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3-10 忘れてはならない過去の到達点



 殺してなんかいない。目の前にいるじゃないか。何を言っている。

 ずきん。ずきん。目の奥が痛む。押さえながらレガリアを視界に捉える。

 炎の中に佇む、紅の竜。ライゼの弟。今はただひとりになってしまった兄弟。

「さあ、続きをしよう、兄さん」

 『あの時』も強くなったレガリアに勝てないと思った。ライゼを討とうと準備してきた弟の様子に、彼が王国を壊滅させたのだと理解した。そこに二人の言葉はなかった。金の瞳がかち合っても竜同士であれば覗かせはしない。互いの本心などわからなかった。聞こえてくるのは憎しみだけだ。

 このままでは勝てない。勝つためには――。


“あなたには剣があるわ。竜の誰も扱えない剣の技”

 そんなものだけで勝てるとは思わない。竜の肉は鉄の武器では貫けない。

“だからあなたに特別な剣をあげる”

 黒い剣。闇を吸い込んだような一点の曇りもない漆黒はどこにあっても美しい黒を変えはしない。赤にも塗り潰されることはない闇の色。白など簡単に塗り潰す色だ。

“王になるのよ”


 名も顔も思い出せない彼女がくれた剣。

 そのことを思い出すと腰にぶら下がった時計の存在が確かなものになる。ライゼは握り締め、黒剣を呼び出した。魔の力を孕み、竜を滅するための刃。

 忌々しい色だと思わずにはいられなかった。

「レガリア! 教えてくれ、どうしてこんなことをした? 王位が欲しかったならこれで十分だったろう!」

「王位が欲しかったのは兄さんでしょう」

「なんだって?」

 放たれた雷撃はライゼに直撃する前に黒剣に裂かれ、霧散した。竜の力はこの剣をもってすればこんなに簡単に裁ける。

「俺は王位なんて欲しくない! もうやめるんだ! こんなこと意味がない!」

 だってここはもう。

 過去と現実が交差していく。

「僕は兄さんを殺すと決めているんだ。何を言っても無駄だよ。覚悟ってそういうものなんだよね?」

「何を、言っているんだ……」

 かつて、誰が、何を、覚悟した。

 腕の紋様が明滅し、神力が周囲を渦巻いた。炎の熱風を巻き込み、木々が枯れて萎びていく。

「ちゃんと思い出さないと」

 圧縮された重力がライゼの上から伸しかかる。熱が服すらも焼き切り、肌を裂いていく。

 だけど重い腕を振り払う。剣は風を払うように一瞬で力を消し去った。

 そんなことはお見通しだとばかりに、炎の渦を目くらましに懐に飛び込んできたレガリアに胸を突かれ、顔を殴られた。肩の『傷』に指を突き立てられ抉られる。

「っく!」

 竜の宮殿の庭園。試練の森。燃え盛る炎。紅い竜。

 記憶が錯綜していく。過去と現実と。後悔と真実。

「ロルロージュは僕のほうが王にふさわしいと思っていたんだよ」

「ロル、ロージュ……」

 あの女神のように優しい笑みを浮かべる美しい紅い髪の人間の女。大好きだった、ライゼの。

「そんなことはない! あいつは俺の――!」

「兄さんの、何? あの紅い髪に口づけられるのが兄さんだけだったとでも?」

 紅い髪。紅い唇。紅い瞳。なのに赤は嫌いだと妖艶に笑う女は肌だけは白く透き通るようで、その腕で白い竜を抱いた。囁く言葉は微温湯のように優しかった。いつだって欲しい言葉をくれた。時に厳しく、時に甘やかし。

 心を許した。

「ライゼ兄さんは彼女のこと、何もわかってないよ」

 あの日もそう言われて頭に血が上って竜の激情に支配された。理性を失った竜はレガリアの拳に何度も打たれ、そして『死にたくない』という本能を目覚めさせる。

「ああああああ!!」

 黒剣に魔が纏わりつく。ライゼの力ではない忌まれた力。愚かな竜は正しさを忘れ、黒い気持ちに飲まれた。神を裏切る力を振り翳し、金だった瞳はかつては弟の動きを封じた。

 今は、現実と過去とをライゼは正しく認識できていない。何が過去で、何が現実だった?

 白銀の竜の力は収めていなければ、きっとこの国で一番強かった。ライゼが力も強さも求めなかったから穏やかで優しい竜でいられた。それを彼女は『彼』によく似ている、と始祖竜のことをどうしてか懐かしそうに語っていた。

 関係ない。ライゼは紛れもない竜だ。他の誰でもない――愚かな白竜。

 黒い剣は、弟の身体を貫いた。

 弟は両手を広げて兄の剣を待っていた。

 何度目だ?

 レガリアが耳元で囁く。

 違う。違う。

 ライゼは否定する。現実から逃げ出そうとする。

 あの時とは違う。だってこんなふうに受け入れたりはしなかっただろう? 金の瞳なんか今は持っていない。誰も縛りつけたりはできない。

 でも確かに、貫いた。それだけは間違いない。

 よく『覚えて』いた。そう、忘れてはならないことだったはずだ。

 剣に貫かれたままのレガリアは兄にもたれかかり、ひどく悲しげに「死にたくないよ」と何度も繰り返した。

「どうして、兄さん、殺さないで」

 あの日の記憶が耳に、頭に響く。

 ライゼは紅い竜も殺した。試練の回廊で出会った赤い髪の男も殺した。全部レガリアだった。何度も『殺されるために』弟は立ち塞がった。

 どうして。

 ずっと昔、全てが現実だった頃に本当に弟を殺したからだ。たった一度、でも確かにライゼは弟を殺した。この手で剣を突き立て、この腕の中でレガリアは泣きながら死んでいった。

 今と同じように、兄にすがりながら「どうして」と繰り返す弟に、ライゼはあの時も我を忘れて咆哮した。

 大地を揺るがすような竜の叫びは、けれど誰も呼ぶことはない。みんなはもういないからだ。

 なのにどうして王になれよう。たったひとりになってしまったのに何が王なのだろう。

 こんなのは試練でもなんでもない。乗り越えるべきものではないのだ。

 これはライゼに課せられた罪。償うことは叶わぬ罪だ。

 孤独な王が掻き抱いた弟の身体は黒い靄となって散り散りに消えた。恨み言は言わなかった。ただ哀しそうだった。

 レガリアは同胞を本当に喰らったのだろうか。あれは真実であったのだろうか。

 どうしてライゼはあの時にもっとちゃんと信じてやらなかった。二人だけになってしまった血の繋がった兄弟だったのに。

 燃え盛る炎の中で王は紅い月を見上げる。ぽっかりと浮かぶ月は禍々しくも美しい。罪を静かに見つめ、無言のうちに責めている。

 竜の瞳に涙が溢れ、幾筋も頬を伝う。

 もう殺してくれたらいいのに。

 生きていく意味などない。全部ライゼが壊した。償いきれない罪を背負って生きて、それでどうするというのだ。ライゼがいるだけで国は滅ぶ。過去のフルゲオクルスも現在のフルゲオクルスもライゼが滅ぼしたようなものだ。

 『死にたくない』と生に忠実に生きてきた竜が、自らの死を願う。生きる意味を見出だせない。生こそ罪だ。

 心が崩壊していく。自我すら捨て去ってしまいたい。

 でも誰がライゼを殺してくれるのだろう。もう誰もいない。罪深き竜を裁いてくれる誰かはいない。

 放心しているライゼの手の中に剣があった。弟を何度も貫いた剣。

 ああ。これなら確実に竜を殺せる。

 誰もいないのなら自分でやればいい。それもまた、罰。

 うなだれたまま剣を力なき手で握り締める。

 その瞬間、風が吹き抜けた。爽やかな風。通り抜けると同時に炎は掻き消え、紅い月は鮮やかな青い空に塗り潰された。焼け焦げた木々は風に吹かれると白い花びらへと姿を変え、黒かった地面には瑞々しい芝が生え揃った。そこには白い絨毯のように花が咲き乱れ、景色は見渡す限りの平原になった。

 だけどそんなものではライゼの心は動かない。どうせまた幻影だ。王に罪を迫る過去でしかない。

 もう視たくはない。

 罪は理解した。罰も受ける。赦してくれとは言わない。だけど解放されたかった。

 そよぐ風の向こう、広がる平原に見えるのは紅。深紅の髪が軽やかになびいている。とても懐かしい光景。

 彼女は白い石棺に座り、少女の頭を撫でていた。黒い髪の少女があの女の膝に頬を寄せ眠っている。

 生きる気力を失くした男の心に一握りの揺らぎをもたらした。それは竜の心には針で刺すような微々たる刺激でしかない。

 けれど確かにライゼの心に届いた。

「ウーア」

 掠れた声が名を呼ぶ。呼び声に少女は応えない。艶やかな黒髪を紅い女の白い指が優しく優しく撫でていく。穏やかな光景だ。傍目には安らいでいる女たち。楽園に住まう天使のようである。

 でも竜の中には警鐘が鳴っていた。鐘の音。今は時計の音のほうが耳に残っている。耳障りなほどに響いている。

 助けなければ。

 囚われているようには見えないのに囚われたとライゼは感じた。

 決着をつけねばならない。罪深き竜の王がこうなった理由。

 ライゼは剣を握り締めた。自分を殺すためでなく少女を救うために。

 立ち上がり、一歩を踏み出す。

 すると足元から花は散り、青草を踏み締める感触は石床に変わった。景色が目まぐるしく変化する様子にも慣れたものだ。彼の視線は真っ直ぐ紅い女を捉えて離さない。

 石棺に座る女を中心に風景は構成されていく。見晴らしのいい場所だった。町を見下ろせ、山と海が望める。円形の広場。海を背景に石棺は置かれ、神殿のように柱が並んでいる。ライゼの後ろには塔があり、上では鐘が鳴っていた。

 フルゲオクルスの塔とよく似た造りだ。であるならあれはライゼの石棺かもしれない。

 悪趣味だ、と言うのは今さらだろう。全てが醜悪で嫌味のある展開だったと今ならわかる。

 何が楽園だ。何が囚われの王妃か。

 ここが目指していた楽園、ロルロージュの懐だと悟る。

 女は憔悴しきってもなお毅然と立ち上がった王に妖艶に微笑みかけていた。


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