3-7 断罪
どうして戦っているのだろう。こんなに苦しくて悲しくて怖いのに。
竜を殺すための剣に触れるのはひどく怖い。刃がほんの少し掠めただけで命が流れてしまいそうだ。一度目よりも二度目、三度目のほうがさらに恐怖を増した。痛みを覚えているからだ。
なのに身体は止まらない。幾ら皮膚を裂かれようが、剣を振っている。
諦めてしまえばいいのに。そうしたらきっと楽になれる。痛いことも怖いことも、身を引き裂かれそうになるほどつらい目にだって遭わなくていい。
全部、全部、お前のせいだと誰もが言う。
だから償うためにも死んでしまえばいいじゃないか。それで本当に神に召されるとは思えなかったけれど、そうなれば気が済むのだろう?
死にたくない。
死ぬのは怖い。
みんなそう叫んで死んでいく。
竜滅の剣の痛みを知っているのにライゼは慈悲もなく振るい、あの紅い竜を殺した。怒りに任せて。殺らなきゃ自分が殺られるから。死にたくないという本能はいつもわかりやすいほどに素直だ。
誰よりもこの竜が死を畏れる本能に忠実に生きてきた。
だからどんなにつらくとも剣を振るうのをやめたりしない。
国を救うため? 少女を守るため?
そうじゃない。誰かのためなんかじゃなかった。自分が生き残るため。愚かで尊い生存本能。
だからライゼはここにいる。
「王よ、あなたは私も殺すのか」
クヴァールの短剣のほうがライゼを傷つけている。なのにこの男は薄ら笑みを浮かべて言った。
「お前はブルタールを殺した」
「それをあなたが裁くと?」
「……そうじゃない、俺はただ……」
「あの子の仇でも取る?」
「俺は……」
躊躇は隙を生む。短剣が勢いよくライゼの右肩に突き刺さる。
「はっきり言えばいいのですよ。殺したいから殺す。死にたくないから殺す。私が怖い? そう、私も怖かったから弟を殺した。弟は油断したから死んだ。それだけのこと。何を苛む必要がある?」
突き立てられた短剣が抉るように左右に捩じ込まれる。
「ぐあっ」
熱が逆流する。竜を殺す毒が侵蝕する。あまりの痛みに膝をつき、握り締めた剣が手から落ちる。
「どう、して……お前は、国を憂いてたんじゃないのか……なんでこんな」
今にも命乞いをしてしまいそうな竜の顔にクヴァールは満足そうだ。蒼い瞳に涙が浮かび、唇を噛み、必死に痛みに耐える姿を見下ろすのは昂揚する。命を握るというのはある種の支配欲を最上級に満たす。竜を手に入れるというのは、あるいはそういうことなのではないか。新たな考えに人間の王はますます心を踊らせた。
「ああ、私の演説を真に受けたのか。あんなことを考えたこともあったな。もうどうでもいいんだよ、何もかも。どうせ全て滅ぶ。それなら最後に自らの手で目茶苦茶に壊したっていいだろう?」
「滅んで、構わないと?」
「そうだ。あなたが現れ、面白いことになると思った。すぐに“闇”を放つことを思いついたよ。いや、いつかやろうとは思っていたんだがね。私も人間の端くれらしくてね、いざとなると恐怖という感情があることをまざまざと気づかされるよ」
肩を抉る短剣が勢いよく抜かれる。押し殺した呻きに笑い声が被さった。
「さて、王よ。せっかく竜に出会えたのだ。その美しい瞳を抉ってみてもいいだろうか。竜の瞳には力が宿っているのだったな。さぞ美しいものか」
「何を、言って……」
「シャオムの気持ちもわからなくはない。美しいものというのは手元で愛でることに愉しみがある」
落とした剣を探る。短剣の白刃に光が反射する。クヴァールの狂気に満ちた笑み。
「くっ……」
振り下ろされた短剣を辛うじて防いだ。だがクヴァールの力が化け物染みていた。逸らされた軌道のまま手首を刺される。どこにそんな力を隠していたのか。それともライゼが弱りすぎているのか。黒剣が弾き飛ばされた。
「さあ、もう終わりだ。神のものを穢すというのは恐ろしくもあれど、愉しいものだな」
竜は怯える。
“人は、時にとても残酷だ”
ウーアの言葉が頭によぎる。
『生きたい』と願って殺した竜とは違って、人間は怖い。怒りや恐怖、生存本能ではない、衝動や欲望のままに人を殺すことができる。そこに罪の意識は薄く、自分の正義こそ至高であると考える。
自由で畏れ知らずで憧れに値したけれど、それは光の差す面であって、相対して闇もどこまでも深くなれるのが人間というものなのだ。
だけどライゼの本能とてこんなことで負けたりはしなかった。再び振り下ろされた短剣を痛みも恐怖も跳ね返し、握り締めた。
「なっ……!」
本来、竜は剣など使わない。ライゼは竜の中では異端で、その代償が今の状況だ。
ただ王は正統な竜としても優秀であるから王となり得るのだ。
竜はその身ひとつで戦う。強靱な肉体とどこまでも見通せる瞳。一族に伝わる武術。この体術は肉体と精神の鍛練として竜なら誰しもが習い、極めていく。彼らは自らの技に誇りがあり、爪と牙のみで生きていくことを好んだ。
だから剣などを好むライゼは異端としてかつてはつまはじき者にされたものだ。
竜の掌底がクヴァールの胸を捉え、ど、と鈍い音をさせた一瞬の間をおき、男は真っ直ぐ後方へ吹き飛ばされた。すぐさま間を詰め、次から次へと拳を打ち込む。
辛うじて反撃しようと短剣を振るクヴァールの目の前で飛び上がり背に回る。無防備な背中にも同じように掌底を打ち込めば、衝撃で肋骨が折れていく音が鈍い手応えとなり伝わる。
「ぐはあっ……!」
血を吐いて膝をついた男の前に立つ。見下ろす。憐れな姿を見ても昂揚感など微塵も起こらない。自分が傷つけたことが悲しかった。
「お前を殺したくはないんだ」
「竜殿は……お優しい、な」
「俺は人間が好きなんだ。どんなに狡猾で愚かであろうと。お前にだって優しくて温かいところはあったんだろう」
ブルタールはきっと最期まで本当は兄を慕っていた。兄が鬼になるはずはないと信じていた。
ぼたぼたと溢れた血が地面に落ちる。肩からも手首からも出血は止まっていない。あの剣でやられた傷だからだ。
「殺さない。だからもう俺に構うな。好きにどこへでもいけばいい。この国は滅ぶかもしれない。それなら逃げればいいじゃないか。もう誰もお前を国王として縛ったりはしない。……誰もいないんだからな」
折れた肋骨を庇いながら人間の男は顔を上げる。竜を忌々しげに睨みながらも、その表情には愉悦が浮かんでいる。
「そんなことができたのならとっくにしている」
クヴァールは手を差し出した。剣は持っていない。
「立たせてくれないのか」
一瞬だけ警戒した。でもやっと彼もわかってくれたのだと、信じる。この男は取り返しのつかないことをしたし、ブルタールも殺してしまった。狂気に支配された挙げ句の狂行だったとしても赦されざる行いだった。
でも、それでも、人間は改めることだってできるはずだ。竜は人間を信じた。
クヴァールの手を取って、傷に響かぬようになるべく優しく引き上げる。でも肋骨を折ったのだ。上手く動けるはずもなくよろけ、ライゼの肩にぶつかる。
「すまない、平気か?」
返事がなく肩にもたれかかり、強くライゼにすがりついている。
「どうした? 怪我がそんなに酷かったか? 向こうにウーアがいるから」
「ああ……そんな娘もいたな……」
何かを疑問に思う間もなく、クヴァールはライゼを抱く手に力を込めた。すがりつくなんてものじゃない。締めつける尋常ではない力。
異常に気づき押し戻そうとする前に、クヴァールの狙いが理解できた。捨て身の攻撃。違う。人間を捨てる行為。
肩に食らいつかれたライゼは驚いて弾き飛ばそうとした。だが完全に拘束されている。どこにそんな力が。
考えるまでもない。“闇”だ。立ち上ぼる“闇”はライゼを締めつけ拘束した。これは誰の意思だ。
肩の傷口から血を啜られる。
「クヴァール! やめろ! 死ぬぞ!!」
「死など……今さら。死ぬ運命なら、竜にでもなってみせよう……」
「竜になどなれん! “闇”になってしまう! 放せ!!」
必死に腕を振りほどこうともがく。
だがもう。クヴァールの“闇”も揺らぎ始めた。それがライゼの身体に巻きつき、拘束を強める。その間も傷口に歯を立てられながら、血を吸われる。
「う……ぁ……!」
痛いなんてものじゃない。熱い。血が沸騰して意識が遠くなる。
朦朧としていると唐突に解放され、地面に手をついた。息が上がって、血の気もなくなり、クヴァールのことを確かめる余裕がない。それでも顔を上げ、なんとか目の前で起こることを把握しようとする。
「クヴァール……?」
彼はうずくまっていた。びくんびくんと異様な痙攣を起こしている。もう一度、名を呼ぶ。返事はないが、代わりに呻いた。獣のようであり、喉を潰されたもののような、息苦しそうな声。
もう、ダメだ。
諦めてしまいそうになる。
でもライゼは痙攣するクヴァールに近寄り、表を向かせた。目はぎょろりと見開かれ、金色に変わった。髪が白くなる。ぐえっぐえっと何度もえづいて、もう正気はないのだろう。ライゼのこともわからずに足にすがりつく。
血を吐かせようとした。元に戻って欲しかった。口を開かせ、喉の奥に手を突っ込む。
吐き出されたのは真っ黒な“闇”だけだった。
「クヴァール」
王の瞳には慈愛と悲愴が溢れた。白くなってしまった髪を撫でる。シャオムよりも“闇”に耐性がなかったのだろう。それかライゼの生き血を飲んだせいか。酷い変容の仕方だった。
もうダメなのだ。
諦めは確信に変わる。変化を終えれば、“闇”となった男はすぐにでも襲ってくる。人間ではなくなり、竜の成り損ない、否、化け物になってしまう。意思は混濁し、おそらく『喰いたい』という本能だけが暴走する。
「すまない」
ライゼが悪かったのだろうか。彼の存在が悪。そこに在るだけで全てが終わっていくような感覚。
でもだからこそライゼが終わらせねばならない。
傍に落ちていた竜滅の短剣を拾う。美しい装飾の柄をしっかりと握り締め、白刃に映る自分の姿に顔を顰める。
殺したくはなかった。怒りはあったけれど、殺したかったわけじゃない。
「せめて安らかに」
世界を憎んで苦しんだ果てに壊れてしまった男に与える死の先では安寧が待っていることを願う。弟や妹が笑顔で迎えてくれるように。
激しく爪で引っ掻いてくるクヴァールを押さえつけ、ライゼはその心臓をひと突きにした。感じた鼓動がひとつ、ふたつ、脈打ち消えていく。
「ごめんな……ごめん……」
腕の中でぼろぼろと崩れていく男に王は涙を零す。
――お前が裁くのか。
違う。そんなことしていいわけがない。ライゼにできるわけがない。
――でもあの紅竜は裁いたじゃないか。
あれは、あれは。
――知らない竜だから構わなかった?
ライゼは頭を抱えてうずくまった。
そうじゃない。そうじゃないのに。みんなライゼが殺した。
殺したくなかった。
でも殺してしまったから、ライゼはひとりになってしまった。もう誰もいない。民のいない王は誰だ。
「ライゼ」
懐かしい、呼び方だと思った。
親しげであり、反抗的でもある。
あれは誰だった?
燃えるような赤い、あれは。




