第二十二話 教える手、教わる手(1)
その日は真冬とは思えないほど陽ざしが柔らかくて、ブレザーの前を開けたままでも平気なくらいだった。潮の香りを含んだ風が頬に触れるたび、ほんの少しだけ、春の気配を感じる。いつもの防波堤の上でわたしは楽器ケースを傍らに置き、カナデの奏でるトランペットに、ただ耳を澄ませていた。
やっぱり、すごい。こんなふうに、音って飛んでいくんだ。カナデの音は、ちゃんと届いている。空に、風に、誰かの心に。
空を切り裂くような高音が響くたびに、譜面を握る手がしっとりと汗ばむ。風にさらされる指先が、わずかに震えていた。視線の先にはオレンジに染まった空を背に、なめらかに指を動かすカナデの姿。あのピストンに、小さな青い石がきらりと光った。
その音に、わたしは一歩も追いつけない。あんなふうに軽やかに、でも芯のある音を吹くなんて――同じ楽器を持っているのに、自分には到底できないと思い知らされる。
手元の譜面は、『ディスコ・キッド』――ほのかが選んだ曲だった。今まで聴いたどの曲とも違って、跳ねるようなリズムの中に、めまぐるしく音が飛び交っている。まるで、音が踊っているみたいだった。
だけど……全然わからない。リズムもタイミングも掴めなくて、音が身体の中に落ちてこない。
「……今のが、私のファーストの譜面。セカンドも、そんなに変わらないでしょ?」
カナデがマウスピースから口元を離し、軽く息を吐いた。わたしの手元には、同じ曲のセカンドパート譜面。今回この曲だけは、わたしがセカンドを任されてしまった。ほんの少しだけ、責任が増えた。頼られた気がして、ちょっとだけ嬉しい。でも、同時に怖い。わたしにそれを吹く資格なんて、本当にあるのかと不安になる。
「うーん……なんとなく、わかったような……? わからないような……」
わたしの情けない声が、風に混じって消えた。
「まあ、まだ時間はたくさんあるし、焦らず練習すれば大丈夫だよ。特にミナは……聴いて覚えるタイプのような気がするし」
カナデの言葉は優しくて、あたたかくて、少しだけ心を撫でてくれる。だけどわたしは本当に、ちゃんとできるようになるんだろうか。
譜面を睨みつけていても、リズムが浮かばない。指がついてこない。メトロノームの音だけが空回りして、音楽がどんどんわたしを置いていく。頑張っても、頑張っても、届かない場所にいるみたいだった。
「はあ……。カナデは、本当にすごい……。なんでそんな、すぐに吹けるの……?」
「いや、吹けないことも多いよ? でもこの曲は昔、演奏したことあったから」
そう言って、カナデが譜面に指を滑らせた。あの手で、どれだけの曲を吹いてきたんだろう。あの自信は、どれだけの時間を費やして手に入れたんだろう。わたしにはわからないことばかりで、それが少しだけ寂しくなる。
「ほのかと、初めてファーストを一緒に担当した曲なんだ。あの時のほのか……やっとファーストの譜面を貰えたって、めちゃくちゃ嬉しそうだったな。まさかまた、一緒に吹くことになるとはね……」
わたしたちの間を、潮風が通り抜けていく。ほのかと一緒に――その言葉に、胸がちくりとした。ふたりにとっての、思い出の曲。特別なエピソードが詰まった曲。それを、わたしも並んで吹こうとしている。
……いいのかな、そんな場所にわたしがいて。
わたしは何も持っていない。ただカナデに出会って音楽に触れただけの、ほんの初心者。なのに今、ふたりの記憶の中に、そっと踏み込もうとしている。嬉しい気持ちと引け目が、ぐるぐるに混ざって溶けていく。
「……ところでミナ、『ゲールフォース』の方はどう? 多少、譜読みできた?」
その声に、思わずびくりと肩が跳ねた。あの曲は、わたしが「選んだ」曲だった。カナデに吹いてほしいという理由だけで選んだ、定期演奏会の一曲。だけど――自分の意志で選んだ、初めての曲。
でも、譜面を貰ったその直後から、ずっと後悔していた。だって、あれはあまりにも難しすぎる。拍子も、テンポも、構成も、まるで未知の言語みたいだった。
「全然わかりません……もうだめです……」
細い声が、唇の端から零れ落ちた。譜面が、ただの線と点にしか見えない。どこで息を吸えばいいのかも、もうわからなくなっていた。
「何弱気になってんの、頑張るんじゃなかったの? 教えてあげるからさ、一緒に頑張ろう?」
カナデが困ったように息を吐いて、ぽんとわたしの頭に手を置いた。躊躇いのないその手が、髪の上をゆっくりと滑っていく。たったそれだけで、喉の奥が熱くなる。
まただ。こんなことで、こんなことで。どうしてわたしは、こんなにも簡単に揺れてしまうんだろう。頭を撫でられただけで、張りつめていたものがほどけて、泣きそうになる。
ほんとに、まるでカナデのペットみたい。撫でてもらえるだけで、嬉しいなんて……そんな自分が、ひどく情けなかった。
わたしは、できない。わたしは、吹けない。わたしはきっと、足手まといで――それでもカナデに触れられると、全部を許された気がしてしまう。目を伏せて、そっと息を吐いた。
「あっ。そういえば……ミナに聞きたいことがあるんだけど」
そんなふうに言い出したカナデの声が、思いのほか明るかった。撫でていた手がそのまま、わたしの髪を遊ぶように流れていく。触れられるたびに心臓がびくっと跳ねて、身体の奥に何かが染み込んでくるようだった。
「……な、なに?」
揺れそうになる声をどうにか抑えて、顔を上げる。カナデは、遠くの水平線を見ていた。橙色に染まる光の中で、その横顔がやけに綺麗だった。触れられないものみたいに――綺麗すぎて、泣きたくなるくらいだった。
「……ミナってさ、バレンタインのこととか……考えてくれてたり、する?」
「えっ? ……ええっ!」
カナデの突拍子のない言葉に、思わず叫ぶ。世界が一瞬、止まった気がした。目を見開いて固まっていると、カナデと視線が交わった。
「ははっ。ミナ、めっちゃ動揺してるじゃん」
カナデがいたずらっぽく笑う。その笑顔が太陽みたいに無邪気で、眩しくて――どうしようもなく、ずるかった。胸が、息苦しいほどに熱くなる。落ち着けない。どうすればいいのかわからない。顔から火が出そうで、視線を逸らすことすらできなかった。
「……でも良かった。動揺するってことは、考えてくれてたんだ。これで何も考えてませんでしたって言われたら、恥ずかしいからね」
悪びれもなく、カナデは笑う。どこまでも自然に、どこまでも優しく、わたしの横に腰を下ろしてきた。あぐらみたいに足を組んで、ラフに座り込むその姿。制服のスカートなのに、そんな無防備な座り方して……まるで男の子みたいなのに、それでもちゃんと女の子で――ずるい。ほんとに、反則だ。
こんなに近くにいて、こんなに無邪気で、こんなに何も知らずに……なんで、そんなふうに笑っていられるんだろう。
「イベント好きのミナのことだから……クリスマスみたいに、私のために色々頑張って考えてくれるんじゃないかと思ってさ。ふふ、図星?」
にやにやしながら見てくるその目が、なんだかとてつもなく可愛くて。どうしていいかわからなくなって、思わず目を逸らす。認めたくないのに、頬が勝手に熱くなる。
夕方の潮風が、わたしの身体を撫でていく。その冷たさが火照った肌にちょっとだけ優しくて、涙が出そうになる。
バレンタイン。ずっと、考えていた。毎日ぐるぐる、何回も。チョコの種類、包装紙、言い方、渡すタイミング……。日菜子と何日も前から作戦会議をして、ふたりで真剣に悩んで、笑って、悩んで――若葉には「またやってるよ……」と呆れられたけれど、わたしにとってはそれくらい本気の、大切な一日だった。
でも、それはたぶん、友達に渡すには重すぎる。だって、わたしは本気でカナデが好きで、本命チョコを渡したくて。「好きです」って言いたくて――だけど言えなくて。好きのかわりに、チョコに全部を詰め込もうとしていた。いちばん美味しいものを、いちばん綺麗に包んで、いちばん嬉しい顔をしてもらいたくて。そう思えば思うほど、手が震えてしまう。
「ふうん……どんなこと考えてくれてたの?」
ふいに、カナデの声が降ってきた。すべてを話すわけにもいかないので、わたしは言葉を取り繕う。
「えっと……買いチョコにするか、手作りチョコにするか、とか……?」
「へえ。ミナの手作り、興味あるな。ていうか、ミナ、お菓子作れたんだ」
次の瞬間、カナデが急に身を乗り出してきた。ぐっと近づいたその距離に、反射的に脚を抱え込む。思わず顔を埋めて、照れ隠しのように笑って誤魔化した。
「そっ……そんなに大したものは、作れないから……! ちょっとだけ……無難なのしか……」
「いや、手作りって選択肢があるだけですごいと思う。私は料理とかお菓子とか、全然だから」
そう言って、カナデは首を傾げてどこか自嘲するように笑った。そして、ふっと空を見上げながら続ける。
「でも、そっか……。それなら、手作りがいいな。ミナが作ってくれたものなら、全部美味しいんだろうね」
その言葉は静かなのに、妙に深く残った。期待されることは、嬉しい。だけどそのぶん、わたしなんかで本当に応えられるのかと怖くなる。
咄嗟に軽く唇を噛み、わたしは抱えた膝の上に視線を落とす。目の前には、ゆらゆらと揺れる水面。夕暮れの空が、少しずつ夜の色を滲ませていく。
カナデの言葉ひとつで、わたしの世界は色を変える。なのに、どうしてわたしは――まだ、自信が持てないんだろう。優しくされるたびに嬉しくて、でも痛くなる。わたしはその言葉に、まだ全然釣り合えない気がしてしまう。
「……私はミナへのお返し、どうしよっかな」
カナデが軽く言ったその言葉に、わたしは思わず顔を上げた。
「えっ……お返しくれるの?」
さっきまで胸の中に溜まっていた重たさが、ほんの少しだけ揺れる。こんなふうに気軽に返されると、真面目に受け止めていた自分が少しだけ馬鹿みたいで、でも、それがありがたかった。
「……それならわたしも、カナデの手作りがいいな」
なんて、なるべく冗談っぽく聞こえるように、唇の端だけで笑ってみせる。その瞬間、カナデの顔が微妙に引きつった。
「話聞いてた? 私、お菓子作りとか無理だから」
むくれたような声に、思わず吹き出してしまう。その反応が、あまりに可愛くて。完璧に見えて、料理は苦手――そういうところも、ずるいくらいに愛おしい。
「ふふっ……聞いてたよ。カナデ……かわいい」
軽く返したつもりだった。ほんの少しだけ、からかい返せた気になっていたのに――カナデは少しだけ眉をひそめて、じっと見つめ返してくる。
「まったく、ミナったら……。そうだ。そんなに手作りがいいなら……ミナが私に教えてよ」
「えっ……?」
「だって、言い出したのミナでしょ?」
さらっと返されたその一言に、思考が真っ白になった。さっきまで少しだけ優位に立てたつもりだったのに、次の瞬間には立場をひっくり返されて、息の仕方までわからなくなる。
カナデが、わたしに教えてほしいって?
しかも、その顔は――からかっているくせに、どこか本気で。子どもみたいに無邪気で、真っ直ぐで、きらきらした黒い瞳が、わたしの心の奥まで覗き込んでくる。
そんな顔、されたら。そんなふうに期待されて、頼られて、信じられてしまったら――もう、逃げようとしても遅い。
わたしなんかじゃ、きっと満足させられない。だけど、それでも――カナデに応えたいと、思ってしまう。そんな顔をされたら、断れるわけがなかった。




