菜子は耳まで真っ赤になって、頬を両手で隠した。その仕草すら、まるで恋をしている誰かのための演出みたいで。わたしはただ見惚れるように、その横顔を見つめていた。
恋をしている人って、こんなふうになるんだ。どんなふうに誰かを思えば、あんなふうに見せたい自分になれるんだろう。わたしは、誰かのために服を選んだことも、アクセサリーを付けたこともない。ましてや、「好き」なんて――。
日菜子の本命って、誰なんだろう。この間、日菜子はカナデのことを「かっこいい」と言っていた。まさか……いや、ない。だって見る専だって、本人も言っていた。それでもほんの一瞬、胸がちくりと痛んだ。
そのとき――横から妙に熱い視線を感じて、顔を向ける。すると若葉がにやりと笑ってから、大きくこくんと頷いた。その顔は、完全に「尾行するぞ!」の顔だった。
「ちょっと、若葉ちゃん……本気なの……?」
日菜子に気づかれないようにこそこそと囁くと、若葉は目を輝かせて、即答した。
「美奈氏ったら、今更何言ってんだ。あったりまえじゃん!」
その大声に、日菜子は不思議そうに目を瞬かせ、わたしは小さくため息を零す。尾行なんて……本当に、大丈夫なんだろうか。




