第149話 母の想い、子の想い
ビネガーが使用した水魔法『水の牢獄』越しに、アルスの姿を視界に収めるマーレ。
(そんな……。どうして、アルスがここに……)
マーレは、アルスの足を引っ張る事にならぬよう『水の牢獄』からの脱出を図ろうとするが、後ろ手に拘束された手錠をどうしても外す事が出来ない。
ならばと、両方の掌から『突風』を発動し、その推進力でもって魔法の網から抜け出す方法を考えるが、マーレの思いも空しく、手の平から魔法を発動すら出来なくなっている事に気付く。
(どうして、魔法まで使えなくなっているの!?)
ならば、せめて自分の声をアルスに届けようと思い立つが、寸での所で踏み止まる。
今は魔法に囚われてしまっている最中とはいえ、声を発すればアルスの耳に届くかもしれない。ただ、ここで『アルス、逃げて!』と、アルスに伝えようとした所で、アルスが素直に従ってくれるとは到底思えない。そうなると、体内の酸素を消費してしまう分、損をしてしまうという事は確実だ。
それに気付き、アルスに向け必死に首を振り、『来ては駄目!』と訴えかけるマーレ。
アルスに向け首を振りながらも、マーレは自身の行いを後悔し始めていた。
半年前、グロックとベティスがマーレからの手紙を受け取った事を契機に、魔法書を携え、ゼスト一家が暮らす辺境地へと訪れる。その際、アルスの魔法取得の為に、魔法書の一読の為の時間を設けるかという話も挙がったが、マーレは一家の台所を一手に引き受けている立場として、今後の憂いを無くすためにも、森へ狩りに赴く事を提案する。
皆の同意を得られた事で、狩りへと赴く事に至った訳ではあるが、昼時を迎える頃になると、普段王都住みであるグロックとベティスの二人が疲労感を露わにする。ベティスの疲労に気付いたアルスが、ベティスの為に出来る事は何かないかと模索した中、川へと赴き濡れタオルを用意する事を思いつく。
川へと赴く前に、アルスはマーレに一声掛けた訳ではあるが、マーレはそれを引き留めなかった。アルスは、森に何度も足を運んでいるし、確か川までの距離もそれほど離れていなかったはずだし……。と、見送る事に留めてしまったマーレ。
その結果、アルスは精霊界へ足を踏む入れてしまう事になり、行方不明に。更に、アルスの帰りの手助けをしようと狼煙代わりの焚火を起こした所、ベティスとグロックが吸血蝙蝠の一団に襲われる事となってしまった……。
あの時も、散々後悔したはずだ。
散々、後悔を繰り返したマーレではあるが、マーレはとある事実を知らない。
精霊界へと赴いたアルス。その際に、精霊女王となったアルミラから、とある事実を告げられる。それは、アルスが魔法書を一気に一読すると大量の情報がアルスの頭の中に入り込む事となってしまい、場合によってはアルスの脳が、入り込む情報量に耐え切れず、下手したらアルスが廃人に至ってしまっていたかも……と。
ゆえに、再度アルスがベティスを伴い精霊界に赴いた時には、アルミラは時間を掛け、ゆっくりとアルスに精霊術を覚えさせていったのである。その為の、三か月という期間であった。
それゆえ、もしあの場で森へ赴くのではなく、魔法書の一読を優先していたら……。自分が預かり知らぬ所で、ある意味アルスの命を救っていたマーレ。そういう意味で考えると、アルスとアルミラの出会いは必然であったとも言える。ベティスが吸血姫へと至ってしまったのも、逃れられぬ運命であったのであろう。
だが、その事実を知らないマーレの心は、またしても後悔の波に圧し潰される。
今は、どう考えても声を発する事は得策ではない。それゆえ、アルスをこの場から離れさせようと、必死に首を振るマーレ。
枢機卿がこの場を訪れた目的が、自分ではなくアルスだと気付いた時に、母なる想いの深さゆえ、枢機卿へと挑み掛かったマーレ。だが、今はその母なる想いの深さが、映し鏡の如くマーレ自身を苦しめる。
後悔、先に立たず。という言葉があるが、その事を深く実感するマーレ。
だが、そんな母の想いとは裏腹に、アルスの瞳は怒りの炎で燃え上がる。
「母さんを、離せ!」
再度、枢機卿であるビネガーに、左の指を突き付け、アルスが叫ぶ。
(赤い指輪。となると、この少年が件のアルスか……。やはり親子であったか。だが、己からのこのこ顔を出すとは、こちらにとっては探し出す手間が省けたというもの。母なる人物を人質として手に入れた今となっては、この展開……。やはり天は我の味方となるようだ)
マーレとビネガー、二人が戦いの際に発してしまった騒音。それが、アルスをこの場に引き寄せる行為へと至る。終始劣勢を強いられていたビネガーではあるが、今のこの状況に、一人ほくそ笑む。
「皆の者、聞けい! 一歩でも、その場を動けば、即座にこの女の首をへし折る!!!」
ビネガーは、脅しとばかりに『水の牢獄』内に捕らえたマーレの首筋に少しだけ力を込める。途端、マーレに苦悶の表情が浮かび、体内に貯め込んだ空気が漏れ出る。
「馬鹿な事は止めるんじゃ! 仮にもお主は聖職者であろう!?」
「ジジイは黙っていろ! 先ほども言ったはずだ。この『水の牢獄』は、空気さえ存在せぬとな。余計なやりとりを繰り返すだけ、この女の死が近づくだけだぞ? まあ、我はそれでも構わぬがな」
そう言葉を発するビネガーの表情に、聖職者たる姿を微塵も感じさせない。それより、浮かべる表情は悪魔としてのそれだった。
「お前の目的は何だ!? どうすれば、母さんを離して貰える?」
事の経緯を察したアルスが、ビネガーに問いかける。
「クックックック……。その言葉を待っていた。我の目的は、アルスといったな? 小僧、お前だよ。さあ、どうする? 母の命は残り幾ばくも無いぞ?」
ビネガーの言葉に、アルスは一層力を込めてビネガーを睨みつける。だが、少し視線をずらすと、視線の先のマーレは苦悶の表情を浮かべながらも、アルスに向け、何度も首を振っているのが目に入る。
その事を契機に、アルスの脳内には、今まで母と過ごした日々、交わした言葉の数々、優しい微笑みが、一気に走馬灯の如く波となって押し寄せる。
最早、アルスに迷う余地など、微塵も存在しなかった。
「分かった。僕は、どうすればいい?」
「アルス、馬鹿な真似は止めるんじゃ! そんな事をすれば、マーレさんが余計悲しむだけじゃぞ!」
必死に声を荒らげるグロック。だが、その声にアルスもビネガーも耳を貸さない。ただ単に外野の声として成り下がる。
「よし、良い子だ。ゆっくりと我の前へと歩を進めよ。だが、判っておるだろうな? 下手な動きを見せれば、お前の母は即座にあの世行きだ」
ビネガーの言葉に、アルスが静かに頷く。
そして、一歩一歩慎重に歩を進める。アルスには、その後の展開は判っていた。きっと自分は、母の代わりに捕らえられるのだという事が……。
だが、自分の行動次第で母の命が助かるというのであれば、アルスに迷いはない。それでも、母の姿を目に焼き付けておこうと、ビネガーに向けて歩を進めるのではなく、母に向けて歩を進めるアルス。
愛しい母との日々を思い出す度、思い出が涙となって瞳を滲ませる。
(そんな……。アルス、来てはダメよ! 来てはダメ!)
マーレは、首を振りアルスに訴える。マーレの目にも、涙が浮かんでいる事だろう。だが、その涙は溢れるより先に、捕らえられている水魔法と混然一体となり消え失せる。
そして、遂にアルスがビネガーの前へと至る。
「よし、そこで止まって、ゆっくりと両腕を持ち上げろ」
アルスは言われた通り、その場で立ち止まると、ゆっくり自身の前へと両腕を持ち上げる。そして、その両腕にビネガーが魔封石の手錠を掛けると、手錠の間にある鎖を持つことでアルスを拘束するビネガー。
視線の先のアルス、及びグロックに抵抗の意思が無い事を確認した上で、ゆっくりとマーレの首元から手を離す。
「当初の経緯とは違う結果となったが、この少年は教会にて預からせて貰おう。なに、この少年に不審な点が無ければ直ぐにでもこちらに返してやろう。不審な点が無ければな……。この女へ施した魔法は、我が一定の距離を離れれば自然に解除される事になる。ゆえに、追いかけてくるような手段をとれば、我もそれに応じねばならぬ。さすれば、この女は『水の牢獄』に囚われたままとなり、命を落とすことになる。下手に追いかけて来ぬようにするのが身のためだぞ。明日、教会へと訪れるがよい。その際に、この少年に問題が無ければ、引き渡しも行うし、その女を拘束している手錠も解除してやろう。だが、『水の牢獄』逃れた事で、主らが我を追い掛けて来るような手段をとれば、この女は一生手錠を嵌められたままだ。今は、明日無事に返して貰えるよう、せいぜい神へと祈るのだな」
ビネガーはそう言い残すと、アルスを繋いだ手錠の鎖を引っ張りながら、この場を後にする。その姿は直ぐに庭外へと消え、姿が見えなくなるが、その間アルスが一度でも振り返る事はなかった。
アルスが振り返れば、その行為は未練と後悔となり、マーレの心を更に締め付ける事になったであろう。だが、マーレの命を救う為、ビネガーの言う通りにすると決めたのはアルス自身だった。その行為に後悔は微塵もないと、前だけを見据え歩を進めるアルス。
暫くしたのち、マーレを拘束していた『水の牢獄』の魔法が消え失せる。それは、一定距離アルスが連れ去られた事を意味していた。
魔法が消え失せるや否や、足元から崩れ落ちるマーレ。それを、直ぐさまグロックが抱きかかえる。
「ごほっ! ごほっ! ごほっ!」
体内に入り込んでしまった水を吐き出すと共に、やっとの思いで空気を吸い込むマーレ。『水の牢獄』に囚われている時には、水の屈折率も相まって定かではなかったが、『水の牢獄』から解き放たれた今、マーレの表情には酸素欠乏症の証であるチアノーゼ現象も表れていた。
あと少しでも遅ければ、手遅れになっていたかもしれない。
それでも、命は助かった。自分の代わりに息子がその身を差し出す事になってしまったと、後ろ手に手錠をされ上手く身体を起こせないながらも必死に身体を起こしに掛かるマーレ。チアノーゼからもまだ回復出来ていないゆえ、全身に重石を掛けられたような負荷がマーレ自身を苛む。
グロックは、マーレがやろうとしている行動の意味を悟ると、抱きかかえている腕の力を更に強めると、マーレに声を掛ける。
「マーレさん、追いかけてはいかん! そんな事をすれば、アルスが更に窮地へと追い込まれる事となるじゃろう! わしも、悔しい! じゃが、今は耐えるんじゃ!」
「先生! 離して下さい! お願いだから離して!」
だが、グロックは頑として、その腕の力を弱める事はなかったのである。




