第123話 エマール伯爵家にて
「幼精さん、次はどっち!?」
エマール伯爵邸内を一人走るアルス。ニッキと別れてからここまでの間ずっと走りっぱなしだったゆえ、身体が重い、息が苦しい、足が前に進まない。
でも、ベティは一人泣いているのかもしれない。その姿を想像してしまい、心が締め付けられる。もっともっと早く! と、気持ちだけは急くが、まだ幼いアルスの身体は自身が思うように応えてくれない。逆に、疲労が蓄積していく事で速度は遅くなっていく。
「わっ! なに?」
「えっ!? 子供?」
ベティスの下を目指す途中で、何人ものメイドとすれ違う。アルス自身の身体が小柄だという事もあり、ぶつかるという云う様なこともなく、事なきを得たが、邸宅内に居るはずもない少年の姿に驚きを隠せない。中には、幻でも見たのかしら? と、アルスが走る後ろ姿を只々見送る者も居た。
「ああっ! もう、こんな時に限ってニッキさんも居ないし! 君っ! ちょっと待ちなさい! 貴方たち、誰か旦那様と、大旦那様に連絡を!」
突然の事態に驚きを隠せないものの、メイドの一人であるメアリーが、機転を効かし指示を出す。そして、自身は邸宅内を走る少年を取り押さえるべく、追いかける。
「はあっ。はあっ。はあっ。よ、妖精さん……。次は、どっち?」
それにしても広い邸宅だった。ベティスはこんな広いお屋敷に住んで居たんだなぁ~と、感慨深くなるものの、なかなかベティスの下へと辿りつけないでいる。
「君っ! ちょっと待ちなさい!」
アルスは、追いかけてきたメアリーに後ろから腕を掴まれ、強引に引き留められる。
「君っ! ここは君が勝手に来ていい場所ではないのっ! ここは遊び場ではないのよ。一体どうやって入って来たの?」
「お姉さん、離して! 僕はベティの所に行くんだ!」
アルスは掴まれてしまった腕を振りほどこうと、押したり引いたりするものの、その動きすら大人であるメアリーからしてみれば予想の範囲内であった。ゆえに、掴まれている腕を引き剥がそうとアルスが藻掻く分、疲労だけが蓄積していく。
「ベティ? もしかして、ベティスお嬢様の所に? 貴方、一体何者なのっ!?」
エマール伯爵家三女であるベティスの名前が、少年の口から出た事に驚きを隠せないメアリー。
少年の身なりからして、普段から付き合いのあるどこぞの貴族のご子息だとも思えない。一体ベティスお嬢様とどのような繋がりが……。と、思ってた所で、通路の先からこちらに駆けてくる旦那様と大旦那様の姿を目にする。
(どうやら間に合ったようですね……)
自分の手には余りそうな予感がした為、ホッと胸を撫で下ろすメアリー。
「旦那様! 大旦那様! こちらです」
メイドからの知らせを受け、ヨークとグロックの二人がアルスの前に姿を現す。
「この子供は……。もしや……」
自分としては見覚えもない子供ではある。年の頃は、三女であるベティスと同じ頃であろうか。背丈も似たり寄ったりだと思われる。だが、今自分の目の前に居る子供が、男の子なのか、女の子なのかの判断が付かないでいた。それ程までに、瞳に映る子供は中性的な容姿をしている。ゆえに、ヨークとしては心当たりとしては一つしかないものの、確信にまでは至らないでいる。
「グロックさん! ベティの所に行かせて!」
「家の中で見知らぬ少年が走り回っているという知らせを受けて来てみれば、やはりお主であったか」
(父さんの口ぶりから察するに……。やはり、この少年がアルス君か……)
グロックが名前を口にはしなかったものの、最早間違いはあるまいと確信を得るヨーク。メイドであるメアリーに後ろから肩を掴まれ取り押さえられているものの、アルスの瞳の奥には怒りの炎が灯っているのが見て取れる。一体なぜ? とは思うものの、事情を聞かねばなるまいと、嘆息気味に息を吐きだすと、一歩前へと足を踏み出す。
「君は、アルス君で合ってるだろうか? 私の名前は、ヨーク・エマール。ベティスの父親だ。それで、いきなりこんな所まで押し掛けてきた理由を教えて貰えるかな?」
アルスが今居る場所は、エマール家の個人邸宅であるからして、招かねざる客であるアルスは、不法侵入と言っても差し支えない。当主であるヨークの心持ち如何によっては、衛兵を呼びつけ、アルスを強制的につまみ出す事も出来るのである。
ただ、それをしないのは、自分の娘であるベティスが心底惚れている相手であるアルスに対し、興味が尽きないのだという事は容易に想像が出来た。
「ヨークさん、初めまして。僕の名前はアルス。ベティの友達です。ヨークさん、グロックさん、僕をベティの所に行かせて!」
「アルス、いきなりどうしたんじゃ! お主とは、本日別れたばかりじゃが、よもやベティスがただ単に恋しくなったという訳でもあるまい?」
「そ……」
「旦那さま! 大旦那さま! メイド長が戻って参りました。何やら、慌てているようでして、お連れ様も居るようなのですが、こちらにお通しして宜しいでしょうか?」
アルスがグロックの問いかけに応えようとした矢先、慌てて駆けつけたメイドの声により遮られる形となり、出鼻を挫かれた事で口を噤んでしまうアルス。
「何? ニッキが?」
グロックは一瞬だけアルスへと視線を向ける。視線の先のアルスは、如何にもバツが悪いといった風体で顔を歪ませていた……。
「アルス、お主がどうして一人でここまで入って来たのか。それは、わしには分からん。ニッキが連れてきた人物とは十中八九、ゼストさんとマーレさんじゃろう。ならば、いっその事皆で話し合いの場を設けた方が良いのかも知れんの。ヨーク、どうじゃ?」
ヨークは、グロックが未だ当主気取りで話を進めていく事に不満な心持ちではあるが、この場には少年であるとはいえ、お客人の前である。一言言ってやりたい気持ちをグッと堪え、グロックの問い掛けに回答する。
「うん。それが良いだろうね。一人一人から事情を聞くよりも一同を集めて話をした方が話もスムーズに進むだろう。人数も人数だ、場所は食堂で行うとしよう。メアリー、客人を食堂へ案内して貰うようニッキに言付けを頼めるか。メアリー自身は、妻のチェルシーを食堂へと連れて来てくれ。アルス君は、俺が案内しよう」
「承知致しました、旦那様。では、この場は失礼致します」
メアリーは、そう言うや否や、ヨークとグロックの二人に頭を下げ、この場を離れていく。
アルスは、大人たちに囲まれながらそれを見送っていた。
「では、アルス君。私達も行こうか」
ヨークはアルスを誘い、共に歩き出す。ただ、声音に反し、瞳だけが鋭さを保っていた事に、グロックは気付いていた。
(アルス、お主がどうしてここまでやって来たのかは知らぬが、この先の展開がお主にとって良い物になるとは思えんのぉ)
グロックは、先を行く二人の背中を追い掛けながら、そんな事を考えてしまうのだった……。




