第二十二話 教える手、教わる手(2)
……というわけで、バレンタイン前の土曜日に、なぜかカナデがお菓子を作りにわたしの家にやってくることになっていた。部屋の掃除は何度もやり直して、使いそうな器具も全てテーブルに並べて、わたしは台所で妙に背筋を伸ばして突っ立っていた。
「ねえ、美奈ちゃん。奏ちゃん、もうそろそろ来るって?」
リビングの床にワイパーをかけながら、母親がちらりとわたしを見た。さっきスマートフォンに連絡が入っていたから、たぶんもう少しで来るとは思うけど……それを告げるのもなんとなく気恥ずかしい。
「そうだけど……。お母さん、出かけるんじゃなかったの? 邪魔しないでよね」
「奏ちゃんに会ってから出かけるから。いつもお世話になってるんでしょ? ちゃんとお礼しとかないと」
機嫌の良さそうな母親に、ちょっとだけ呆れて息を吐く。余計なこと、言わなければいいんだけど。なんだか落ち着かなくて、冷蔵庫からお茶を取り出してがぶ飲みをしてしまう。そわそわしながら時間を潰していると、インターホンの鳴る音がした。心臓の音が一気に高鳴る。慌てて確認しに行くと、モニターにはカナデの姿が映っていた。本当に来た……いや、そりゃそうなんだけど……!
「か、カナデ……! いらっしゃい、迷わず来れた?」
バタバタと玄関に駆けていき、扉を開けて出迎える。シンプルなコートと細いジーンズ姿のカナデは、変わらず飾らないのに、どうしてこうも格好よく見えるんだろう。胸の奥で、変な音がしているようだった。本当に、家にカナデが来てしまった。
「家から歩いて来てみたけど、結構近いね。お邪魔します」
カナデが、わたしの家の玄関で靴を脱いでいる。その何気ない所作すら、どこか信じられなくて――本当に、カナデが今、わたしの家にいるんだ。それだけなのに、なぜかわたしは泣きたくなった。
「あら、あなたが奏ちゃん! あらー……いつも美奈ちゃんの面倒を見てくれて、ありがとうね。それにしても……奏ちゃん、かっこいいのね。これは、美奈ちゃんに彼氏ができないのも納得……」
案の定、余計なことを言い始める母親に赤面しつつ、カナデは笑顔で挨拶し、丁寧に手土産まで差し出していた。楽団でも思ったけれど……カナデは年上への対応も自然で、まるで大人みたいだった。こんなの、わたしが敵うわけない。
勝手に色々と喋っている母親をしっしと払いのけて、リビングに向かう。カナデの家とは違い、わたしの家は普通の庶民的な一軒家だ。だから――広いリビングも、大きなテレビも、グランドピアノも、何もない。何もなさ過ぎて、ちょっと虚しくなってしまう。
「あっ。なんかもう色々出てる。準備してくれてたんだ」
テーブルの上に並べていた器具を、カナデが物珍しそうに眺めている。そんなに特殊なものは出していないはずだけど……たぶん、カナデの家にもあるんじゃない? 興味深そうにひとつひとつ眺める様子に、あ、本当に料理したことないんだ……と再認識した。
「……ええと、カナデ。今日は、ガトーショコラを作る、で、いいんだっけ」
「そうそう。チョコのケーキのやつ。美味しいよね」
並べた材料に視線を落として、腕を組んで考える。人と一緒に作るのは初めてだから、何からお願いしたらいいのかな。テーブルに置いていた卵をちらりと見て、言ってみた。
「じゃあ……まずは卵の黄身と白身を、分けてもらってもいい?」
「……どういうこと?」
きょとんとした顔をしているカナデと、目が合った。わたしは一瞬だけ目を瞬かせて、更に質問を続ける。
「……ていうか、カナデって卵割れる?」
「いや、それは、さすがに……たぶん……できるでしょ」
言葉の端に、不安がにじんでいる。その妙に自信なさげな言い方に、つい笑ってしまいそうになった。珍しく戸惑っているカナデが、可愛いと思ってしまうなんて。
「……だから、料理とか全然ダメって言ったでしょ。まあでも、ミナが手作りが欲しいっていうから、頑張ろうかなー……」
慎重に卵を持って、カナデは台のふちに打ち付けた。小さなヒビが入り、苦戦しながらもボウルの中に中身を落とす。
「……ねえ、ミナ。これでいいの?」
ボウルを持ったカナデが、少し緊張気味に笑う。その不慣れな姿が、どうしようもなく可愛くて――中身を見て大丈夫と返すと、「本当に? やった」と嬉しそうだった。とりあえず、黄身と白身はあとでスプーンで分けることにしよう。
その後、カナデはわたしの指示を受けながら、少しずつ工程を進めていく。最初はおっかなびっくりだったけど、元々の器用さもあって、徐々に動きがスムーズになっていった。カナデに何かを教えることは今までなかったから、ちょっとだけ新鮮だった。
「お菓子作りって、大変なんだねー……」
オーブンに生地を入れると、カナデは疲れたようにソファーにぐったりと倒れ込んだ。わたしもその隣に腰を下ろすと、カナデが起き上がり、溜息と共にわたしの太ももに頭を乗せてきた。咄嗟に身体が固まる。スカート越しにじんわり伝わる体温が、恥ずかしくて、でも心地よくて。きっとわたしは耳まで赤くなっていて――母親が出かけていて、良かったと思った。
「工程が、多すぎるし……めんどくさい作業も多いし……ミナはすごいよ……」
太ももの上で、カナデは目を瞑りながら呟いた。囁くような声が、肌に染み込んでくる。このまま時間が止まればいいのに――そう思ってしまったのは、きっとわたしだけじゃない。どきどきしつつ、わたしはその黒い髪を手櫛で梳かしながら、苦笑した。少しだけ硬い髪の毛が、掌をくすぐっていく。やがてオーブンの焼き上がりを知らせる音が響いて、カナデは少しだけ名残惜しそうに起き上がる。わたしの掌には、まだぬくもりが残っていた。
焼き上がったガトーショコラからは、甘く香ばしい香りが広がっていた。カナデは子どもみたいに目を輝かせて、歓声を上げる。
「おお……すごいね。ちゃんとケーキになってる……」
わたしも、ちょっとだけ誇らしい気持ちになった。ふたりで作ったお菓子が、こんなに幸せな時間をくれるなんて――なんだか不思議な気持ちだった。