第三話 友達の色と潮風(4)
「はぁーっ……」
廊下に出た途端、思いきりため息を吐いた。気乗りしないまま両脚を動かし、とりあえずC組の教室を覗いてみるけれど――やはりそこにカナデは居なかった。カナデのことだから、静かな場所でひとり過ごしているのかもしれない。そんな気がして、わたしは弁当を胸に抱えたまま、もう一度ため息を吐いた。
スマートフォンで、「どこにいる?」と聞いても、良かったのかもしれない。でも、それじゃあ――どうしても会いたくて仕方ない、みたいで。……いや、ほんとうは、会いたい、んだけど。
指先がメッセージアプリを開きかけて、また戻る。その繰り返しだった。
わたしはどこまで、カナデに近づいていいんだろう。踏み込みすぎたら、きっと嫌がられる――そんな気がして、怖くなる。
それでもわたしは、人気のない場所をひとつずつ思い浮かべる。特別棟の階段。体育館裏。部室棟。そして、駐輪場。どれもかつて、若葉や日菜子と出会う前、わたしの逃げ場所だったところだった。今では大抵の時間あの二人と居るものだから、来る機会はすっかり無くなってしまったけれど。そのひとつ、駐輪場とグラウンドをつなぐ小階段を通りかかったとき――ふと、目に入った。
――いた。風に揺れる黒い髪。階段に腰掛け、誰もいないグラウンドを眺めながら、ひとり菓子パンを頬張っている姿。
カナデだった。心臓が、不意に鳴る。ぐっと胸が締め付けられて、けれどその横顔を見た瞬間、どこかほっとしている自分がいた。
……人に対して、こんな気持ちになるなんて。わたし、どうしちゃったんだろう。
どうしよう。声、かけてもいいのかな。だけど……でも、わたし、カナデに会いに来たんだ。言わなきゃ。深く、深く、息を吸って――。
「……カナデ」
出た声は、自分でも驚くほどか細かった。風に消えそうなほどの音量で、もっと普通に、自然に呼びたかったのに。なんで、こんなに……恥ずかしくなってしまうんだろう。頬がかっと熱を持ち、思わず視線を逸らしてしまった。
「……あれ、ミナじゃん」
わたしの声に気づいたカナデが、顔を上げる。気取るでもなく、驚くでもなく、ただごく自然に笑っていた。
「どうしたの、こんなところで」
潮風が、カナデの髪をそっと揺らす。その風で自分の髪が乱れるのを、わたしは片手で押さえながら、足元のアスファルトをじっと見つめて答えた。
「……カナデが、どこに居るかなって……探してたの」
そう言った瞬間、手に持っていた弁当箱に力が入る。視線が上げられない。恐る恐る見上げた先で――カナデは、柔らかく笑っていた。
「ミナったら、緊張し過ぎじゃない? ははっ」
肩の力が抜けたようにくしゃっと笑って、カナデは繋げる。
「……そんなことしてくれるの、ミナが初めてだよ」
パンの袋をいじるカナデの指先が、風に吹かれてかすかに震えて見えた。先ほどの、若葉の言葉を思い出す。不良の松波――。確かにカナデはサボり魔だから、不良なのかもしれない。だけど、こんなふうに笑う人が、不良なんかのわけがない。だって、こんなにも――。胸が一瞬だけ締め付けられ、わたしは再び視線を落とす。
「気を遣わせちゃったみたいで、悪いね。探すんだったら、連絡してくれたら良かったのに」
カナデは自分の横に、ひとりぶんのスペースを空ける。わたしは少し躊躇って、それでもその場所に腰を下ろした。この際、階段の汚れなんてどうでも良い。体育座りの姿勢で、隣のカナデをちらりと見る。そのとき、不意に目が合って――小さく身体が跳ねた。息が止まる。見つめ返されるだけで、呼吸がおかしくなりそうだった。
「ミナが来てくれて、嬉しいよ。でも……朝の子たちと食べなくて、大丈夫なの? 仲良さそうだったけど」
「えっ……? ふたりが、行って来いって……。そ、それに、わたしも……カナデと食べたいなって……思ってた、から」
言い終える前から、頬が熱くなる。あわてて水筒の蓋を開けて、一口飲む。冷たい水で気持ちを落ち着けようとするけど、ぜんぜん無理だった。
カナデは笑って、またパンをひと口。それから、咀嚼を終えると――穏やかな声で、口を開いた。
「ミナったら、真っ赤。ありがとね」
カナデが微笑みながら、袋を指先でもてあそぶようにして言った。そのあと、ふっと視線を遠くに向けながら、ぽつりと続ける。
「それに、あの子たち……いい友達なんだね」
――友達。その言葉が胸の奥に、すとんと落ちた。……若葉と日菜子は、わたしの友達なの? 今まで、ただなんとなく一緒にいて。気づけば隣にいてくれて。わたしが遅刻すれば毎回メッセージが飛んでくるし、休み時間のたびにいつも話しかけにきてくれる。でも――わたしはあのふたりのことを、どこまで知っているんだろう。
「……えっ、ミナ?」
思わず、曖昧な顔をしてしまったのだろう。それを見たカナデが半ば呆れたように、眉をひそめた。
「ちょっと待って。何その顔? もしかしてミナ……あのふたりのこと、友達だと思ってなかったの?」
言葉を失ったわたしを見て、カナデは信じられないとでも言いたげな顔をする。言葉が詰まって、わたしは小さく身体を縮めた。
「べ、別に……そんなつもりじゃなくて……ただ、わたし、全然知らないから……。名前と部活くらいしか、ちゃんと……。それなのに、友達だなんて、言っていいのかなって……」
自分でも、言いながら情けなくなっていく。それでもカナデは、そんなわたしの言い訳を最後まで聞いてから、あっさりと言った。
「何それ。さっき様子見てたけど、ミナは十分、友達になれてるよ。……全然知らないと思うなら、これから知っていけばいいんじゃない」
そう言った声は、いつも通りのトーンだった。肩肘張らず、ただ当たり前のように言ってくれるその言葉に――胸が、じんわりと温かくなる。わたしは箸を止めたまま、カナデがパンをちぎる仕草をぼんやりと眺めていた。
そっか。あのふたりのことを、友達だと思っていいんだ。
目を閉じて、教室にいるふたりの姿を思い浮かべる。若葉。そういえば、カナデと仲良くなりたいんだっけ。動機は不純だけど、案外カナデとは相性が良さそうだ。若葉なら、きっとすぐに仲良くなれるだろう。日菜子。朝、言っていた本命って、誰のことだったんだろう。そういえば、日菜子の話ってあんまり聞いたことがないかもしれない。……今度、聞いてみようかな。




