4-1 千と一日目の真実
全ては過去であり、過去に連なる現在だ。
そして全てのものに時は有限でなければならない。
塔の上には風が鳴いていた。土の匂いも海の匂いもする。地平線からは赤々とした太陽が昇り始めていた。
記憶と感覚がここが偽りの世界ではないことを告げる。“闇”に飲まれた町が眼下に広がり、城はしんと静まり返っている。似ているのではない。フルゲオクルスに戻ってきたのだ。現実なのに無音の世界へ。
千と一日目が始まる。
大地と海を赤く染め上げ、始まりの刻を告げる。終わりに向かう始まりだ。
現実の竜は不完全なままだった。黒い髪をなびかせ、金の瞳は失われている。血に染まった服。傷だらけの身体はどこもかしこも痛む。
でももう何も覚えていなかった無知な竜ではない。自分のことも故郷のことも、自分の罪も思い出した。『彼女』が誰であるかも。
醜悪な茶番だ。ライゼは王であるが、誰も知らぬ王だ。誰もいなくなったから王の地位に立つことができるだけで、実際は一日足りとも国を治めることはなかった。治めたくとも彼の国は滅んでしまった。ライゼの愚かさがとどめを刺した。
そんな亡国の王妃を名乗るなど悪趣味が過ぎる。ライゼに妃はいない。紅の女を傍に置いてはいたが娶ることはなかった。彼女が人間だったせいではない。
そもそもライゼは竜と人間の混血を祖とした竜の一族だ。神話にある、神を裏切り人間の女と結ばれた竜の王の子らが造った国がライゼのフルゲオクルスである。
神話と違うのは古代フルゲオクルスはまだ人間と戦争していたということだ。純血竜はとうに滅び、竜人と人間がいて、人間は魔法、いわゆる神力の一種ではあるが、神からは逸脱した魔の力を使った。神から授けられた力は竜の裏切りにより人間から奪われたのだ。そして彼らは新たな力を手にした。
神の力を司る竜と神と相対する魔を操る人間。相容れるわけがなかった。神代から続く竜と人間の争いは終わることを知らず、絶え間ない小競り合いを繰り返し、時に大戦へと発展し双方の血で血を洗った。
それでもライゼの時代は平穏だったといえよう。国境付近の諍いが時々勃発する程度だった。
人間との交流とて少なくはなかった。魔法技術を対価に竜の楽園に住むことを許された人間。彼らの多くは祖国で戦争へ狩り出されるのを厭うた者たちだった。
卓越した魔法を扱える人間は戦争で重宝される。真っ先に前線送りにされて竜に食われる恐怖を目前にしなければならない。そんなことになるなら竜の下へ下ったほうがいいと考える、祖国では売国奴と呼ばれる人間の中にロルロージュもいた。
彼女の魔法は他の誰よりも卓越したものだった。すぐに王国で重用され、ライゼの目にも止まった。いや、彼女のほうがライゼに目をつけたのだろう。
ライゼはあの時代にはひとりしかいない美しい白竜だったから。
またライゼもすぐにロルロージュの美しさと優しさの虜となった。まるで人間の娘のために神を裏切った始祖竜のように。
思い出とは美しい記憶だ。思い出された彼女との綺麗な記憶に自嘲する。
それでもかつての彼はロルロージュを娶らなかった。竜の直感が働いたとでもいうのか。金の瞳を持ってしても、真の心に触れられなかった。相手は人間なのに。そう考えてしまうライゼはやはり人間と竜は違うものだと思っていたのかもしれない。
彼女は魔女と言って差し支えない女だった。卓越した魔法。人を翻弄する口振り。あまりにも人間離れした美しい容姿。禍々しい力を擁していると心のどこかでわかっていたくせに「愛している」という言葉を捨ててしまいたくなかった。
「ロルロージュ」
「待っていたわ、わたしの王よ」
剣で貫いてしまえばいい。そうすれば終わるのではないか。真実など今となっては何の意味もないものだ。
握り締める。数多の闇【同胞】を葬り、弟すら殺した同胞殺しの黒剣を。
鐘の音がやんだ。
時計の音もやんだ。
するとライゼの黒剣は勝手に懐中時計の中に消えてしまう。
時計を開く。針が止まっていた。
もう逆戻りする必要はなく、時は終わりなのだと言われた気がした。全てが彼女の手の内なのか。
「さあ、ここまで辿り着いたご褒美に何でも教えてあげる。それとも本当にわたしを娶る気できたのかしら。それならそれでいいけれど」
「ふざけるな。この国に何をした。俺に何をした。何が目的なんだ! みんな死んだんだぞ! お前に逢うために!」
細い指が眠っているウーアの髪を丁寧に梳いていく。
「ウーアに何をした! 彼女を返せ!」
「わたしに逢うためにきたのはあなただけでしょう。他の子たちはみぃんな違う目的があったわ」
ふう、と息を吐き、まるでライゼが間違ったことを言ったかのような反応だ。
「この子のことそんなに気に入ったの? 妬けるわね」
そうとは思えない笑みを湛えたまま彼女はウーアの肩を揺さぶり起こした。目覚めてはくれないかと思った少女はゆっくりと頭をもたげ起き上がる。漆黒の瞳がぼんやりと彼を眺めた。
すかさずライゼは呼ぶ。
呼んでやると、助けると約束した。
「主様。記録対象到達確認完了。庭園の門を開きますか」
「ウーア……?」
少女は答えず、主と呼んだロルロージュへ真っ直ぐ感情のない目を向け、指示を待った。
感情がさざめく。ウーアには別に主人がいるとは思っていた。それが、ロルロージュ?
「まだいいわ。もう少しライゼと遊びたいもの。千年ぶりなのだから」
「御意」
ウーアの様子に愕然とした。あれは本当に彼女なのか。ライゼに見向きもしない。忘れてしまった? ロルロージュに何かされたのか。
「そんなに怖い顔しなくてもいいじゃない。返せっていうけど元々この子はわたしのものよ」
「ウーアに何をした」
「何も。この子はこういうものなの」
パチンと小気味良く指を鳴らした瞬間に彼女の後ろに一瞬のうちに現われたのは――同じ顔をしたたくさんのウーアだった。一様に無表情を張りつけ、黒い髪に黒い目、揃いの巫女服を着た、まるで人形であるかのような少女たち。
背筋に冷たいものが走る。全てが本当にロルロージュの手の内にあった作り物だったのだろうか。仕組まれた試練を受けさせられ、過去を識るために現実を犠牲にし、心の拠り所だと思っていた少女まで。
「ウーア」
返事は返ってこない。「いかないで」と泣いていた少女と同じとは思えない。彼は黒のウーアを否定した。ロルロージュがライゼを貶めるために作った幻影なのだと解釈する。
「俺といた……俺のウーアを返せ」
「この子たちじゃ気に入らないの? みんな同じ『ウーア』よ。この子たちはわたしが創ったの」
「創った……?」
「この子たちは世界の全てを記録している。まだまだ情報は足りないけれどね」
「何の、ために?」
「庭園を創っているの」
庭園だとか、世界だとか。まるで意味がわからない。ウーアはライゼのための記録媒体ではなかったのか。
「こんな世界ね、わたしは大っ嫌いなの。だからわたしはわたしが気にいる世界を創る。気にいらないなら自分の好きな『庭』を造ればいいと言ったのはあなたよ。覚えているかしら。ま、あなたに言われるまでもなく世界を創るつもりでいたのだけど、わたしの『庭園』っていうのは気に入ったわ」
愉しげに笑った女は少女に手を差し出し、その手を借りて石棺からゆっくりと立ち上がった。
「ここは最初のわたしの箱庭。人間も竜も相変わらずまったく馬鹿馬鹿しい存在だったわ」
「俺は……お前が花や鳥が好きだったから。だから美しい庭園を造ってやりたかった。なのに……。庭は自分が愛でるだけの庭だ。誰かの生活や命を弄ぶなんて赦されない」
「赦す、赦さない。正義や悪。そんなもの誰が決めるの」
「なんだと?」
「わたしが良いと決めたのだから良いのよ。誰に赦されたいわけじゃないもの。どうせみんな身勝手に生きてる。わたしだってそうするだけ。あなたもそうして、他のみんなを殺してここまできたんでしょう」
「違う! 俺は、俺は誰も殺したくなかった!」
「あなたはいつもそんなことばかり言って。でも結局どうなった?」
「ロルロージュ……俺を罰したいのか。俺が憎いか。なぜなんだ」
結局みんな死んだ。彼女の言う通りでライゼは肩を落として小さく首を振り、自らの存在を否定したがった。
「憎い? 馬鹿ね、そんなわけないわ。愛しているのよ、美しい白竜」
重さを感じさせない足取りで一歩、二歩と距離を詰めた女は、ライゼの頬に手を伸ばす。かつて「愚かで賢い白竜」と彼に口づけた時と同じように。
だけどライゼはもう昔とは同じではいられない。女の手を払って後退った。
「あら、反抗的。竜を怒らせると怖いわ」
「ふざけてないでちゃんと説明してくれ! この国はどうなる! ここにくれば助けてくれるとみんな信じていた! お前は、お前は何がしたいんだ!」
「別に」
簡単な返答に言葉を失う。
「わたしは試していただけ。人間の行動を。それに絶望に立ち向かう力を見ていた。人間は相変わらず身勝手だったわね。まあ、予測の範囲内だけど」
「全部観察していて、しかもお前がそうなるように仕組んだのか」
「仕組むなんて嫌な言い方ね。人間の行動理念なんて単純なのよ。こうすればこうなるという統計さえ理解できればね。何通りかはあるけれど、大体予想通りにしか動かないの」
「結果がわかっているならば……こんなことに何の意味があった? この結果はお前の予想通りだったのか?」
「意味、か。そうね、意味はあったわ。次にどう生かそうか考えるために。何を入れてあげたら面白いかしら。何を潰してあげれば馬鹿な考えをなくすかしら。もっともっと強くしなくちゃね」
「ロルロージュ!」
無邪気に心無いことを並べる女に竜はいたたまれずに叫ぶ。「人間の行動理念」を知り尽くしている彼女は彼の心情を手に取るように理解するはずなのに、何に怒鳴られたのかわからないとでも言いたげに首を傾げた。
「ひとつだけ。ひとつだけよ。わたしの予想が外れたのは」
彼女はウーアのひとりを乱暴に引き寄せ、胸に抱いてみせた。黒髪の少女はされるがままに顔を埋めている。
「あなたがここに辿り着くとは思わなかったわ」
女は紅い瞳を輝かせた。
「途中で死ぬと思ったの」
「……死なせるつもりだった?」
「どちらでも良かった。だってあなたは永遠にわたしのものだもの」
「死んでも?」
「死んでもよ」
嫌悪を露わにしたライゼはまた一歩、距離を取ろうと足を下がらせる。その足元に視線をやりながら、女は笑みを湛えたまま腕の中にいるウーアの細い首を掴んだ。
「ウーアが余計なことをしたせいね。こうなったのも全部あなたのせいだということを理解して」
「何を……!」
ウーアは黒い瞳をライゼに向けたままでいた。ライゼはロルロージュを止めようとして手を伸ばし、しかし鈍く骨の折れる音に身体を動かせなくなった。
首を簡単に折られた少女は本当にただの人形のように、ロルロージュに打ち捨てられどさりと地面に落ちた。




