第四話 恋の尾行と金色の影(3)
「ほら、行くよ美奈氏! まだまだこれからだぜ!」
「えっ? あ、うん……?」
日菜子と蒼は腕を組んだまま駅を出て、ショッピングセンターのアイス屋へ。日菜子が「あれ、美味しそうだね」と看板を指さすと、蒼が優しく頷いて一緒に店内へ入っていく。
「はー……アイスいいなあ、お腹減った! 美奈氏、後で絶対食べようね! 何味がいっかな……」
「えっ? はあ……いいけど……」
物陰に隠れた若葉のテンションは完全にアイスモードに移行していたけれど、わたしはどうしても二人から目が離せなかった。会計を終え、二段重ねのアイスを手にベンチに座る二人。日菜子はピンク色のアイスを二つ。蒼は濃いチョコと抹茶色を選んでいた。楽しそうにおしゃべりをしながら、片方がスプーンですくったアイスをもう片方の口元へ――その仕草が自然すぎて、慣れすぎていて、あまりにも恋人同士の動作で。
胸の奥が、大きく跳ねた。なんでわたしは――なんでこんなにも、動揺しているんだろう。日菜子の幸せな顔が眩しくて、直視できない。
――なんだか、いいなあ。そんなふうに、誰かに触れてもらえるの。そんなふうに、誰かを信じて甘えられるの。わたしには、そんな相手なんて……。そもそも、わたしは――誰にこんなことを、してもらいたいんだろう。わたしは、誰に、こんなふうに甘えたいと思っているんだろう。答えは出ない。でも、なぜか考えてしまう。わたし、もしかして日菜子が……羨ましいのかな。
そう思考が行きかけたところで、若葉が突然叫んだ。
「……もう……我慢できない! 日菜子氏に聞く!」
「えっ……? 若葉ちゃん? ちょっと! 聞くって、何を……」
二人を見つめながらわなわなと震えていた若葉が勢いよく陰から飛び出し、日菜子へ突進する。服を掴もうとした手が空を切り、その場にわたしだけが取り残された。遠くから聞こえる、日菜子の驚いたような声。
「えーっ、若葉ちゃん! やだあ、なんでいるのー?」
自ら尾行を明かしに行ってしまった若葉に息を吐き、わたしも急いで二人のもとへ駆け寄った。だけどまだ、胸のざわつきは消えないままだ。
「……というわけで、日菜子ちゃんが気になり尾行していました……。ごめんね……」
「でも美奈氏を巻き込んだのは私だから! ごめん!」
全てを打ち明け、ふたり並んで頭を下げると――日菜子はぱちぱちと瞬きした後、怒ることもなく、いつもどおり優しく笑いかけた。
「やだ~。見られてたなんて、恥ずかしい。私、変なことしてなかったかな……?」
照れたように髪をくるくる指に巻きながら、隣にいる蒼に視線を流す。二人は自然に目を合わせ、蒼は穏やかに微笑んで頷いた。
「蒼ちゃん。このふたりは学校のお友達で、美奈ちゃんと若葉ちゃん」
そう紹介されて、思わず背筋をしゃんと伸ばしてしまう。蒼はわたしたちを見回してから、柔らかい声で言った。
「美奈ちゃんと、若葉ちゃんだね。いつも日菜子が、お世話になっています」
その声は礼儀正しく、爽やかで、隙がない。きらきらとした美しい笑顔を向けられて、顔が一気に熱くなる。慌てて言葉を探すけれど、「こちらこそ……」なんて言うことしかできなかった。
「で、こっちが蒼ちゃん。中学が同じで、今は東高に通ってるの」
「作草部蒼です。ふたりとも、よろしくね」
揺れた短い髪から、ほんのり清潔な香りがした。制服の着こなしも、仕草も言葉遣いも、どこまでもかっこいい。県内有数の進学校である東高に通っていて、こんなにも人当たりがよくて、頭一つ分背が高くて……こんな「女の子」が、日菜子の本命?
「でさ、日菜子氏と蒼氏はどういう関係なの? もしかして、付き……」
若葉が前のめりで訊ねかけたその瞬間、反射的に彼女の口を手で塞ぐ。わたしたちは何も聞いていない。きっと、勝手に詮索していいことじゃない。
日菜子は驚いたように目を丸くして、蒼と視線を交わした。そのやりとりのあと、小さく息を整えるように頷く。
「……美奈ちゃんと若葉ちゃんなら、いいかな……」
日菜子は自分に言い聞かせるように、でもしっかりと、わたしたちを見つめながら言った。
「うん、私……蒼ちゃんと、付き合ってる」
その言葉と同時に、胸がきゅっと締め付けられた。だけど、それは驚きとは違っていた。もっと――何かを自分の中でひっくり返すような、そんな感覚だった。
日菜子の頬はほんのり赤くて、目元は不安そうに揺れていた。その手を、蒼が優しく包む。それだけで、空気が変わる。繋がれた指先が、二人の間にある「恋」を、何よりもはっきり物語っていた。
「やっぱそうなんだ! めっちゃお似合いじゃん、日菜子氏ったらこんなイケメンな恋人がいるとか……なんで教えてくれなかったのさ~!」
そう若葉が叫ぶと、日菜子は苦笑いを浮かべた。
「ご、ごめんね……。女の子と付き合ってるなんて言ったら、引かれるかと思って……」
「何言ってんだよ日菜子氏! うちらが引くわけないじゃんねえ?」
若葉が勢いよくわたしの腕を叩くように、同意を求めてくる。びくりと肩が跳ねたあと、慌てて笑顔を作り、頷いた。
「う、うん! そうだよ日菜子ちゃん。教えてくれて、ありがとう」
声は笑っていたけれど、心は静かに揺れていた。けれど――拒絶する感情はひとつもなかった。日菜子が女の子と付き合っているという事実に、驚かなかった。その隣にいる蒼の優しさも、触れ合う指先も、笑い合うまなざしも、すべてが自然で、美しい。
恋って、こういうものなんだと思った。性別とか、形とか、きっとそれは本質じゃない。誰を好きになるかじゃなくて、誰といたいと思えるか。
たぶん、わたしが驚いたのは――日菜子に、そんなふうに心から寄り添える誰かがいたことだった。わたしと同じ年で、同じように学校に通っているのに。どうすれば、そんなふうに人を信じられるんだろう。どうやって、恋って始まるんだろう。
その答えは、まだ分からない。だけど、確かに今、胸の奥が震えていた。
わたしたちの言葉を聞いた日菜子の目に、涙がにじんでいた。「良かったね」と蒼が小さく囁いて、その背をそっと撫でていた。その光景が、まぶしくて――ほんの少しだけ、羨ましいと思った。
いつか、わたしにも。こんなふうに寄り添える人が、現れるだろうか。何も言わなくても、繋いだ手で想いが伝わるような、そんな相手が。
そのとき、不意に――心の奥に、ひとつのイメージが浮かんだ。潮風に揺れる、短い髪。どこまでも真っ直ぐな、黒い瞳。金色のトランペットに、そっと添えられた長い指。
――カナデ、だった。
えっ。なんで。どうして今、カナデの顔が、こんなにもはっきり浮かぶんだろう。
しかも、浮かんだその顔は――いつもの笑顔じゃなかった。わたしを見つめる、あの真っ直ぐすぎる視線。触れもしないのに、身体の芯まで届くような、強くて、熱いまなざしだった。ふいに笑った顔。わたしの名を呼ぶ声。
どくんと胸が大きく鳴った。その衝撃に、慌てて目を伏せる。頬が、どこか熱い。理由が分からなくて、怖くて、だけど何でもないふりをして、笑顔を貼りつけた。
三人の会話は、何事もなかったように続いていた。わたしも頷きながら、笑いながら――でも心だけは、まるで違った。
あの視線を思い出すたびに、胸の奥がじわりと熱くなる。鼓動が速くなって、呼吸が浅くなる。今、カナデに触れられたわけでも、何かを言われたわけでもないのに――思い出すだけでこんなに苦しくなるのは、どうして? わからない。でも、確かに今。まるで名前のない感情が、少しずつ形を持ち始めているみたいだった。




