3-8 君の名は
うずくまったまま動けないでいたライゼは、草木の瑞々しい香りと熱など微塵も思わせない爽やかな風にゆるりと頭をもたげた。
広がるのは青々しい芝生。白い噴水では煌めく飛沫が遊んでいる。池には七色の魚が泳いでいて、花壇には光の雫が零れる花が咲き乱れた。そこで蝶は羽根を休める。ふいに地面が陰り、見上げれば竜が飛翔していた。
庭園だ。この場所を知っている。
「ライゼ!」
赤髪の少年が駆けてきて、地面に寝転んだままのライゼを覗いた。
「ライゼ兄さん! またこんなところで寝てるとばあやに怒られるよ」
兄さん? ここは何だ。フルゲオクルスの試練はどうなった。これもまた過去か。どうして過去が話しかけてくる。
ぼんやりとしながら傷だらけであろう身体を庇いながら立ち上がろうとして、肩も手首も、どこにも傷がないことに気がついた。それどころか血に塗れてぼろぼろになった服も着ていない。左側にあったはずのあれを握り締めようとして、手が空振った。
今、何を掴もうとした?
「兄さんどうしたの、ぼんやりして。どうせまた騎士たちに嫌味でも言われたんだろ」
「馬鹿を言え。あんなやつら伸してやった」
「あーあ。そんなだから陰口言われるんだ」
「知るか。言わせとけ」
ああ、なんだ。自分はひとりなんかじゃない。みんないるじゃないか。口煩い乳母に、いちいちちょっかいを出してくる騎士共。それにこの赤髪の――。
「お前……名前なんだっけ?」
「忘れちゃったんだ? 悲しいな」
言葉のわりに楽しげに笑った少年は赤い髪を風に遊ばせいってしまった。
あれは誰だったか。思い出そうとすると目の奥が痛んだ。
美しい庭園を抜けると白き宮殿に辿り着く。本当に寝ぼけていたのだろう。ここがどこだかわからないなど、どうかしている。この宮殿はライゼの住まいだ。フルゲオクルスの都にある王宮。竜の国。竜たちはこの世で最も美しい都であると自負している。
「ライゼ殿下、ごきげんよう」
娘たちは王位継承権を持つ青年ににこやかに腰を折る。ライゼはそれに軽く手で返事をし、そのまま通りすぎる。愛想がないとよく言われるが、愛想など必要ないだろう。
ライゼの王位継承権は下位だ。現王の直系ではあるが、数多の王子のひとりでしかないし、彼の母の身分は低い。ライゼよりも遅く産まれた高貴な身分の弟のほうが継承権は上なのだ。それに玉座など興味もなかった。自分に国を治められるとも思えない。気ままに空を飛んで、自然を愛で、民と語らうほうが性に合っている。
人間たちとの戦などしたくもない。
だけど状況は一変した。
「殿下! ライゼ殿下!」
自分の執務室を見回して「どこかで見たことがある」とわけのわからない既視感に襲われた。自分の部屋だから当たり前じゃないか。どこか別のところに同じ部屋があるまい。
そんな違和感を吹き飛ばすタイミングで騎士のひとりが血相を変えて飛び込んできた。
「なんだ、そんなに慌てて」
「殿下……お気を確かにお持ち下さい」
異常な雰囲気だ。よく見れば騎士は戦場から戻ってすぐにここに飛び込んできたのだとわかる。埃まみれのマントに、血の臭い。
「何があった?」
「国王陛下が御崩御なされました。戦場にて裏切り者の襲撃に遭い、護衛を務めていらした兄君方の行方も不明。本陣も壊滅……」
全ての報告を聞くまでもなくライゼは部屋を飛び出した。
宮殿の広間には命からがら逃げてきた騎士たちがいた。やっとの思いで連れ帰った王と王太子、他にも戦場に出ていた王子たちの亡骸を囲んで痛ましい雰囲気だ。王妃と妃たちは王と息子たちの変わり果てた姿にすがり啜り泣いた。
「殿下! ライゼ殿下!」
王の側近の大臣が彼の姿を見つけるなり駆け寄る。
「父上は……?」
「陛下は竜の誇りを忘れず最期の時まで竜の王であらせられました」
「……御立派に召されたのだな。どうしてこんなことになった。兄上たちもついていただろう」
大臣は力なく首を振る。
「わかりませぬ。騎士によれば唐突に下等竜共が暴れ出し陣形が乱れ、そこを一気に突かれたと。まるでそこが崩れることがわかっていたかのような迅速さであったらしく」
ライゼは広間の騎士たちを見回した。密偵がいる可能性がある。あるいはもう役目を果たし敵陣に戻ったか。ここにいてはすぐに見つけられるものを。よくも今まで内部まで入り込んでのうのうとしていたものだ。
拠点の砦を捨て混乱のままに逃げ帰ってきた軍をその後すぐに治め、新たに戦線に配備し直す。この戦で王の子供たちの半数が死に、国に残っていた継承者たちは戦が得意と言えない者やまだ子供であった。その中で宮殿の防衛に配置されていたライゼが軍の指揮を任された。
国王不在の穴埋めは継承権上位の兄と弟たちがいるからだ。ライゼは政治には関わらない。兄たちは優秀だ。任せておけば大丈夫。
ライゼにできるのは国境地帯を安定させ、奪われた砦を取り返すこと。戦場を駆けることだ。
戦いを好まぬ男は、しかし才能というのは気持ちとは関係なく与えられるのだとよく知っていた。やりたくなくとも、やれるのならやらねばならない。それが王族としての義務だ。
戦場においてこの男は優秀だった。先を見通す目。人心を掌握する手腕。
ただそれを今までライゼは隠していた。
やりたくなかったからだ。義務を放棄していた。それにライゼがやらずとも兄たちがいた。
でもこんなことになるのなら、先の戦に出るべきだった。彼がいたからと状況は変わらなかったかもしれないけれど、何もしないよりはましだった。国王を死なせずに済んだかもしれなかった。
あの日からずっと自分の愚かさに苛まれている。
やれば良かった。どうして逃げていた。自分は馬鹿だ。
だから無心で戦場を駆ける。残忍な竜として。
そうして彼が戦に明け暮れている間に宮殿がおかしなことになっていると気づいたのは砦を取り返し、報復としさらに幾つか拠点を落として領土拡大を土産に久々に帰還した時だった。
まず驚いたのは宮殿の雰囲気。空気が変わっていた。澄んで美しい楽園のような竜の都に死臭が満ちている。
大臣が死んだような目をして報告した。しかもその大臣は父王の片腕だった男ではなく、ライゼも知らない若い男だった。
彼は重い口を開く。凱旋を果たして帰還した王子に聞かせるにはふさわしくない報せなのだ。でも言わずにはいられないし、聞かないわけにもいかなかった。
「王位継承候補殿下方はお二人を残して全てお亡くなりになられました」
正直、意味がわからなかった。言葉の意味を理解できなかったのだ。あまりにも現実離れしていて。
「兄上が? 産まれたばかりの赤子は? まさかそんな冗談はやめろ。笑えないぞ」
「冗談ではありませぬ。笑い事ではないのです……。殿下が居られぬ間に宮殿では継承権争いが……」
「継承権争い? そんな馬鹿な、だって王には第一継承権の兄上が……一体誰がそんな馬鹿なことを企てた!?」
最初は産まれたばかりの継承権下位の赤子が死んだ。病だと思われた。弱き子が死ぬことはよくある。まだ誰も不信感を抱かなかった。
次にライゼの指揮下ではない別の戦場を指揮していた兄が死んだ。敵方が企てた暗殺だったと処理された。
第一継承権の王子はいち早く警戒し、護衛もつけ近しい者としか接触しなかった。けれど唐突に自害した。自害するはずがないと誰もが思って調べたが、そうとしか思えない結果しか出なかった。
そうして次々に継承権を持つ者たちが死んでいき、また彼らに忠誠を誓っていた側近たちも不明になった。暇を取ったとも、闇に葬られたとも言われている。
広がる不穏がどこからもたらされたものだかわからないうちに継承権を持つ者は二人きりになってしまったのだ。
ライゼ・アインザームカイト・フルゲオクルスと、もうひとり。
「レガリア・シレークス・フルゲオクルス」
目を苦しそうに押さえた男はやっとはっきりと思い出した。
ライゼより継承権の高い優秀な弟。赤い髪と金の瞳が無邪気な子だった。素直で、弟よりも身分が低いライゼにもよく懐き、驕ったりしない優しい子のはずだ。
それがなぜ?
いいや、兄たちが亡くなったのは偶然かもしれない。レガリアが画策などできようもない。そうだ。そうに決まっている。でなければ次に狙われるのは――。
「そうよ。あなたよ、ライゼ」
彼の傍にいる唯一の女は、傷心している王子を慰めるために寄り添った。
名は……名を思い出せない美しい女にライゼは心を許していた。細い身体をこの腕に閉じ込める。
「まさか。レガリアがそんなことをするわけがない。あの子は誰より臆病で聡明だよ」
「あなただってそう思われていた。賢い竜は爪も牙も隠すのよ。あなたがそうしていたように」
「俺は……俺は違う。逃げていただけだ」
「また逃げる?」
「逃げる? 何から?」
「玉座」
女の言葉を胸を突く鋭さを伴い、ライゼの迷いを言い当てた。
「玉座など。それに継承権はレガリアのが上だ。俺は王には……」
誰かがやらねばならない。でなければ内部分裂したこのままでは遅かれ早かれ国は崩壊する。
でも。
「レガリアはとても優秀よ。そして竜の血をよく受け継いでいる」
「なら」
「竜の残忍な血をね」
彼女は瞳を伏せてとても哀しそうに言った。
「そんなの俺だって」
レガリアよりもこの手はもう血に濡れている。たくさんの人間を戦場で屠った。覚えきれないほど。
「あの子は同胞殺し。罪深いわ」
「待て! あいつがやった証拠などないだろう!」
「証拠がなくとも明白。今ではレガリアが継承権第一位よ」
「だけど! そんな馬鹿なこと!」
「あなたは優しい竜ね。美しくて大好きよ」
髪を撫でられ、頬をなぞられる。彼女は誰よりも愛しい女だった。
「でもこのままではあの子に殺されるわ」
「俺が……?」
「どうにかしなくちゃ」
「どうにかって……」
ライゼは彼女の目の中を覗き込んでしまった。普段は意識的にそうしないようにしていたのに、彼女があまりにも真っ直ぐに見つめてくるから。まるでそうしてくれと言っているように。そしてその通りだったのだろう。
“レガリアを殺すの”
流れてきた思考にライゼは女を突き飛ばし、視線を外した。
「お前、何を言ってるんだ!」
「あら、何も言っていないわ。あなたが勝手に覗き視ただけ。その竜の瞳で」
ライゼは目を押さえる。奥が疼くように熱いのはきっと気のせいだ。だってライゼの目は竜の目なんかじゃない。黒い――。
「綺麗な金色」
にっこりと微笑んだ彼女がライゼをじっと見つめる。その大きな瞳に映ったのはライゼの金の瞳と銀に輝く髪だった。




