第1章 [2] 鬼の血脈
コンコン、と部屋の扉を叩く音に、秋庭雅紀は顔を上げた。慌てて扉を開けると、病的な程に顔を蒼褪めさせた旧友――芦原葵が蹲っていた。
「葵! 大丈夫か、おい!!」
生気が尽き果てたように顔を俯かせ、辛うじて座れているという状態の葵の顔を上げさせると、目は開いてはいるが意思というものが全く見えなかった。その目も、力なく閉じる。それと同時に、葵の身体が傾いで、雅紀の胸元へ倒れ込んだ。
「葵、葵! くそ……無理やりにでも飲ませていれば……」
雅紀の決断は早かった。意識を失ったらしい葵を抱き抱え、そのまま部屋の奥のベッドまで運んで横にさせた。血の気というものがまるでなく、微かに呼吸する音が聞こえなければ死んでいる、と思える程に葵の顔色は悪かった。
布団を掛け、どうするか――と考え、答えなど一つしかないと決断する。
これまでも、忘れてしまうことが多かった。忘れる度に、葵は半死人のような状態で雅紀のところへやってくる。大抵は運ばれてくるのだが、今日はどうにか部屋の前まで歩いてこれたらしい。だが、部屋の扉を叩くまでが限界だったのだろう。そのまま、眠るように気を失ってしまった。
「葵、僕だ。聞こえるか?」
耳元で声を上げると、微かに葵の手が何かを求めるように動いた。その手を取り、雅紀はその頬を軽く撫でた。ゆっくりと、葵が瞼を持ち上げる。
「いいよ。身体、支えるから。……飲んで」
言った言葉そのままに、優しい手付きで雅紀は葵の身体を起こして支えた。片手で頭を支え、葵の唇が自分の首筋にくるようにする。口が開く気配と同時に、首に鋭い痛みが走った。それは徐々に鈍痛となっていき、傷から入った牙が血を求めて動くのを感じる。
何かが根こそぎ奪われていく感覚。だが、それは愉悦さえ感じる、奇妙なものだった。
葵が唇を離す。その口元は赤く濡れていた。それを拭ったのは、葵自身の指だった。
「どう? 楽になった?」
「ん……まあ、な。ありがと」
「もう少し横になっていた方がいい。君の基盤はあくまでも人間だし、さっきまで死にかけてたようなものなんだから。長官だって君の事情はわかってる」
こくりと葵が頷くのを見て、満足そうに雅紀はまだ力が入らないらしい葵の身体をベッドに横たえた。布団を掛けると、顔だけを雅紀の方へ向けて葵が苦笑を洩らす。
「先祖返りってのは、本当に面倒だな」
「そうかも知れない。でも、だからこそ君は誰にも害せない。それは、芦原家に喧嘩を売るのと同じだから」
芦原の名を出した途端、葵の表情が曇る。それは、近しい者でなければわからない、微かなものだった。だが、雅紀にはわかってしまう。失言だった――とすぐに気付く。
葵の目許を、そっと手で覆った。
「少し眠って。幾ら君でも、血が身体を癒してくれるのには少し時が掛かる。……それまで、ね?」
囁くように言うと、微かに葵は顎を動かした。余程身体が疲弊していたのだろう、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。そのことに安堵し、雅紀は手を離す。
血を与えたものの、葵の血色はまだ青白い。脈を測ると、やはりやや頻脈の傾向が見られた。暫く休ませた方が良いだろう。顔色と脈さえ診れば、血圧なども良くはない筈だ。呼吸を規則正しく行えているようなのが、救いと言えば救いだった。
葵の蒼褪め、動かない姿を見ると、嫌でも十年前に引き戻される。
無力な自分は何もできない――そう信じていた、あの頃。
十年前。十六歳の葵は、静かに力尽きようとしていた。
白い病室の中が世界の全てだった。笑い、泣くということを教えられなかった彼は、今より遙かに言葉が少なく、空の青ささえ知らなかった。彼は、窓に近付いて外の景色を見ることさえも許されなかった身だったのだ。
出会った頃は、溌剌としているとは世辞にも言えなかったが、それでもベッドの上で身体を起こすことは難しいことでも何でもなかった。自分の行く末を自覚できるくらいには成長していた為、どこか年齢に合わない諦観さはあったものの――それでも、身体の自由は効いた。
静かに読書に励み、思い出したように口を開く。雅紀が来れば、その表情に微かな喜色が浮かぶ。
芦原葵――それは、葵の元々の名ではない。芦原の姓は生来のものだが、名前は違う。
本当の名前を教えてほしい、と何度も彼に尋ねた。何もできないのなら、せめて葵のことをもっと知りたかった。だが、葵の答えはいつも同じだった。
『もうすぐ死ぬ奴の名前を知って、どうする』
寂しそうに言うその言葉に、いつも雅紀は圧された。その言葉が事実だと、雅紀は知っていた。
何故本来の名を名乗らないのか――その理由は、彼が芦原家開祖の先祖返りであるからだ。その特性――或いは異常性と呼ぶべき性と体質を生まれ持ってしまった彼は、妖との混血であったと云われる開祖と同じ存在と言っても過言ではない。
混血の特徴に、短命というものがある。その理由は、遺伝子レベルで濃密に妖と人――本来相容れぬ二つの血が混ぜ合わせてある為に、反発を起こすのだ。人間より遙かに強靭な遺伝子細胞である妖の血は、信じられないような速度で体内の細胞を破壊していく。結果としては、急激な体細胞の壊死が起こってしまう。そしてその特徴は、先祖返りである葵も受け継いでしまっている。
芦原葵の名の由来は、遙か昔、神代の国であった頃――葦原中国の時の名のある民族の血を引くことからとされる。葵の名は、芦原家の家紋がその後栄えた将軍家の葵紋と似たものであることからだ。それ故、『芦原葵』は代々当主を務め、その銘を継いだ者の命は絶対であった。
そして、混血であるが故に生まれ付き他とは圧倒的に違う、絶大な霊力と魔力を持つ。霊媒師として活躍すれば、世界を捻じ曲げられると云われる程に。
だが、多くの先祖返りは総じて、二十歳まで生きることができない。それまでに、生命維持に最低限必要な体細胞が壊死し、死に至る。――葵もまた、例外ではなかった。
異常な程に病弱で、風邪をひくだけで死の瀬戸際に立たされる身体は、雅紀と出会って数年で瞬く間に機能を失っていった。不思議なことに、脳内細胞は多くが無事で、意識障害、知的障害などは起こらなかった。だから、葵は理性を保ったままゆっくりと身体が死んでいくのを体感していたのだ。
やがて、簡単な検査にさえ身体が耐えきれなくなり――彼は、物を食べられなくなった。寝たきり同然になり、一日の殆どを眠るようにして過ごす。
それでも、雅紀は諦めたくなかった。様々な管に繋がれ、辛うじて弱く呼吸をする葵に声を掛け続けた。日々弱くなっていく心臓の鼓動にもめげずに、手を握って色々と話をした。
呼吸を何度も、葵は止め掛けた。それでも、雅紀は懸命に呼び戻した。まだ、逝くな、と。
時折思い出したかのように葵は目を開け、泣きそうな顔で笑う雅紀と話した。起き上がれなくても、物を食べられなくても、それだけはしてくれた。まるで、最後の思い出を作ろうとするように。
やがて、葵は目を開けなくなった。彼の命は、もうすぐ尽きようとしていた。
ずっと昏々と眠り続け、反応さえ示さない。後何日生きられるかもわからない状態だった。心臓の鼓動がゆっくりと、しかし確実に弱まっていく。いつ止まってもおかしくないと、医師からは告げられていた。
手を握っても、声を掛けても、目を開けるどころか、握り返すこともない。力なくされるがままだった。以前は眠っていても声を上げようとしたり、握り返したりした。だがもう、それすらもできない。
体温も、心臓の鼓動が弱まっていくのと一緒に下がっていった。意識を完全に失っているその時には、もう葵の手は冷たく感じられる程になっていた。雅紀が握り締めている間だけ温かくなるが、離すとあっという間に冷えていく。
葵とは、もう『さよなら』をしなくてはいけないのか――。
もっと一緒に居たかった。
空が青いということを、教えてあげたかった。
一緒に学校に行きたかった。
本当の名前を、……たった一度でいいから、呼んであげたかった。
してあげたいことが、一緒にしたいことが山ほどある。けれど、運命は非情だった。雅紀の心には、葵の人生がよく理解できなかった。
幸せな時が、葵にあったのか。
何の意味もない人生にしか見えない。ただ苦しむだけの、無為なものにしか。
それでも、不思議と、葵が己の出生を嘆いたことはない。彼はただ静かに、在るがまま目を閉じ、逝こうとしている。それまでの『芦原葵』達と同じように。自らの、生まれた時からの不運さえ、彼はよく理解していなかったのだろうか。それとも、嘆くことに意味も意義もないと思っているからなのか。
雅紀は病室に泊まり込み、ずっと葵の手を握ったりさすったりした。そうしていれば、彼が居なくならないような心地がした。微かな葵の温もりと香りは、言葉はなくとも雅紀の心を慰めていた。
天気が良いよ――もうすぐ秋――聞こえる? 葵―――
他愛ない話をした。葵の命を繋ぐ為に。
朗報と呼べるものがきたのは、寒さが足音を消してやってきた頃だった。
話を持ち出してきたのは、葵の父親だった。彼は昏々と眠り続ける息子を見て、哀しそうにその頬を撫でた。そして、雅紀に切り出されたのは、葵を救う、たった一つの手段だった。
芦原の開祖の親――妖の方は、いわゆる吸血鬼だった。無論、先祖返りである葵も吸血行為を行える牙を持っている。
それは、賭けだった。
吸血鬼は、人間の血を糧とする。ならば、葵に人間の血を与えれば、容体が恢復する可能性があるかも知れない――そんな、無謀なものだった。
だがそれは、人間の生き方ではない。
人間の命とも言える血液を啜らせて生きるのは、同族食いと同じ行為になる。
それを、葵は望まない。彼の性格ならば、人としてこのまま死を選ぶ。――罵られるかも知れない。恨まれるかも知れない。それでも、彼に命をあげたいと望むなら。彼に未来をあげたいと、願うならば。
雅紀は、迷わなかった。
掌を切り、葵の口の中へ血を流し込んだ。何の躊躇いもなく。
――生きろ。俺の命を、あげるから。
貧血になる程に、雅紀は毎日葵に血を与えた。それを十日程続けた時、葵の弱々しく、今にも止まりそうだった心臓がやや強く鼓動を打ち始めた。やがて、無理やり酸素を流し込んでやらなくてもいいくらいに自力で呼吸をし始めた。雅紀の血が、葵の中で彼の命として巡っていた。
意識が戻ったのは、吸血させてから一ヶ月程した日だった。
葵は自分がまだ生きていることに驚き――ごく自然に血を求めるようになった自分を受け入れられず、葛藤した。やがて、一番初めに血を与えた人間の血しか受け付けないことや、最低でも一日一回は血を飲まないと倒れてしまうことがわかり――初めはぎこちなく、だが少しずつ彼は本能のままに雅紀の血を飲むようになった。
身体が以前よりずっと動くようになる頃、葵は芦原の当主となった。
夕方、空がオレンジ色に染まる頃に、葵が起き上がった。
「随分よく寝てたね。こんなに葵が寝てる……てか、凄い無防備に寝てるとこ、誰も想像できないよねー。君は小さな物音でもすぐ起きるから」
「……夢……か」
葵が呟く。「夢?」と鸚鵡返しに雅紀が尋ねると、葵は頷いた。
「昔……血を受けた時の。身体の中が温かくなるのを感じて目を開けたら、目の前にお前が居て……近過ぎて心臓止まるかと思った……」
そう。
何か、温かな温もりが身体の中へ沁み込んでいくのを感じ――ゆっくりと葵の意識は此岸へと戻ってきた。目を開ければ目の前には見知った旧友の顔があり―――。
「止まったら心マでも何でもして絶対呼び戻したけどね」
「普通驚くぞ! 気が付いたら友達に――しかも男に――その」
「キスとは違うだろ、あれ。何、君は人工呼吸もキスに数えるのか」
しどろもどりになり、視線を彷徨わせている葵の代わりに雅紀が言う。
「数えるか! あんなもんノーカウントだ。しかし、一体何だって口移しなんだ。血を与えるなら輸血みたいにした方が絶対効率いいだろ」
「俺もそれに関しては同感だけど、何かあれ、駄目なんだってさ。輸血してみたけど効果なくて、もしかしたら口に流し込まなきゃ駄目なのかなーって思ってやったらビンゴ」
それは、雅紀が奇妙に思うことの一つでもあった。何故か、葵の体内に直接血を注入しても効果はいまいちなのである。今も、葵自身に牙を立てさせ吸血を促す方が、遙かに恢復が早い。
「俺は正直、怖かった。血を与えて……葵が変わってしまったらどうしようって」
「……変わる?」
不思議そうに、葵が首を傾げる。
「だって、人間の血を与えただけで葵の身体はすぐに良くなった。てことは、それだけ劇的に変化を齎す――言ってみれば麻薬だ。ショックで葵の心が俺を忘れてたりしたら、と思うと耐えられなかった」
「……後悔しているのか? 僕の『餌』になったこと」
雅紀は首を横に振る。
「俺が血をあげなきゃ、葵は死んでた。だから、後悔はしてないよ。『餌』になったことで、一生傍に居ることができる。葵が死ぬ心配はもうない。だから、そんな哀しそうにしないでくれ」
そんなことは、と言い掛け、葵は小さく首を横に振った。後悔しているのは、実は葵の方なのかも知れなかった。雅紀が望み、受け入れた。だが、雅紀の血を啜り続けなければいけないことは、彼の心に小さくない闇を生んだ。
「その様子じゃ、壱吾君に言えていないんだね」
「……言えるか。兄貴が半分吸血鬼です、毎日血を飲まないと死んでしまうんです、なんて……。怖いのは僕だ。もう言われたくない……二度と、『化け物』なんて」
「壱吾君はそんな子じゃない。実際、君が彼の兄だと明かされた時も、『芦原葵』だということも、自分より遙かに格上の霊媒師だということも、当主になった時も――決して君を害そうとしなかったろう? 自分の弟じゃないか。もう少し、信頼してあげなよ」
そこまで言って、雅紀は葵の手が震えていることに気が付いた。自分より少し背の低い葵の頭を、優しく撫でる。
「君は自分で自分を傷付けてる。『化け物』と自分を呼んで」
葵は答えなかった。
人間として生まれた筈なのに、その中身は混血であった開祖と同じ特性を持つ異形。血を啜らなければ、すぐに死んでしまう、強くて儚い存在。
彼を化け物と呼ぶ、愚かな者は少なくなかったのだろう。
「葵。そんな風に、自分を卑下するな。俺は、先祖返りの君が好きなんじゃない。例え普通の人間でも、俺は君の友達になった。だから」
今にも倒れそうな、その背中をそっと雅紀は支えた。
「『化け物』なんて言葉で、自分を傷付けるな……」
葵の肩が微かに震えていた。落涙している、とわかったが、雅紀は何もせずに無言で傍に居続けた。




