第三話 友達の色と潮風(4)
それでもわたしは、人気のない場所をひとつずつ思い浮かべた。特別棟の階段。体育館裏。部室棟。そして、駐輪場。どれも、若葉や日菜子と出会う前に、わたしが逃げ込んでいた場所だった。今では大抵の時間あのふたりといるものだから、来る機会はすっかり無くなってしまったけれど――そのひとつ、駐輪場とグラウンドをつなぐ小階段を通りかかったとき――ふと、目に入った。
いた。風に揺れる黒い髪。階段に腰掛け、誰もいないグラウンドを眺めながら、ひとり菓子パンを頬張っている姿。
カナデだった。心臓が、ふいに鳴る。途端に息が浅くなって、けれどその横顔を見た瞬間、どこかほっとしている自分がいた。
……人に対して、こんな気持ちになるなんて。わたし、どうしちゃったんだろう。どうしよう。声、かけてもいいのかな。だけど……でも、わたし、カナデに会いに来たんだ。言わなきゃ。深く、深く、息を吸って――。
「……カナデ」
喉から出た声は、自分でも驚くほどか細かった。ちゃんと呼んだつもりなのに、風に消えそうなほどの音量で、声だけが勝手に小さくなった。なんで、こんなに……恥ずかしくなってしまうんだろう。頬がかっと熱を持ち、思わず視線を逸らしてしまった。
「……あれ、ミナじゃん」
わたしの声に気づいたカナデが、顔を上げる。気取るでもなく、驚くでもなく、ただごく自然に笑っていた。
「どうしたの、こんなところで」
潮風が、カナデの髪をそっと揺らす。その風で自分の髪が乱れるのを、わたしは片手で押さえながら、足元のアスファルトをじっと見つめて答えた。
「……カナデが、どこにいるかなって……探してたの」
そう言った瞬間、手に持っていた弁当箱に力が入る。怖くて視線が上げられない。おそるおそる見上げた先で――カナデは、柔らかく笑っていた。
「ミナったら、ほんと……緊張しすぎじゃない? ははっ」
肩の力が抜けたようにくしゃっと笑って、カナデは続ける。
「そんなことしてくれる人、ミナが初めてだよ」
パンの袋をいじるカナデの指先が、風に吹かれてかすかに震えて見えた。先ほどの、若葉の言葉を思い出す。不良の松波――。確かにカナデはサボり魔だから、不良なのかもしれない。だけど、こんなふうに笑う人が、不良なんかのわけがない。だって、こんなにも――。
胸が一瞬だけ苦しくなり、わたしは再び視線を落とす。
「気を遣わせちゃったみたいで、悪いね。探すんだったら、連絡してくれたら良かったのに」
そう言いながらカナデは自分の横に、ひとりぶんのスペースを空けた。わたしは少し躊躇って、それでもその場所に腰を下ろす。この際、階段の汚れなんてどうでもいい。体育座りで、隣のカナデをちらりと見る。そのとき、ふいに目が合って――小さく身体が跳ねた。息が止まる。見つめ返されるだけで、呼吸がおかしくなりそうだった。
「ミナが来てくれて、嬉しいよ。ほんとに。でも……朝の子たちと食べなくて、大丈夫なの? 仲良さそうだったけど」
「えっ……? ふたりが、行って来いって……。そ、それに、わたしも……カナデと食べたいなって……思ってた、から……」
言い終える前から、頬が熱くなる。なんだか恥ずかしくなって慌てて水筒の蓋を開け、一口飲む。冷たい水で気持ちを落ち着けようとするけど、全然無理だった。何の効果もない。それにカナデはまた笑って、パンをひと口。それから、咀嚼を終えると――穏やかな声で、口を開いた。
「ミナったら、真っ赤。ありがとね」
カナデが微笑みながら、袋を指先でもてあそぶようにして言った。そのあと、ふっと視線を遠くに向けながら、ぽつりと続ける。
「それに、あの子たち……いい友達なんだね」
――友達。その言葉が、胸の奥にひっそりと落ちた。音を立てず、だけど確かに、どこかに届いた感覚だった。
……若葉と日菜子は、わたしの友達? そう呼んで、いいんだろうか。確かに、ふたりはわたしが遅刻するたびに、いつも心配してメッセージをくれる。毎日昼も、誘ってくれる。いろんな話をしてくれるし、たぶん、わたしのことも、よく見てくれている。
だけど――わたしはあのふたりのことを、どれくらい知っているんだろう? 一緒にいて、笑い合って、それなりに楽しく過ごして。それでも、わたしがいなくても成り立つ関係なんじゃないか――そんな不安が、ずっとどこかにある。
本当の友達って、もっと温かくて、安心できて、「この人じゃなきゃ」って思える……そんなものなんじゃないの?
「……えっ、ミナ?」
反応が遅れたわたしを見て、カナデが小さく眉をひそめた。
「ちょっと待って。何、その顔? もしかしてミナ……あのふたりのこと、友達だと思ってなかったの?」
「ち、違う……! そういうわけじゃなくて……!」
慌てて否定したけれど、声がうまく出なかった。言葉が、喉の奥で引っかかる。その間に、カナデが半ば呆れたように口を開いた。
「いや……どう見ても友達でしょ、あの感じ」
「だって……」
気づけば、指先が箸を持ったまま震えていた。わたしは視線を落として、言い訳のように呟く。
「わたし、全然知らないから。ふたりのこと……好きなものも、悩んでることも、深い話とか……一度もしたことないし。たまたまグループに入れてもらって、流れで毎日喋ってただけで……」
言いながら、自分でも情けなくなっていく。だけど、カナデはほんの少しの沈黙のあと、あっさりとこう言った。
「それ、友達だよ。ミナ、もうなってるじゃん。そうやって毎日一緒にいて、名前知ってて、ちょっとずつ話してるってことはさ……もう友達になってんだよ」
声のトーンは、あくまで自然体。だけどその言葉は迷いなく、わたしの真ん中に突き刺さってくる。
「それに……全然知らないと思うなら、これから知っていけばいいんじゃない?」
――ああ、この人は、いつもそうだ。わたしが何日もぐるぐると悩んでいることを、たった一言で、真っ直ぐに言ってしまう。まるで、それが簡単なことみたいに。
わたしは箸を止めたまま、カナデがパンをちぎる手元を見つめていた。それから、ふいに笑いそうになる。
そっか。あのふたりのことを、そう呼んでいいんだ。




