第156話 問われる心
「ここは……?」
目を開けたベティスの瞳に見慣れた天井が映る。ゆえに、ここはアルスの私室なのだという事を直ぐに理解するベティス。
(わたくしは、何をしていたんだったでしょうか?)
少しでも何か情報を得ようと視線を動かした先、こちらを心配そうに見つめるニッキの姿を視界に収める。
(どうして、この部屋にニッキが……? わたくしが倒れた……とか? 今朝は皆で食事をして、そして……。そうだ! アルス様! アルス様のお迎えに参らねば!)
アルスの事を思い出したベティスが、勢いよく掛けられた毛布を剥ぎ取り、身体を起こす。
そんなベティスの行動を視界に収めるや、ベティスの行く手をニッキが両手を広げて封鎖した。
「お嬢様、どこに行くおつもりですか?」
「どこにって、アルス様の所に決まっているでしょう! ニッキ、退きなさい!」
「いいえ! 退きません! お嬢様のアルス様を想う気持ちは、その程度なのですか?」
アルスを想う気持ちをニッキに問われ、ベティスがニッキを睨みつける。
「その程度とは、どういうつもりなのかしら? わたくしは世界中の誰よりもアルス様を愛しているという自信があってよ! その、わたくしに対し、アルス様を想う気持ちを問うとは……。ニッキ、あなた何様のつもり?」
「お嬢様は、何も分かっておりません!」
ニッキがベティスに負けじと声を張り上げる。
「わたくしが分かってないですって!? ニッキ! わたくしは何を分かっていないと言うのよ!」
「お嬢様はいつも目先の事ばかりです! アルス様がどこどこに居ると判れば、その姿を追い掛け回しているばかり。お嬢様は、アルス様との将来を棒に振るおつもりですか? 今さえ良ければ、将来などどうでも良いと? もし、そうなのでしたら……。どうぞ、アルス様の所へお行きになって下さい」
ニッキはベティスにそう告げると、塞ぐように広げていた手を降ろし、進路を譲る為、自身の身体を移動させた。
これはもう賭けだ。ここまで言って、ベティスお嬢様を止められないようであれば、ニッキにベティスお嬢様をこの場に留めておく手段は他に思いつかない。それでも、アルスの身を案じ、ベティスお嬢様が教会へと赴くというのであれば、それはそれで一つの愛の形なのかもしれないと思う事にした。ニッキには理解し難い事は事実であるが……。
だが、そんな普段とは違う行動を取るニッキに、ベティスが戸惑いを見せる。
部屋の扉までの導線は既に確保されていた。そこに遮る物など何もない。にも拘わらず、ベティスは迷っていた。そして、その迷いは足を運ぶという行動ではなく、ニッキと会話を続けるという選択を取る。
「ニッキ……。あなたの言い分では、わたくしがアルス様との将来を蔑ろにしているという事なのでしょう? あなたがそうまで言う理由を説明して下さらない? どうやら、今のわたくしにはあなたが言いたい事の本質が分からないようなので……」
「分かりました。ベティスお嬢様、座りませんか?」
ニッキからの言葉に、ベティスが素直に従いベッドに腰かける。ニッキもベティスの隣に腰かけると、その小さな手を優しく自分の手の中に包み込んだ。
「お嬢様は、アルス様が好きで好きで、居ても経っても居られないのでしょうね。だからこそ、片時もアルス様から目を離したくないし、いつもずっと傍に居たい。そういう事なのだと思います」
ニッキの話にベティスが頷く。
「この家の中に居る時分はそれでも良いと思います。この家の中に居る時には、思いっきりアルス様に甘えても問題ないと……。ただ、この家を一歩でも外に出れば、それは変わってきます。それは、他人の目。世間の目という物が存在するからです。これから先、お嬢様もアルス様も、各々独自の人間関係を構築されていくでしょう。そのどれもにお嬢様は関わるおつもりですか? アルス様の人間関係の構築に邪魔をしても問題無いと? アルス様はあのご容姿です。歳を重ねれば重ねるほど、世の女性は放ってはおかないでしょう。ただ、その女性と話す話さないというのは、アルス様がお決めになる事です。お嬢様が決める事ではありません。時には、焼き餅から身を焦がすような嫉妬を抱くような事があるやもしれません。でも、それにも耐えるのです。アルス様は、お嬢様の想いを知っていながらも、簡単に浮世を流してしまうようなお方ですか? アルス様は、お嬢様の想いを知っていながらも、その想いを忘れてしまうようなお方ですか?」
ニッキの問い掛けに、ベティスが何度も何度も首を振る。
「ならば信じるのです。信じるというのは、時に怖いという気持ちを抱かせる事もあります。ただ、信じきれぬがゆえ、その行動が束縛へと至ってしまえば、アルス様を苦しめるような事にもなるやもしれません。それに、今回の事はお嬢様自身にも関わる事です。お嬢様は、アルス様を想うあまり、ご自身が吸血姫であるというその事を蔑ろにしがちです。もし、お嬢様が吸血姫である事が明るみになれば、その後はどうなるとお考えですか?」
ニッキの問い掛けに、ベティスがまたまた首を振る。だが、今回の場合は分からないという意味を内包していた。
「お嬢様が吸血姫だという事が世間に明るみに出れば、民衆はお嬢様を非難するでしょう。そして、それが更にエスカレートすれば、実力行使へと至る者も現れるやもしれません。そうなれば、アルス様は当然、お嬢様をお守りするよう立ち回られるのではないですか? そして、民衆の矛先はアルス様自身にも及ぶことになるでしょう。そうなれば、ここにはもう住めません。お嬢様とアルス様の生活は、運が良くて逃避行の人生です。お嬢様はそんな人生をお望みですか?」
ニッキの問い掛けに、再度ベティスが首を振る。そして、その瞳からは涙が溢れていた。
「私もお嬢様にそんな人生を送らせるなど嫌です。なので、お嬢様はご自身が吸血姫であるという事に、もっと自覚を持たねばなりません。アルス様との幸せな人生の為、お嬢様どうか……。どうか……。お願い致します」
ニッキが必死に自分を行かせない理由が理解出来た。そして、今朝の祖父の言葉も同時に理解出来た。それに及ばず、実家であるエマール家にて、どうして父が自分を自室へと軟禁したのかという理由まで理解出来た。
自分は周りの人間に愛されていた……。
ただ、自分がその愛を理解出来ていなかった……。
そして、自分が吸血姫へと至ったその事が、良いものでは無かったのだという事も理解した。
ただ、自分は吸血姫へと至った事で、九死に一生を得たのだという事も分かっていた。だからこそ、今この時アルスと生活を共に出来ているという奇跡を大切にしなければならないのだと自覚した。
「ニッキ、ありがとう。わたくしに話してくれて……。あなたの言葉を聞けて良かったわ。わたくしはただ単に、皆に甘えていたのですね……。そして、駄々をこねている只の少女だった。でも、ニッキ。あなたの言葉に一つ否定させて頂だい。アルス様は素晴らしい方です。世界で一番アルス様の事を理解しているわたくしが言うのですから、その事に間違いはありません。あなたが言うように、アルス様はきっとおモテになることでしょう。ただ、その相手がわたくしとアルス様の恋路を邪魔する輩だと分かった時には……。誰であろうと蹴散らします!」
と、盛大に言ってのけるベティス。ニッキはそんなベティスの発言に、大袈裟にため息を吐いてみせる。
その行為は、主従を超えた姉のような、身内としての絆を感じさせるものであった。
だが、そんな二人に、帰宅したマーレとグロックが、アルスの行方が知れなくなった事を告げたのであった……。




