3-6 兄弟
怖くないはずがない。神話を誰よりも深く信仰しているのなら、滅びは必ず訪れると信じている。
「私は無能だ。預言を覆すことはできない」
「そんなのまだわからない!」
「そういうところが恐ろしいのだよ。もし……もしお前が預言を覆してしまったら私は真の愚帝になってしまう。お前は真っ直ぐで、諦めも知らない青臭いところがあるけれど、それを許容させてしまう有能さも持ち合わせている。だからこそ皆はついていきたくなるのだろうな」
ブルタールは今やもう兄のことが理解できずに閉口している。優れているだとか、劣っているだとか考えもしなかった。
彼が望んだのはいつだって二人手を取って良い国を目指すことだったのに。
「兄さん……剣を下ろしてくれ。オレたちが争ってどうなる」
「どうにもならない。もう全てが手遅れなんだよ」
「どうして!!」
なぜ剣を向ける。なぜ恐れる。誰もクヴァールの立場を脅かそうなどと考えてもいない。
「フルゲオクルスは滅ぶ」
「滅ぼさせはしない! 竜だっている!」
「あの男か」
意識がライゼに向かった瞬間に二人の存在がぐっと近しいものになり、いつまで経っても辿り着けないかと思われた二人の前にライゼも立っていた。
「クヴァール、何してるんだ。剣を収めろ。ほら、先を急いでたじゃないか」
ライゼの言葉を無視して弟に向き直った。
「神話を正しく解釈すればあの男がどうなるかわからないか」
「どう、とは……?」
不安そうに視線を向けられてもライゼには何のことかわかるはずもない。
「“神に約束せし、楽園へのしるべとなる王よ。不滅なる肉体を持つ、滅びし竜の国の王よ。深き眠りから目覚めし刻、その身を捧げ、神の地で眠る王の妃を娶り、神のしもべたる民らに悠久の幸福をもたらすことを誓わん”」
王の宣誓の文句だ。
まだわからない様子の二人にクヴァールは喉を鳴らす。嘲り、憐れみ、竜の王に微笑む。
「“深き眠りから目覚めし刻、その身を捧げ”とある。わかるだろう。あの男は王妃に捧げる供物でしかない」
「それは王は王妃を娶るからだろ?」
溜息を吐いたクヴァールは剣を下ろし、まるで講義でも始めるみたいにその場を行ったり来たりする。激しい呆れと失望を滲ませ、随分と早口で捲し立てた。
「神がなぜお怒りになられたのか忘れたのか。竜を奪われたからこの女は追放され、我らはただのしもべに成り果てた。なのに女はまだ竜を求めている。それで神の赦しが得られると思うのか?」
「それは……でも神が定めたのなら」
「違う! これはきっと我ら始祖が企てた叛逆なのだ! 我らをないがしろにした神へのな! しもべは王妃を復活させるために竜を与えようとしているのだよ。だからあんなおぞましい竜もどきの“闇”など作り出した。王妃を神の呪縛から解き放ち、我らは神を討つ。それが始祖たちの狙いだ!」
彼の解釈は寝耳に水だが、筋が通っている。王妃に竜を与えることが果たして赦しになるのか。神の怒りに触れる行為ではないのか。
「では兄上はどうするおつもりか。竜を、ライゼを王妃に捧げて神を――討つ?」
なんて恐ろしい思考だ。神の国で暮らしてきた人間には口にするのも恐ろしい計画だった。
そして畏れていたのはブルタールだけでなくクヴァールもだった。
「馬鹿を言え! そのような大それた計画などするから神の怒りに触れるのだ! だから我らの国が滅ぼされそうになっていると、どうして誰も気づかぬ!」
ロルロージュを擁して竜まで与えようとしているから神はしもべたちの都を滅ぼすことを預言した?
でも、それなら竜は、ライゼはどこからもたらされた存在なのだろう。
「兄上! それならどうしてもっと早くおっしゃらない! ここまできてしまっては!」
「今から神に竜をお返しして間に合うか? いいや、間に合うとは思えん。フルゲオクルスは滅びるしかないのだ!」
「諦めたりしない! 間に合う! そうだよな!?」
ブルタールはライゼに視線を投げた。何がなんだかわからない。話がすっかり覆ってしまい真実はどこにある。クヴァールは困惑したままの王を、今初めて見つけたかのように瞳を輝かせて笑った。
「王よ、あなたはここの国のためにおられる」
「ああ……」
嫌な汗が背中を流れたのは炎に囲まれたこの森が熱いせいだけではないだろう。
クヴァールの目はもうまともじゃない。シャオムの時と同じだ。理性を失い、憎しみ、欲望、本能、そんなものだけにつき動かされている。
ライゼは無意識のうちに時計に手をかける。いざとなれば、この人間の王を斬り捨てる? 先程の紅竜のように。
指が僅かに震えた。
そんなことはしたくない。
「国のためなら命を賭しても構わないでしょう?」
「……どういう意味だ」
「あなたを神に返すのです。王妃の手に渡らせるわけにはいかない。あんな罪人を永きに渡って擁していたのがどうかしているのだ。元は我らと同じただの人間の女ごときが、今は下劣な魔女に成り果て、再び我らに混沌をもたらそうとしている! 竜など渡してなるものか! これこそが我らが成すべき使命! そうだろう、我が弟よ!」
クヴァールはあんなに畏れていた弟にとても優しく微笑んでみせた。それが異様さを際立たせた。
けれど弟は『神に竜を返す』ことができるのならと頷いて、ライゼにも肯定を促した。
王は簡単には是とは言えなかった。自分は誰のものでもない。人形を扱うようにあちらからこちらへと取り引きされるのは納得できない。
だけど。よぎるのは“闇”に飲まれた町。死んだ民。王女の悲劇。兄に忌まれても必死に足掻く弟。
それに白き少女。
ライゼの存在を差し出すだけで救われるのなら。目的を果たすことはできる。国を救う。自分の尻拭いをする。
誰のものになるか、ではなく国のために自分を捨てる。どちらにせよ記憶が戻れば、今のライゼはなくなってしまいそうなのだ。
それなら良いではないか。
「俺はこの国のために存在している」
クヴァールは天を仰いで歓喜の声を上げた。そうして再び剣を掲げる。
「では我らが竜の王よ! フルゲオクルスのために神の下へ召されよ!!」
クヴァールの剣が振り下ろされる。
神の御下へ。すなわち、死。人間の王はそう解釈し、竜を神の下へと送ろうとする。
死にたくない!
ライゼは反射的に剣を抜こうとし、しかし足元に、腕に、身体に。いつの間にか蔓のように“闇”が絡まり身動きが取れない。
殺される。
ほとんど感覚的に覚悟をする。
白刃が煌めく。
高い金属音が響き渡った。
王の首はまだ繋がっている。
恐る恐る目を開けたライゼの前には手首を押さえ膝をつくクヴァールと、剣を持ったブルタールがいた。弾かれた剣が遅れて地面に突き刺さる。
「兄上! どうかしている! こいつを殺して神に赦されると思うのか? また罪を重ねるだけじゃないのか?」
「ではどうやって神の御下に送るというのだ?」
「それは……、そうだ! オレたちが目指しているのは神の楽園だろう! 辿り着けばきっと!」
「あそこには王妃がいる」
「だが! 囚われているならなんとかなるかもしれない!」
「竜を奪われたら終わりだ」
クヴァールは握り締めた手首を抱えてうずくまってしまう。結局もう終わりなのだ。神の怒りを鎮めることはできずに、この国は滅びを待つだけ。
「兄上……」
何を言っても本当は兄も国を想っていたのだろう。滅びゆく国を憂いて狂行に至ってしまった。ブルタールは彼を憐れみ、兄を想う弟として震える肩に手を乗せた。きっとじんわりと温かさが伝わって――。
クヴァールは顔を上げた。
「よせ!」
ライゼは“闇”に囚われている腕を無理矢理引き剥がそうともがいた。
剣を。早く。ダメだ。
刃の一閃は光のごとく速かった。隠し持っていた、あの短剣はシャオムの。
「やめてくれ!!」
「王はおやめになられたか」
今のは誰だ?
赤い髪が揺らいだ気がした。
鈍い音が遅れて耳に届く。
視界は赤に染まった。
ブルタールの首を掻き切った兄は弟の血を浴びながら高らかに嗤う。気が狂っている。
「なんで! なんで弟を殺した!!」
首を押さえた男は何が起こったのかわからぬ様子でライゼを見つめた。
「兄さん……どうして?」
声にならない声が届く。
「嫌だ……兄さん、死にたく、ない、よ」
ゆっくりと身体を傾けた弟は兄ではなく、ライゼをじっと見ていた。目を見開いて、憎しみを宿して。
金の瞳が。王を憎んでいた?
ライゼは兄だ。誰かの兄だった。
「あ、あ……ああああああああ!」
弟を殺した。
弟を殺した。
弟を殺した。
誰が?
“闇”を引き千切り、剣を呼び出す。彼の中の竜も呼び覚ます。残虐で憎らしい竜の本性が彼の姿。
「なぜ……ブルタールを……殺した。あいつはお前を……赦していた」
「なぜ? それをあなたが問うのか。一番よくわかっておられるのでは?」
ライゼは片目を押さえた。金の瞳が見ている気がする。責めている。ずっと。
「俺は……俺は、違う!!」
舌なめずりをして顔に飛び散った血を舐め取ったクヴァールは、冷えた視線で屍となった動かぬ弟を見下ろした。
「私が城に“闇”を放ったのだよ」
告白はもうライゼに驚きすら与えない。誰が何を企んでいてもおかしくはなかった。この国は病んでいる。いいや、この空間が彼らの病んだ心にとどめを刺した。夢が。過去が。責め立てる。
そして歪んで、滅ぶ。
「そう、こんな国など滅んでしまえばいいのだよ。けれどこの子は私の邪魔をするだろう。いつもそうだった」
爪先で汚いものを小突くように弟の頭を蹴った。怒りに身体が支配されている竜は一言も発さず、人間に斬りかかった。クヴァールは今までの体力のなさそうだった緩慢さなど思わせぬ動きで、するりと切っ先を避ける。
「おやおや、どうして私に怒りを向ける?」
竜殺しのふた振りの剣が火花を散らして撃ち合わされる。短剣であるのにクヴァールは器用に黒剣を受け止め、力を分散させ弾いた。隙をついて竜の肉体を傷つける。
「さあ! 狂宴を始めようではないか! 踊り狂って死を視るのだ! 神の怒りも魔女の怒りも私は畏れぬぞ! 竜の王を殺して、私はただひとりの滅びゆく王となるのだ!!」
炎の中で二人の王は舞うように剣を撃ち合わせた。滅びゆく国の王と滅んだ国の王が怒りと憎しみに身を焦がし、自らの肉体を削っていることも気づかずに舞い踊る。
死へと至らせるために。




