第164話 初めて訪れる地下牢
夕食をトレーに抱えたオリーブが、教会内の関係者専用通路を歩く。本日もそれなりの数の訪問者が教会を訪れた。とはいえ、その訪問者の数も目に見えて分かると言える程ではないが、日を追う毎に徐々に数が減ってきているように思える。一日の来訪者数のピークは終えたと言えるのかもしれない。
徐々に減りつつあるとはいえ、本日はオリーブが祭壇に詰めていなければならない当番であった。いつ人が訪れるか分からない為、安易に祭壇から離れる訳にもいかない。ゆえに、日が暮れてからの対応になってしまった。
通路を歩いてきたオリーブが、枢機卿部屋の扉をノックする。
「ビネガー枢機卿、オリーブです。いらっしゃいますか?」
片手に抱えた夕食は、アルスの為に用意した夕食になる。現在、教会内の上の階には関係者が寝泊まりする住居がある。全員が全員ここに住んでいる訳ではないが、それなりの数の人数が教会内に寝泊まりしていた。オリーブ自身もその中の一人である。
男性と寝食を共にする事に抵抗がないかと問われれば、無いとは言い切れないであろう。とはいえ、修道女の賃金は司教と比べると決して高いものとは言えない。それに、男性に比べれば数こそ劣るとはいえ、オリーブ以外の修道女、調理を専門に行う者など、他にも女性が共に寝泊まりしている事が救いと言えるのかもしれない。
ここに寝泊まりしているオリーブが夕食を抱えて歩いている事には違和感を抱かれる可能性は少ないかもしれない。ただ、枢機卿部屋を訪れた理由であるアルスの名をこの場で口にする訳にはいかない。
教会内の地下室に監禁されているアルスの存在。それは、ビネガーとオリーブ。二人だけの秘密であるからであった。
オリーブが何度か部屋の扉をノックしたものの、部屋の主であるビネガーからの返答がない。
どうやら、今は部屋を留守にしているらしい。
それは、オリーブにとっては僥倖と言えるのかもしれない。この場にビネガーが居れば、夕食を運ぶついでとばかりに、何か厄介ごとを言い渡されていた可能性すらある。アルスの世話を言い渡された時の、ビネガーの悪魔のような笑みを思い出し、身震いさせるオリーブ。
とはいえ、折角の好機である。この機を自らふいにさせてしまっては勿体ないと、扉を開け、部屋へと入っていった。
部屋の中へと身体を滑り込ませると、やはり部屋の主であるビネガーは今現在不在であるらしい。中はもぬけの殻、無人の部屋が待ち構えていた。
何度も訪れた事がある枢機卿部屋。ここに、地下牢への隠し扉がある事など、オリーブは露ほども想像すらしてこなかった。枢機卿部屋へと身を置く今も、どこに隠し扉があるのかさえ、見当も付かない。
ビネガーに教えられた手順でもって、地下牢へのスイッチを探り当てるオリーブ。そして、スイッチを押した先、部屋の中にゴトッといった重厚感を伴う音が聴こえた。
その音がした方向を中心に、改めて部屋の中を見渡すと、一部の床が盛り上がっている様を発見する。どうやら、そこが地下牢への入り口であるらしい。
オリーブは、その盛り上がった床へと近づくと、アルスの食事用であるトレーを床へと置き、両手でもってその床を持ち上げる。どうやら、片方が支点となり開く構造となっているようで、自身の身体の位置を変えながら、隠し扉を百八十度開く事に成功する。
だが、視界の先に映るのは暗闇であった。
部屋の中の光が差し込んでいる為、地下牢へと進むその先に、階段が設けられているこそさえ確認できるものの、奥側まで光が届かない為、階段の全貌すら確認出来ない有様。
これは、何か松明的な物が無い事には話にならないと悟ったオリーブは、明かりを灯す手段を確保する為、持ち込んだ夕食はそのままに、枢機卿部屋を後にする事にした……。
四半刻後、ランプを手にしたオリーブが枢機卿部屋へと取って帰ると、片手にランプ、片手にアルスの夕食のトレーを抱え、石造りの階段を一歩一歩下っていく。
既に夜の帳が落ち、太陽が沈んだ事で、気温はグンと冷え込みをみせる地下牢内。本当にこんな場所にアルス少年が閉じ込められているのだろうか? もし、そうだとするならば、この環境は大の大人であったとしても余りに過酷だ。
アルス少年がここに居るという選択肢しか持ち得ていないものの、まだ幼き少年がこんな環境に居て欲しくないという気持ちが、オリーブの胸を締め付けさせる。
そして、その気持ちの有り様は態度にも表れているようで、自然とオリーブの歩みを、ゆっくりとした動作へと形作っていった。
階段を下りきった先、唯一の光源となったランプの光が照らした牢屋の数は三つ……。このどれかにアルス少年が居る……。
(本当に、こんな場所にアルス少年が……?)
オリーブは緊張感から溢れる唾を飲み込むと、手前から順に牢屋内をランプの光でもって確認していく。
そして、二つ目の牢屋内。その中の誂えられたベッドに、毛布を全身に包み、眠りに就いているような人型を目にする。
「アルス……君?」
オリーブは半信半疑な心持ちのまま、牢屋内の人型へと声を掛ける。だが、半信半疑な心持ちのまま発せられた声は決して大きいものではなかった。それどころか、蚊の鳴くような声だったと言えるかもしれない。
「アルス君、寝ているの?」
オリーブは再度ベッドで眠りに就く人型へと声を掛けるものの、余程深い眠りに就いているのだろうか? 視線の先に映る人型は身動ぎ一つしない。
オリーブはどうしたものかと、初めて目の当たりにする牢屋内をぐるりと見回してみた。
地下牢の鉄格子は、各部屋とも二重に設置されていた。これは単に精霊師対策なのではないかと思われる。
常人とは違い、奇跡的とも言える現象をその身に宿す精霊師。ゆえに、牢屋に閉じ込めた側からすれば、暗に牢屋に閉じ込めただけでは安心出来る筈もない。近年になって精霊師の力を封じ込める為の魔封石こそ開発運用されているものの、この地下牢はもっと古くから運用されていたに違いない。それを感じさせる程の怨念といったような負の感情が、地下牢にこびり付いているような居心地の悪さを覚える。
正直、この場から一刻も早く立ち去りたい。自室のベッドに潜り込んで安心したい。だが、誰に言われるまでもなく、この場から逃げ出す事はオリーブ自身が許さない。今、目の前で視界に収める人型が、アルス少年のものであるとするならば、少しでもアルスの親身になってやらねば、オリーブの気持ちも収まらないであろう。
そして、牢屋内を見回すオリーブの視線がふと濡れた床を目にする。地下牢内は全て石造りで構成されている。濡れた床も例に漏れないが、多少なりとも水分を吸い込んでいるとは予想されるものの、これは間違いなく水の跡に違いない。
(どうして、こんな場所に水の跡が……? まさかっ!?)
オリーブは自身の背後を勢いよく振り返る。すると、一つだけ設けられた水道口の脇に濡れた桶が置いてある事を確認する。
「ビネガー枢機卿! なんて事を!!!」
オリーブは再度正面へと振り返ると、鉄格子を掴み、ベッドに横たわる人型へと先程とは打って変わったように声を張り上げる。
「アルス君! 起きて! アルス君、アルス君、返事をして!!!」
もし、本当にアルス君が全身に水を浴びさせられているというのであれば一刻も早く、その身を温めてあげねばならない。
見るからにアルスの身体を温め得る存在は薄い毛布一枚に見受けられる。
オリーブは、こうしてはいられないと、アルスの身体を温める為、更に多くの毛布と、室内全体を温める為に、何か燃やす物を確保するため駆け出す。
オリーブが階段を駆け上がっていった先、牢屋の前にはアルスの為に用意した夕食がポツンと残されているのみであった。




