3-5 本当の自分
結界の中で彼女はぐったりとしてぴくりとも動かない。
「クソ……俺のせい、だよな」
ウーアはライゼのために動いた。だから何かしらの制限がかけられた。檻に囚われていた時も彼女ははぐれたライゼを探して何かをしたのかもしれない。道案内。情報提供。それらの度が過ぎてライゼの試練に介入しすぎると彼女は戒められてしまう。そういうことだ。
誰が。何のために。あんな少女に。
怒りが沸いた。
最初から理不尽だった。でも自分に向けられるものならなんとか飲み込める。この試練は自分のためのものだから。記憶と、国と。
度が過ぎるというのなら、この試練こそがそうだ。国を救うため? 人が死んでる。試練なんて言ってる場合じゃないはずだ。
“闇”が生まれたのはライゼのせい。救うなどとんでもない。自分の尻拭いをしているだけだ。
“ライゼがこの歪みを断ち切れる唯一だ”
ウーアはそう言った。
他の誰でもない。
これはライゼの――。
紅竜が咆哮した。
ライゼを視ている。
目を合わせてはならない。彼女は必死に伝えてくれた。なぜかはわからないが、あの金の瞳には何か力があるのだろう。
視線を斜めに落として、気配で全てを感じ取る。できるはずだ。ライゼも竜だ。ウーアはそう信じている。だからライゼも自分を疑わない。
だがそんな王を嘲笑うように竜は鉤爪を少女に伸ばした。視線は釘付けになる。
「やめろ! 何をするつもりだ! 彼女は関係ない!」
あの紅い竜は賢い。竜とはそういうものなのだ。ライゼと『同じ』なのだから。人間と同じように知恵があり、意思がある。考えて、企んで、悩む。本能のままに生きる動物とは違う。
ちっぽけなライゼが剣を振り回しながら駆けてくるのを横目で楽しみ、彼がどう反応するかを理解している紅竜は鋭い爪を器用に使ってウーアの魔法結界の球体を掴んだ。
人が壊れ物を扱うように、そうっと。硝子玉を摘んで目の前に翳して光を覗く。そんな姿を彷彿させた竜は、しかし次の瞬間に玉を飲み込んだ。
「ウーア!!」
握り締めた黒剣が彼の怒りに反応する。魔力が沸き立つ。
一気に踏み込んだ。今度は油断などしない。竜の足元だけ見て、疾風のごとく駆け抜ける。視界を翻弄する。身体が熱かった。怒り。本能。
竜は優しい生き物なんかじゃない。生来、血に餓えた獣だ。そんな自分を神は認めないから、爪を、牙を隠して生きている。美しき生き物であろうとした。
争いが嫌いであると言っても、いざとなれば躊躇もせずに殺すのに。
同胞であってもだ。
理性をかなぐり捨てて本能を剥き出しにすれば何よりも残忍な生き物。
竜が竜殺しの剣を持つ意味。
紅竜が火炎を吐いた。全てを焼き尽くそうとする業火だ。ライゼを責める炎。
剣はそれを両断した。
そして王はまず竜の尾を切り落とした。轟く悲鳴もものともせず竜の背を駆け上がり、続け様に翼を切断する。なめらかな剣捌きだった。
剣は竜の肉体を持たぬ王の爪だ。
今のライゼには目の前の竜が助けを乞うて泣いていることも見えてはいない。憐れな竜が大事な翼をもがれ、尾を失い、惨めな姿で泣いている。
そんなことはもう関係ないのだ。この竜はライゼの大切なものに手を出した。だから罰が下される。それだけだ。
黒い剣は竜の爪よりも確実に竜を傷つけることができる。軽く突き立てるだけで固い鱗は溶けて剥がれた。毒を塗り込むような魔の力は切り刻まれた部分からじくりと染み込み、生きる力を奪う。意識が混濁して思考まで奪う黒い力だ。
あの禍々しい感覚を知っているはずのライゼは、なのにほんの少しの慈悲もなく竜を傷つけた。蒼い瞳には優しげな面影は一切ない。冷酷。残忍。
血飛沫を浴びても顔色ひとつ変えない。
「ウーアを返して貰う」
もはや地面に横たわり、動くこともままならない竜の頭の上に立つ王は最期を宣告する。紅い竜は潰されていない片目から大粒の涙を零した。
竜の涙は珠のように美しく不老の妙薬と噂されている。実際は人間ごときが飲んでも力が強すぎて死ぬだけだ。竜は人間には毒にしかならない。その肉も、血も、存在すらも。
ライゼは金色の瞳を見下ろした。見てはならない瞳すら、今はもう彼にとっては硝子玉同然だ。瞬く金色も、じっと王を見つめ返した。
剣が振り下ろされる。
刹那、針を刺すように光が脳を通り抜けるような――錯覚。
“兄さん……やめてよ、僕は”
ずきりと目が痛んだ。でも片目を押さえたまま、ライゼは剣を紅竜の涙に煌めく宝石のような金の瞳に突き立てた。
「ぐおおおおおっ!!」
一際大きく嘶いた竜は力の源である瞳を失い、痛みに悶え苦しんだ後に動かなくなった。だが、まだ死なぬことを竜の王は知っている。
頭から飛び降り、紅い巨体のここだけは黒い皮膚である腹の前に立つ。一閃で裂いた。彼女は見当たらない。
中で脈打つのは竜珠と呼ばれる、心臓だ。“闇”のように黒くはない。鮮血が滴る中で生々しい黄金色が力強く鼓動を繰り返している。時に赤にも金にも変わる宝石のような心臓。
これが竜の根源。一番大切なもの。
腹を抉られても生きている竜は最期の懇願をする。深く息を吐いて、憐れに鳴く。
王は何も答えず、黒い剣を真っ直ぐに、ゆっくりと突き刺した。内から焼けていくような痛みを与えられたまま、徐々に命を削られるのだ。
奥まで差し込んだ剣を一気に引き抜く。大量の血飛沫を浴び佇む男には感情すら失くしてしまったように瞳に光がない。
紅い竜は断末魔を上げることも赦されずに息絶えた。
竜の巨体は美しく在りたかったことを忘れまいと、光の粒になり黄金色を天空へ向けて散らしながら消えていく。
その中でただひとつの邪悪なものになってしまったライゼは血塗れのまま、消えゆく竜の中からふわりと浮かび上がった少女を見上げた。
穢れのない白い少女だ。
「ウーア」
彼はもう剣を自らのものとして制御した。魔の力を呼んで、少女が囚われていた結界を掻き消す。
目覚めぬ少女は、それでも王の手に戻った。ゆっくりと降りてくるウーアを抱きとめ、とても冷えてしまった心を温めるために抱き締める。
「ウーア」
自分が自分でないものになってしまった。あるいはこれが本当の自分だった。
冷たくて、無感情で。
そんなのは嫌だ。怖い。
腕の中の少女が小さく身動ぐ。
王は黙ったまま彼女が目覚めて何を言うのか待った。自分で何かを発するのが怖いのだ。否定も肯定も。
彼女の瞼が震え、ゆっくりと金色が開かれていく。真っ直ぐ空を眺めた。ぼんやりとした意識を徐々に自分のものとして、それからウーアはライゼを見つけた。
「ライゼ」
王は答えない。
少女は金色を瞬かせて覗いた。
「ライゼはライゼだよ」
「俺は……こんな自分は嫌だ」
「わたしは……わたしは……」
言葉を探すウーアは適切なものが見つからず、ライゼの頬に手を伸ばした。べっとりとこびりついた血糊が彼女の指を穢す。それを見て、ライゼはまた罪の意識に苛まれる。抱き締めていたウーアを見下ろせば、ライゼのせいで白かった衣が赤く染まっていて息苦しさに眉を寄せる。
「俺は本当はこんなやつだったんだ」
「ライゼ、違う。自分を強く持って」
「何も覚えていないのに!」
思い出していく断片にはろくなものがない。王。竜。炎。血。どれもこれもライゼを苛む。
「違うよ、ライゼ」
「俺はどうしたらいい?」
「わたしには……」
ウーアは何も言えない。
「そうだな。お前の役目は俺に試練を受けさせること。ごめんな、困らせて」
動けるようになった彼女を地面に降ろしてやると、背を向けた。
先に進むことで自分が自分でなくなることが、ライゼが『何』かという答えであっても逃げ出すことは赦されない。
「いこうか」
森の炎は消えてはいない。赤い空にくゆる煙は黒い。まだ終わっていない。
「ライゼ」
少女の悲しげな呼び声が通り抜けた先に、兄弟がいた。視界が開けたように森の先が見渡せる。炎に囲まれた場所で二人は向かい合っていた。
ブルタールとクヴァール。フルゲオクルスの王族兄弟。仲は良くないけれど、二人は国のためにここにいる。彼らの国だ。守りたい気持ちはきっとライゼより確かなもの。
なのになぜ、兄は弟に剣を向けていて、二人は睨み合っている?
「視てはいけない」
ウーアが頭を押さえながら袖を引いた。彼女は制限を越えてライゼを助けようとしている。
なぜ。
今止めるべきはあの二人だ。ライゼは何も問題ない。
「あの二人を止めねば。兄弟喧嘩にしてはやり過ぎだ。ウーアはここにいろ。休んでるんだ。お前の使命に逆らわなくていい。俺なら平気だ」
彼女の肩を押し戻し、駆け出した。
「ライゼ! いかないで!」
少女は悲痛に叫んで、頭を押さえて膝をついた。これ以上介入すれば己の存在が危ういと、彼女自身もわかっている。
王にこの先を視せることが必要なのだとわかっているのだ。
「私はお前がずっと怖かったんだ」
静かな言葉は染み入るように落ち着いているのに、奥に燻る憎悪がちらついた。
「オレが兄上を排そうとしたからか」
兄の狂行は突飛ではないと思っているらしいブルタールに予想以上の驚きはなかった。
「それは結論に過ぎない。城でなんと言われていたか知っているか。無能王と賢弟。お前のことを賢帝と呼ぶ臣下の多いことよ」
「そんなの! 勝手に言わせておけばいいことだ! オレは……」
「お前も私を見限ったじゃないか」
喉を鳴らして人間の王で在ろうとした男は笑う。
「確かにそんなことは些細なことだ。どうしてお前はそんなに必死になれる? 王位が欲しかった? こんな腐った国の王になって何になる」
「腐った……?」
「視ただろう。“闇”を抱えて、神に頼って、竜など崇めて、安穏と暮らす馬鹿な人間たちを」
「何を言って……」
「くだらない。どうせじきに滅びる国を守ってどうする。王になっても絶望するだけだ」
「ならどうしてオレを政治から遠ざけた! 玉座などさっさと明け渡してしまえば良かったじゃないか!」
「王でなくなったら私は『何』になるんだ? 何者でもなくなる。何にもなくなる。そんなことが堪えられるのか?」
「兄上……」
彼もまたフルゲオクルスの歪みに病んでしまったひとりだ。王は神話と預言に一番近しい者でなければならない。秘密を守り、神話を信じ、国を治める。
どんなに信じられない馬鹿馬鹿しい神話も真実であると崇め、最後には滅びを迎えると覚悟する。
平和を約束された時代の王はそれでもいいだろう。
だけどクヴァールは最後を迎える王だった。




