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第四話 恋の尾行と金色の影(2)

***


 ホームルームが終わると、教室には気怠い喧騒が満ちていた。談笑する声、椅子を引く音、廊下を走る足音。ざわざわと波立つ空気のなかで、いつもなら若葉と部室棟に向かう日菜子が、小さく手を振った。


「……今日は用事があって、先に帰るね。若葉ちゃん、美奈ちゃん、また明日!」


 少し申し訳なさそうな笑顔でそう言って、日菜子は鞄を抱えて小走りに教室を出ていった。わたしは手を振りながら、その背中をただ目で追う。


「日菜子氏、やっぱりか……」


 ぼそりと呟いた若葉が、得意げに振り返る。


「美奈氏、行くぜ。準備はいい?」


 リュックを肩に背負った若葉は、もはや完全に探偵モードだった。まさか本当に尾行するとは――と内心で呆れながらも、わたしも鞄を手にして教室を後にした。


 日菜子との距離は、およそ三十メートル。彼女は玄関でローファーに履き替え、ちらりと腕時計を確認してから校門をくぐる。その背中を、わたしと若葉は目立たないように追いかけた。


 高校前のバス停から駅行きのバスに乗り込む日菜子を見送り、その後、わたしたちも同じバスへ乗車する。既に車内は、制服姿の生徒でぎゅうぎゅうだった。先頭から乗り込んだわたしたちは、人波に揉まれながらどうにか立ち位置を確保するけれど――日菜子の姿は見えない。車内にいるはずなのに、視界の中には、同じような頭が並ぶばかり。


「うっ……うおお……!」


 若葉の唸り声が、すぐ隣で聞こえる。小柄な彼女は人の波にもみくちゃにされて、ほとんど埋もれていた。わたしもこの路線は通い慣れているけれど、今日に限って異常な混雑だった。


 ……みんな、そんなに早く帰りたいものなんだろうか。胸の奥でわずかに波立つ感情を振り払うように、目を閉じる。人の流れに身を任せながら、誰にも気づかれず、ただ呼吸を整えた。


 終点の駅前に着くと、バスから一斉に生徒たちが吐き出される。わたしたちもその波に乗じて素早く降車し、ロータリー近くの柱の陰へと身を隠した。髪はぐしゃぐしゃ。肩も痛い。若葉の前髪なんて、重力を逆らって跳ねていた。だけど――日菜子はそんな嵐の中にいたとは思えないほど、整っていた。スカートの裾がふんわりと広がり、耳元のリボンが風に靡く。何気ない足取りなのに、まるで待ち合わせに向かうヒロインみたいに、ひとつひとつの動きが華やかだった。


 日菜子は改札前の柱に寄りかかりながら、スマートフォンを取り出して画面を覗き込む。手櫛で前髪を整えて、ふわりと笑みがこぼれたかと思えば、すぐに視線を落として恥ずかしそうに俯いた。


 ――えっ。なんだろう、今の仕草。わたしと同じ女の子とは思えないほど、可愛すぎる。


「美奈氏、見た今の……? かっわ……日菜子氏かっわ……!」


 隣から、若葉の震えるような声が聞こえる。わたしも口元を押さえながら、思わず頷いていた。


 うん、ほんとうに――可愛い。だけど、それだけじゃない。今、目の前にいる女の子は、わたしが知っている日菜子じゃない気がした。少し浮かれていて、期待していて、誰かに会う準備をしてきた顔。……あれが、日菜子の「好きな人に会う顔」なんだと、わたしはそこで初めて知った。


 ふいに、スマートフォンが震えたのか、日菜子が顔を上げる。ぱっと、花が咲いたような笑顔だった。左右にふるふると髪を揺らして、誰かを探す仕草をする。


「日菜子、お待たせ」


 ――その声は、遠くからでも澄んで聞こえた。わたしと若葉の身体が、同時にぴくりと反応する。改札口にすっと現れたのは、さらさらのショートカット。スラックスを履いた長身の高校生だった。制服の着こなしも、中性的な雰囲気も、その立ち姿すら美しい。その姿を見た瞬間、騒がしかった駅前が、一瞬だけ静まり返った気がした。


「……蒼ちゃん!」


 弾けるように笑って、日菜子が駆け寄る。その表情は、わたしたちの前で見せるものとはまるで違った。胸の奥が、ちくりと痛む。


 彼女の笑顔には、誰かを本気で「好き」になった人だけが持つ、きらめきがあった。蒼と呼ばれたその人は優しく微笑みながら、日菜子をその腕に抱きとめる。


 ――綺麗だった。二人とも、眩しいほどに。


 わたしは言葉も出せずに、ただその光景を見つめていた。他人の恋を見ているはずなのに、なぜか、胸の奥がかき乱されるようだった。


「……めっちゃイケメンなんだけど……」


 若葉がぽかんと口を開けたまま、呟く。わたしも同じだった。光沢のある短い髪。紺色のブレザーから伸びた、長い脚を包む細身のスラックス。日菜子の頭をやさしく包むように撫でる手つきまで、絵に描いた王子様みたいで――思わず見惚れてしまう。


「アレって東高の制服じゃん……しかもスラックス女子だよ。日菜子氏が『東高の女子用スラックスがかっこいい』って言ってたの、あれだね完全に……」


「えっ。あの子、女の子なの……?」


 若葉の言葉に、つい声が漏れた。当然のように、王子様は男の子だと思い込んでいたからだった。だけど、言われてみれば中性的な美形。まるで、少女漫画から出てきたみたいな存在感だった。


「東高は女子用のスラックス制服があって、男子用と若干違うんだよ。女子用はチェックの模様が入ってるのー……って、日菜子氏が前に教えてくれた。で、あれはチェック入りだ」


「はー……そうなんだ……」


 ぼんやりと返事をしながらも、意識は二人に吸い寄せられていた。蒼という女の子は日菜子に抱きつかれたまま、穏やかにくすりと笑った。


「ふふ。相変わらず日菜子は、甘えん坊だね」


 頭を撫でられた日菜子が、幸せそうに頬を緩ませる。その瞬間――胸の奥が、きゅっとつままれたみたいに痛んだ。


 どうしてだろう。羨ましい、とか。寂しい、とか。自分でも驚くくらい、言葉にならない何かが一瞬で渦を巻いていた。


 わたしは慌てて目をそらし、若葉を見る。若葉はそんなこと気にも留めず、むしろ双眼鏡でも持ってきそうな勢いで二人を凝視していた。


「おっ……動くみたいだ」


 若葉の声に、再び視線を戻す。日菜子は抱きついていた腕をほどき、今度は蒼の腕に自分の身体を寄せて、二人でぴたりと並んで歩き出す。肩と肩が触れ合って、くすぐったそうに笑い合う。日菜子の頬はほんのり赤く、目尻にはとろけるみたいな甘さが滲んでいた。


 ――こんな顔、きっとわたしたちには見せたことがないんだろう。


 なぜか、胸がひりひりするようだった。どうしてだろう。本当にどうして。


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