第二十二話 教える手、教わる手(3)
「……ミナにあげるために作ったのに、結局一緒に食べるっていう……。でも美味しい。私もやればできるんだね」
テーブル越しに出来たてのガトーショコラを一口頬張って、カナデは笑う。カナデがわたしのために作ってくれたガトーショコラは――今まで食べたお菓子の中で、一番特別で美味しかった。その甘さが舌だけじゃなく、心にまで染みていく。
「まあでも、ひとりじゃ絶対無理。ミナに教えてもらわないと作れない。……ミナは料理もできるんでしょ? すごいよ、尊敬する」
あっけらかんと、何のてらいもなくそう言うカナデに、わたしの手が止まった。「尊敬する」――その一言が、わたしの中にすっと落ちた。カナデの口から、そんな言葉を聞く日が来るなんて。嬉しいのに、どこかむず痒くて、素直に喜んじゃいけないような気がして。
「そんな、すごいものは作ってないよ……。レシピ見てやってるだけだから。それに、カナデだって……慣れれば絶対、できるようになるよ」
うまく返そうとして、言葉がふわふわと宙を漂う。だけどカナデはわたしの否定をふっと笑って、まるで遊び心で乗せてくるみたいに言った。
「いや、私は向いてないから。それにしても、料理もお菓子も作れるなんて……」
フォークをくるくると指先で回しながら、カナデは続ける。
「将来ミナは、いいお嫁さんになれるよ。何なら、私がもらいたいくらいだ」
――えっ?
次の瞬間、わたしの手元のフォークが震えた。お皿に当たって、カチンと乾いた音を立てる。視線がぐらついた世界に飲み込まれるみたいに、カナデに吸い寄せられる。
胸が脈打つ。それが冗談だと、頭ではわかっている。だけど、心がついていかない。わたしの耳の奥で、さっきの言葉が何度も反響していた。
「私がもらいたいくらいだ」なんて。ねえ、それ、どういうつもりで言ったの……?
言葉を探そうとしても、息が詰まって出てこない。さっきまで甘くて美味しかったガトーショコラの味が、もうわからない。
冗談のはずだ。カナデは、わたしの気持ちなんて知らない。だから、悪気なんてきっとなくて――でも、だからこそ苦しい。
動揺を悟られたくなくて、わたしはカップを手に取る。いつもより熱く感じる紅茶を、ゆっくりと一口飲んだ。それでも、心臓のざわめきは静まらない。口の中の水分が、どんどんなくなっていく。取っ手を持ったままの指先が、わずかに揺れていた。
「カナデ、それって、どういう……」
思わず漏れた声と同時に、玄関の扉が鳴る音がした。「いい香り~」なんて、母親の呑気な声が響いてくる。現実が、ずかずかと踏み込んでくる音がした。わたしは慌てて視線を逸らし、無理やり口角を上げる。
「……カナデったら、わたしのこと、買い被りすぎだから……!」
笑ったつもりだった。でもその声は、ほんの少しかすれていた。カナデはそんなわたしをじっと見て、わずかに目を細める。
「本気でそう思ってるんだけど」
――嘘だよ。そんなの、信じられるはずがない。だって、わたしは……カナデと違って何も持ってないし、誇れるものなんて何もない。そんなふうに、何の迷いもなく言わないで。期待してしまいそうになるから。勘違いして、またひとりで苦しくなるから。
でも、止められない。カナデの何気ない一言だけで、わたしの内側に隠していたものが、簡単に揺れてしまう。
「奏ちゃん、晩ご飯食べて行かない? 今日は美奈ちゃんの好きな唐揚げなの。何なら泊まって行ってくれても大丈夫よ!」
母親の軽やかすぎる一言が、空気を決定づけた。止める間もなく、自然な流れで――カナデが、泊まることになってしまった。
心臓が跳ねる。顔では「えっ!」と驚いて見せながらも、胸の奥ではこっそりと、跳ね上がる歓喜が広がっていた。カナデと、夜を過ごす。それは、わたしにとって――本当に夢みたいな出来事だった。
「お母さんが急にごめん……。大丈夫だった?」
「全然。うち両親帰り遅いし、今日はいるの兄貴だけだから、むしろありがたいよ。ていうか、ミナ唐揚げ好きなんだね。……確かにお弁当の中に、よく入ってる気がする」
「そうなの。うちの美奈ちゃん、唐揚げ大好きで。何なら休みの日にひとりで作ってたりするわよね?」
リビングでカナデと話していたら、母親が横槍を入れてくる。やり辛いったらありゃしない。カナデは笑いながら「そうなんですか、すごい」なんて言っているけれど……母の追い打ちが恥ずかしすぎて、わたしは思わずカナデの腕を掴んだ。
「もう……! 部屋に戻るから! カナデ、こっち……!」
リビングを後にして、ぐいぐいとカナデを二階の自室に押し込むように案内する。そしてすぐに、丁重にドアを閉める。これ以上、母親とカナデを接触させるわけにはいかない。
「……へえ。これが、ミナの部屋。やっぱ可愛い感じなんだね」
声に振り返ると、カナデは興味津々な目で部屋を見渡していた。わたしの部屋は狭いし、完璧なインテリアなんて何ひとつない。片づけはしたけれど、物は多いし、生活感があちこちに滲んでいる。
こんな部屋、カナデに見せるには全然釣り合ってない。だけどカナデはそんなことお構いなしに、無邪気に部屋を歩き回る。
「あっ。これってアレじゃん。夏に水族館行ったときにあげたやつだ。ミナ、一緒に寝てくれてるんだ」
指差されたのは、ベッド脇のアザラシのぬいぐるみ。完全に、見つかってしまった。毎晩抱きしめて寝ていることは、もちろん絶対に言えない。「へえ……」なんてカナデは微笑んで、次に視線を机へと移す。そんなに見ても面白いものは何もないのだから、本当にやめてほしい。
「あ、これ、前撮ったプリクラだ。勉強机に挟んでるの? この時のミナは初々しくて、可愛かったよね」
――どうして、そんなところにまで気づくんだろう? 頭の中が、一瞬真っ白になった。もしかして、わたしが部屋にカナデの痕跡ばかりを残しすぎているの?
「あんまり見ないで……。ていうか、なにそれ! 今は可愛くないみたいじゃん……」
「ははっ、ごめんって。ミナは今も可愛いよ。でも、ふうん……ミナも、いつでも見える場所に置いてるんだ。なんか嬉しいね」
その一言がやたらと柔らかくて、くすぐったくて――わたしはむくれたふりをして、視線をプリクラに落とす。カナデと初めて一緒に遊んだ日に撮ったプリクラ。わたしが変な顔をしている、ハグのプリクラ。
何度見ても、酷い顔をしていると思う。それでもその一枚には、わたしの全部が詰まっている。ドキドキして、嬉しくて、カナデと並んで笑った、たった一日の魔法みたいな記録。その隣には、観覧車に乗ったときに買ってしまった、ちょっと恥ずかしいツーショット写真。こんなの見られたくなかったのに――なのに。
「もう……。っていうか、わたしも、ってことは……カナデもどこかに飾ってるの?」
「えっ? 定期入れの中に入れてるけど。開くたびに見てるよ、ミナの変な顔」
「うそでしょ? ねえ……やめてよ……!」
カナデが楽しそうに、声を上げて笑う。そのあどけない顔を、わたしは睨むふりをして見つめ返す。だけど、視線の奥に滲む想いまでは、隠せなかった。
どうして、そんなふうに笑うの? どうして、わたしをそんなふうに大切にするの? わたしはまだ、あなたにとってただの友達なのに。なのに、こんなにも惹かれてしまう。




