第二十一話 新たな願い(4)
***
『ゲールフォース』はケルト音楽をベースに、三つの楽章のように雰囲気が切り替わる曲だった。冒頭と終盤は、跳ねるような明るさと躍動感。でも――わたしが心を奪われたのは、その中間部だった。
あたたかくて、胸に沁みて、どこか懐かしい音。まるで、遠くから風に乗って届くようなトランペットの旋律。だけど、正確には――あの柔らかな音は、フリューゲルホルンというトランペットに似た楽器が使われているらしい。わたしは、名前すら知らなかった。
ただ、それをカナデが吹いている姿だけが、どうしても脳裏に浮かんで離れなかった。
「へえ~……ほのちーが『ディスコ・キッド』、奏っちが『アルヴァマー』、そんで美奈ちーが……『ゲールフォース』ねえ……」
練習前、柚希が目を細めながら、パートごとに受け取った譜面を眺めていた。その視線がわたしの顔にふわりと落ちてきて、思わず目を逸らす。
「ほのちーと奏っちは王道だけど、美奈ちーはまた……渋いの持ってきたねー?」
柚希は譜面をぱたぱたとあおぎながら、わたしの様子をじっと観察している。なんだろう――ただ、何かを探られているということだけは、ひしひしと伝わってくる。
「す……すいません……」
その視線に、つい謝ってしまった。でも、何に対してだろう。初心者のくせに、渋い曲を選んだこと? カナデのことを考えながら選んだこと? わからない。ただ、「ばれたらまずい」という焦りだけが残っている。
「いーや? 全然ありだと思うよ? しっかし、こんな曲よく見つけたねー。さて、このフリューゲルのソロ……誰にやってもらおうかなー?」
柚希がわざとらしく思案顔を作りながら、わたしを見つめていた。もしかして、ばれてる? 完全に、見抜かれてる? わたしが、カナデに吹いてほしくて選んだってこと――。
「……てかさ、美奈ちー。これってさあ……その様子見てると、美奈ちーがソロ吹きたくて選んだわけじゃないよねえ?」
柚希の声が、まるでいたずらっ子のそれみたいに響く。その先の言葉を予感して、思わず顔を上げた。
「やっぱ、師匠の奏っちに吹いてほしくて選んだ? ……なんてねー」
「えっ……!」
その瞬間、全身に電流が走ったようだった。図星――ど真ん中だった。心の中をそのまま言葉にされたようで、思考が一瞬真っ白になる。視線が定まらない。頬が、火がついたみたいに熱い。言い訳も、否定も出てこない。だって、ほんとうのことだから。
息が止まるほど、全てを見透かされていた。
「おーおー、美奈ちーったら真っ赤。ほんと分かりやすいな……。さっきから、めちゃくちゃ奏っちのこと見てたもん……。これが若さか……」
柚希の言葉に、隣のカナデが「え?」とこちらを見る気配がした。それすらもう、心臓に悪い。なのに柚希はとどめを刺すように、明るく宣言した。
「という訳で、このソロは奏っちにあげる。フリューゲルは、私の貸すから。よろしくね~」
「えっ」
わたしとカナデの声が、同時に漏れる。カナデは柚希から譜面を受け取りながら、困ったように目を瞬かせていた。
「……私が吹くんですか?」
「私らも他の曲でソロ吹いたりするし、奏っちも一曲くらいソロやりなよ。なにより、弟子の美奈ちーが選んだ曲だよー? これはやるしかないっしょー?」
カナデは譜面をじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。わたしは不安でたまらなくて、だけど何も言えなくて――ただ、その横顔を見つめていた。鼓動がうるさくて、恥ずかしくて、でも、目を逸らすことなんてできなかった。
――やってしまった。わたしが勝手に、「カナデが吹いたら素敵だな」なんて、それだけの理由で選んでしまった曲。そんなの、カナデからしたら迷惑かもしれないのに。言いかけた「ごめん」が喉に引っかかった、そのときだった。
「……ミナが選んだ曲なら、やるしかないか」
吐息混じりに落とされたその声には、ぬくもりがあった。冗談なんかじゃない。ちゃんと、わたしの方へ差し出された決意なんだと、すぐにわかった。
「えっ……? カナデ……ほ、ほんとに?」
目が合った瞬間、カナデはふっと笑った。それはあまりに優しくて、真っ直ぐで、どこか照れたようで――その笑顔がわたしの中に溶けて、痛いほどにあたたかかった。
「ミナったら、泣きそうな顔してんじゃん。そんなに私に吹いて欲しかったの……? なら、やらない理由なんてないよ」
その言葉がわたしの中に落ちた瞬間、息の仕方がわからなくなった。ばれてる。わたしがどんな気持ちでこの曲を選んだのか、どれだけカナデに吹いてほしかったのか――全部、見透かされてしまった。恥ずかしい。なのに、どうしようもなく嬉しい。隠していた想いのいちばん柔らかいところを、拒まれないまま受け止めてもらえたみたいで、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
カナデは苦笑しながら、そっとわたしの肩に手を置いた。その掌が熱を帯びていて、まるでわたしの心の全部を、優しくなぞられたみたいだった。
「……ミナ。その代わり、ちゃんと練習付き合ってよね」
カナデの声が、ふっと低くなる。それがなんだか甘くて、くすぐったくて、カナデの音がそのまま言葉になったみたいだった。わたしはたまらず、目を伏せた。
嬉しくて、恥ずかしくて、愛しくて――喉の奥が熱くなる。泣きそうなのに、泣いたらきっと、もう誤魔化せなくなる気がした。カナデに吹いてほしい。その願いが、こんなふうに届いてしまうなんて思わなかった。わたしの中の「好き」が、隠しきれないほど大きく脈打っていた。
「うん……! カナデ、ありがとう……!」
やっとの思いで声を絞り出すと、カナデが小さく頷いて、微笑んだ。その顔を見た瞬間、胸がまた締めつけられる。
ああ、やっぱりわたしは、この人が好きだ。こうして、わたしの願いを受け取ってくれるところも。困ったように笑いながら、当たり前みたいに優しくしてくれるところも。全部、好きでたまらなかった。
この音がきっと、あなたとわたしを繋いでくれる。新しい年、カナデの隣で、どんな音を――わたしは響かせられるんだろう。この想いが言葉じゃなく、音で届く日が来るのなら。わたしは何度でも、吹こうと思った。
ふたりで顔を見合わせて、誰にも聞こえない音を分かち合うみたいに、小さく、でも確かに笑い合った。




