序章 とある青年の覚醒について
異様なまでに暗い部屋だった。
現在時刻がとうに日暮れだということもあるが、ならば月や星、それでなくとも都心近くであるのに灯りが少しも射し込まないというのは、異常な空間としか喩えようがなかった。だが、それも仕方のないことなのかも知れなかった。この部屋には、窓というものが存在しない。外とは厚い戸一枚だけで隔たれており、そしてその戸は滅多に開かれることはない。
部屋の中央には、簡素なベッドがある。僅かな調度品もあり、人の手は入っている。床には埃一つ落ちておらず、日常的に掃除がしてあるのだと思わせる。だが、シンプルな白いビジネス・デスクの上には閉じられたままのノート・パソコンが一台置いてあるだけだ。それは、静かに机の上に鎮座に、汚れのなさは何年も使われていないことを示している。
だが、ベッドの上には誰も居ない。きちんと折り畳まれた布団もまた、買った時のまま新品同様だ。
外部でオート・ロックが解除される電子音が響く。僅かな差で閉まったままの扉が横に流れるように開き、同時に部屋が淡い灯りで照らし出される。
靴を鳴らして入ってきたのは、四十を迎えるかどうかというくらいの年の男だった。短く刈り上げた黒髪の下には神経質そうな、いかにも学者然とした顔がある。男は小脇にビジネス・バッグを抱えて、迷うことなくベッドの上にそれを放り出す。
「お前の……と言うか、若いのがどんな格好をするか、なんてわからん。適当に持ってきたからな」
独り言のようにそうごちて顔を上げれば、ベッドの置かれている更に置く――男の正面に、透明なガラスの棺があった。
だが、棺と思えるのは男の先入観だろう。それは棺桶の形は有しておらず、どちらかと言えば人一人を余裕で入れられる巨大な試験管だ。床に台座が固定されており、同じ設えの台座が天井にある。それは、まるで初めからそこにあるように、柱のようにあった。
毒々しさなどまるでない、透明な液体がガラスの内部には満たされ、時折水音が響く。
そして、水の中には年若い青年が漂っていた。命綱のように、浴衣状の寝衣の袷から管が伸び、遠く天井に吸い込まれているが、それは拘束している、という風はない。身体の一部のように揺れているだけだ。
「思いっきり殴られたぞ。〝どんな理由があろうと、葵を使うことは許さない〟って。そうだよな。私はお前と約束したんだよな。私利私欲の為にお前の力を使わないと」
男が愛おしげにガラスを撫でる。それは、冷たく凍えていた。その顔が、歪む。
「ごめんな。約束破って」
謝罪の言葉は一言だけだった。意を決したように、彼は青年を見上げる。
瞼も唇も堅く閉じられ、言葉が届いている風ではない。
そして、届いていたとしても何も言わない。仕方なさそうに困った顔をして笑い、やはり「仕方ないですね」と言うのだ。葵は、そうして全てを諦観している。そして、そんな彼を利用し続けてきた。彼の心の隙に付け込む形で、幾度となく葵を裏切り、果てには身勝手に意識さえ封じた。そして今度は、封じた時と同じくらい身勝手な理由で目覚めさせる。
男は机に向かい、ノート・パソコンを起動させた。素早くアクセスし、幾重にも施されたロックを的確に解除していく。見る間に丸裸同然となったプログラムを起動させる。最後のキィを叩く時も、躊躇はなかった。思いを振り切るように、力強く叩く。
【凍結――解除】
【身体活性化製剤、注入――開始】
【コード・〇〇四〝覚醒〟開始――約二三四〇〇〇秒後に終了】
【現在の霊子吸収率――覚醒時の十二パーセント】
【全プログラムに問題なし――続行】
幾つかのウィンドウが開く。と同時に、それまで全くの沈黙を守り続けていたガラスの柱が細かく機械音を響かせ始めた。
【身体活性化製剤注入――終了】
【現在の霊子吸収率――覚醒時の十一パーセント】
そこで、男の表情に影が差した。長く身体を凍結状態――平たく言えば仮死状態に置いていた所為か、あまり身体の活性化が芳しくないのだ。程なくして、エラー・メッセージが現れる。
【コード・〇〇四の続行は危険です】
男は顔を上げ、水中にたゆたう青年の姿を見た。
見ている限り、異常が起こっているようにはとても見えない。穏やかに眠っている。だが、その眠りが極端に深いのだ。封印解除の術式が巧く作動しないほどに。
彼は今、自力で呼吸をしていない。否、生命活動の殆どを行っていない。それはつまり、このまま無理に続行すれば息をしないまま外に出すことになる。赤子のように叩けば息を吹き返すわけでもない。そんな単純なものではないのだ。
男は迷わず、別のプログラムを打ち込んだ。
【コード・〇〇七:〝強制供給〟開始】
【霊子吸収率――覚醒時の十五パーセント】
術式を切り替え、最優先を霊子吸収に充てる。こればかりは、プログラムは補助しかできない。
【コード・〇〇四〝覚醒〟を再試行――後一三五七〇〇秒です】
【脱水開始】
まもなく十万秒を切る、というところでガラスの中の液体が排出されていく。それに合わせて青年の胸から伸びる管が長さを増やす。ゆっくりと身体が水位と共に低くなり、やがて細い足が床につく。
【脱水終了】
【コード・〇〇四終了まで後三〇〇秒】
【霊子吸収率――覚醒時の十六パーセント】
思ったより数字が伸びないまま、プログラムが役目を終えようとしていた。過昏睡時の霊子吸収率は、出来得る限り覚醒時に近付ける方が望ましい。この場合は一〇〇パーセントが一番安心できる。が、どうにも数字は伸びない。二〇パーセントにすら届かないのだ。
そして、今更中止することもできない。
【コード・〇〇四〝覚醒〟終了します】
最後のプログラムが静かに終わる。と同時に、ガラスが消えた。男は席を立ち、ビジネス・バッグの中からバスタオルを何枚か取り出すと、それを抱えて駆けた。
青年は床に倒れていた。薬液の中に居たため、身体はずぶ濡れの上、冷え切っている。身体の下にバスタオルを敷き、それで軽く身体を拭く。暖房を入れなければ、と思い一度ベッドの上に横たえ、壁際にあったエアコンのスイッチを押した。
葵、と声を掛けて――しかし目覚める徴候はない。顔色は青いと言うより白く、身体は冷たいままだ。手首を取ると、ゆっくりと鼓動を感じる。だが、呼吸をしているように見えない。
微かに、しかし苦しげに葵が呻く。呻きだけで、声にはならない。だがそれで、一応は呼吸をしていると思い直す。
外に出れば、この部屋の中より余程潤沢な霊子を体内に吸収できる。だが、この弱り切った身体で外へ連れ出して良いものか――男が悩むのは数秒だった。
彼は葵をバスタオルで包んで抱き抱えると、そのまま外へ飛び出した。
霊媒師。正式名称、霊的触媒使用特化型術師。
二十一世紀初頭まで、『霊媒師』と言えば怪しげなインチキ催眠術でも使いそうな者を指していた。無論、公的な職業でもなく、それはあくまでも自称だった。弱者などに付け込んで大金をはたかせ、有りもしない不可視の世界を信じようとさせるオカルト。それには実体などなく、ただのカルト的な話をする存在――長らく、その不文律は保たれていた。
所謂『異能者』を指す霊媒師という用語が扱われ始めたのは、まだ近代以降である。
科学文明が極端に発達する先進諸国の中では、それまでグレー・ゾーンを保っていた未知の領域に手を出す国も少なくなかった。科学進化の過程で扱われ出したのは、脳の神秘的分野だ。
機械の力でどこまでできるのかは、ある意味この時点で臨界点に達していた。アメリカ、ロシアなどを始めとする軍事大国はこの時点で『優れた技術者』を輩出するのではなく、『人間の臨界点』を突破し得る存在に手を出そうとしていた。
そうしてクローズ・アップされたのは、古来から少数だが存在が示唆されている『異能者』である。
中世の錬金術、近代以降の超能力者。
人々は、使う道具の強化ではなく、人間そのものの強化に挑んでいた。
様々な実験を繰り返した末に、世界の大気中にはこれまで見逃されていた不可視物質『霊子』が存在すること、そしてそれをエネルギーとして世界の現実を歪める術が実在することが確認された。
自然界に存在する霊的物質を消費し、凄まじい現実改変を行える霊的術者。各国はこぞって素質ある者を集め、教育機関などを生み出した。そして『霊媒師』は、国の中枢に入り組み、主に軍事的な需要を伸ばしていくことになる。
それは非戦を謳う極東の国、日本でも変わらない。だが、どちらかと言えばこの国では当たり前の技術として――専戦的な技術ではなく、科学分野と変わらない便利なものとして扱われている。
だが、それでもやはり――対人戦闘を目的として、彼らの需要は伸びていくのは変えられなかった。
警察庁公安部、第零番書庫。
そこは、存在しないナンバリングの書庫である。だが、元より重要機密を扱う公安部では、このような秘密部署も珍しくない。
だがそこは、他の部署とは一線を隔していた。
所属官僚ら全ての行動記録は残らない。そして、そこは『部署』と呼ぶには生温い。
街一つを丸々潰して造られたような演習場に、銃撃に似た音が連日響く。そこはまるで、自衛隊の駐屯地のようだった。
そしてそこでは、銃撃演習ではない轟音が日夜響く。
第零番書庫――公安部の名で借りた土地は、かつては無人島だった。
その島は、警察庁が表向きに出せない私兵の居住地である。
国から追われてしまった、規格外の『霊媒師』らの、巣窟だった。
ここでは本土のように官位など有ってないものだ。
あるのはただ純粋に、力の優劣。
同じ釜の飯を食べた仲間同士でも、遠慮なく序列が生まれる。
それは――今までの平等を悉く打ち破る、徹底的な力の循環の円環の一端である。
そして、この島に住む霊媒師らを、人々は畏怖と偏見でこう呼ぶ。
最後の恩赦を試す者達――『コード・Z』と。




