3-4 紅い竜と銀の少女
空が赤い。燃えるような赤だ。いつかどこかで見たことがある。
その森で竜の咆哮が聞こえて全てが燃えた。
紅い竜と白い竜。
燃えてしまったんだ。
「ライゼ! ライゼ起きて!」
少女は目を覚ましたら辺りの様相が一変していたことに目を丸くさせた。なのに見張りを買って出たはずの竜は地面に転がって眠ってしまっている。いくら揺さぶっても起きる気配がない。
「ライゼ! 起きて!」
周囲はすでに火に囲まれていた。ここは僅かに開けた場所だから火の回りは遅かったが、森の木々は焼け落ち逃げ遅れた動物たちは右往左往してたちまち火に巻かれてしまった。ウーアもライゼもこの場にとどまっていては同じ運命を辿るだろう。
「ブルタール! クヴァール! どこ!」
王族二人の姿も見当たらない。少女の慌てふためく様子はとても珍しい。それほどまでに不測の事態だった。
ウーアはライゼを呼びながら、彼の時計を探した。
「ライゼ!」
少女は燃え落ちてきた木の枝から竜を守るために覆い被さりながら、魔法を放った。障壁をぶつけ、火の粉を散らす。四散した木々が周囲に散らばった。
無事であるライゼを確認していたら、今度はその王がひどく険しい表情になりうなされ始めた。少女は何度も名を呼ぶ。彼は戻ってこない。
きっとここはそういう場所なのだ。ウーアが夢見ていたようにライゼも夢見ている。それも悲しい夢。そして夢は人を狂わせる。
少女はどうすべきか悩んだ。自分には介入権限はない。ないけれど。
「ああああああっ!」
頭を抱えて叫び出したライゼにウーアはほとんど無意識で時計の魔力を引き出し、空間を開く。
「ライゼ!」
彼女が取り出したのは白いまんじゅうだ。ほかほかの良い香りの。それをあろうことかうなされるライゼの口に容赦なく突っ込んだ。
「動力充填。危機回避!」
ライゼにまんじゅうを押しつけつつ、火がこれ以上近づかないように水流を放つ。小規模の雨では勢いのある炎を消すことは叶わない。ウーアではこれが精一杯だ。
「ライゼ、早く起きて! まんじゅう、足りない?」
すがりついた少女は泣き出してしまいそうだった。ライゼは彼女のただひとつの失くしてはならないものだ。試練を受けさせねばならない役目と彼女の意思は予想外に反発し、ウーアの思考にはライゼがきてからずっと混乱が渦巻いている。
「ライゼ!」
「ごほっ……」
やっと瞼を震わせた竜はひどく咳き込んだ。これはほとんどウーアのせいであるが、彼女はまんじゅうまみれのライゼに勢い良く飛びかかった。
「ライゼ! 起きた!」
「ウ、ウーア? 一体どうしたんだ?」
抱き締めた竜から少し顔を離した少女は竜の瞳の奥を覗き込む。
「どんな夢を視た?」
「夢?」
わけがわからないといった様子のライゼにウーアは小さく頷いて立ち上がる。ライゼの手を引いて、炎の届いていない奥を指差した。
「炎の夢。この先いかなくちゃ」
「そうだ、炎の夢を視た。竜がいて。どうしてわかった?」
金色が煌めいたけれど少女は答えなかった。制限領域だからだ。
二人は手を取って森の奥へと急いだ。楽園だった地は今や見る影もない。燃え盛り、空まで真っ赤に染め上げ、あんなにたくさん飛んでいた竜の姿もない。渦巻く黒煙の奥へと視界を凝らせば、大きな黒い塊がうずくまっている。竜は死んだのだ。
こんなのは幻影だ。
ここにきてからの幾度目かの現実逃避だと気がついたライゼは、これもまた過去の出来事なのかと胸を痛めた。
「ウーア、竜が生きていた時代は今から何年前だ」
「およそ千年」
「千年? じゃあ竜が滅ぶと同時にこの国は興ったのか? 神話は……」
考えが至る前に何者かの咆哮が轟き、二人は耳を塞ぎ風圧に耐えた。何が吠えたかなど、炎の中に揺らぐ影の大きさでわかる。
「ライゼ……」
珍しく怯え、心細そうに呟いたウーアは彼の手をぎゅっと握り締めた。
「怖いなら下がっていていいからな。無理するな。この試練はいつも精神攻撃がひどすぎる」
「わたしはあなたを心配している」
「お前も俺を頼りないとか言うのか」
十分に思い当たることがある王は肩を竦めて「なるべく善処する」とだけ言って、現場へ向かう。
燃え盛る木々の中で二頭の竜が対峙していた。唸り、牙を向き、翼を広げる竜の姿は筆舌に尽くしがたい。畏怖。神聖さ。
ライゼ自身はそれよりも紅い竜と白い竜の様子が気になった。彼らは互いの金の瞳を見つめ合ったままで、時折喉を鳴らすように唸り、怒りを表すために首を振って足を踏み鳴らし地面を揺るがした。
対話は唐突に終わる。紅い竜が白い竜の首筋に噛みついた。親しい者と戯れているのではない。殺すために急所を狙う行為だ。
でも竜の急所は首ではない。首を落とせばさすがに死ぬが、噛んだところで強靱な鱗が刃を阻み掠り傷程度にしかならない。
噛まれた白い竜は大きく首を振り、前足で紅い竜を押さえつける。巨体を激しく揺らしながら、互いを傷つけていく。飛び散る血飛沫も雨のように降り注ぎ、辺りに異臭が立ち込めた。
「ライゼ、いけない」
繋がれた手が引かれて、立ち止まるウーアを振り向けば。彼女は大きな瞳を見開いて震えて――涙を零していた。
「どうした!」
何らかの精神攻撃が彼女を蝕み始めたのかと、とっさに竜を視界に入れぬようにウーアの前に立ち塞がる。
「こんなのダメ」
「竜が怖いのか? ここから離れようか」
「どうすべきかわからない。ライゼに視せたくない」
「俺に」
ではここでまた彼にひどい光景が視せられるとウーアにはわかったのだ。ライゼへの試練。過去の出来事。
「ウーアが怖い思いをするわけじゃないんだな?」
零れ落ちる大粒の涙を拭ってやる。瞬くと炎が金色に反射して美しかった。
「俺は識らねばならない。そうだろ?」
「でも」
「また醜態を晒した時には一発喝を入れてくれ。俺は身体だけは丈夫らしいからな」
「ライゼ、いなくならないで」
予想外の懇願の真意を聞き返す前に紅い竜が炎を吐いた。白い竜へではなく、二人に向かって。
とっさに剣を抜く。ほぼ反射だった。
またウーアも手を翳した。魔法障壁を展開したのだ。
障壁に阻まれ、炎は二人の前で二手に分かれ後方の森をなぎ倒し、炭と化した。
「どうするの」
「どうするって」
この竜と戦う理由はない。というのはライゼの言い分でしかなく、紅い竜は標的をライゼに変えた。それに先程まで紅竜の相手をしていた白銀の竜は消えていた。やられてしまった? そうは見えなかった。死体らしきものも見当たらない。
忽然と消えた。それが正しそうだ。驚きはしない。ここは歪な空間で、ライゼの試練が行なわれている場なのだ。何が起こっても不思議ではない。
「やるしかないならやるまでだ」
「ライゼ」
今まで試練を受けさせることを第一にしていた少女は彼の腕を掴んで銀の髪を揺らしながら必死な様子で首を振った。
「大丈夫だ、いなくなったりしない。もしウーアがまたどこかへ囚われてもちゃんと呼ぶ。助けにいく」
「違うの。そうじゃない」
言葉は上手く繋がらない。言えない理由。ウーアはおそらく完全にはライゼの味方にはなりきれない。どんなに彼女が望んでいたとしてもだ。なんとなくそれを感じていたライゼは、狭間で困惑するウーアが困らなくていいように笑ってみせる。
「ウーア、いいんだ。やらねばならない。お前が気に病む必要はない」
炎が止み、金の双眸がぎょろりと二人を捉えた。黒剣を構え直して対峙する。竜殺しの剣。だからあの硬そうな鱗も貫ける。
竜の王は走り出した。
紅い竜はそれをじっくりと吟味するように眺めてから咆哮した。まるで愉快なことを見つけた子供のようだとライゼは思う。
竜である自分が竜を殺めることに抵抗はあるか。
多少はある。
竜は同胞だ。
でももういない。あれは幻。あるいは“闇”と変わらないもの。
彼には先へと進まねばならない理由がある。過去を打ち払わねばならないのなら、この剣を掲げよう。
巨大な竜の身体はただの的だろうと思った。
けれど腹を狙って飛び上がったライゼの剣が竜の鱗を傷つけることはなかった。目掛けて飛んだ瞬間に竜はその巨体をいとも簡単に持ち上げ、ひょいと身体を逸らした。反撃もせずに金の瞳を瞬いた竜は空振りしたライゼを面白そうに眺めている。
「なんだ……?」
黒剣を嫌がって避けた。そうじゃない。見切られた。すぐに再度踏み込む。死角を狙って回り込み、尾を切り落とすつもりで剣を凪ごうとして――剣を振る前にその尾でライゼの身体は弾き飛ばされた。森を突き抜けるほど吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
「ライゼ!」
それまでどうしていいかわからず固まっていた少女が彼の元へ飛んでくる。土を抉った粉塵を手で払うように風を起こし視界を開く。地面に横たわる血まみれのライゼの傍に膝をつき、即座に治癒する。彼の呼吸が安定し、無事であると確認した少女はライゼが目覚めるのも待たず紅竜の元へと引き返す。
意識がはっきりしてきたライゼの目にその背が映るなり彼は身体を起こし追う。
「ウーア! やめろ!」
声が届かない。彼女は止まらない。一直線に飛んでいく。右手に円形の魔法陣が展開され、凄まじい神力が凝縮されていた。
紅竜の金の瞳は少女をしっかりと捉えている。
ダメだ。あのまま進んではライゼと同じように振り払われる。
「ウーア!」
少女があの衝撃に堪えられるはずがない。いけない。死んでしまう。
ライゼは叫ぶ。
紅竜が巨体を持ち上げる。
ウーアは。
銀の少女は金の瞳の前から一瞬消えた。竜は彼女を捉えようとした鉤爪を空振りさせ、前のめりになる。
瞬間、頭の上で閃光が炸裂し、紅竜の左目の辺りが爆発した。竜が空気を震わせるほどの悲鳴を上げる。焦げたような嫌な臭いと血飛沫。紅い空の下で紅い竜はのたうち回る。
頭上に浮かぶ少女はやったのだ。
銀の髪と白い衣を超然となびかせた少女は竜の左目を潰した。そのままもう一度魔法陣を展開し、力を溜めていたウーアは唐突に体勢を崩す。空中で身体を折り曲げ、頭を抱えた。
「うああああっ!」
ふ、と彼女の纏う神力が掻き消え、頭から落下してくる。
「ウーア!!」
滑り込むようにして地面に激突する寸前に少女の身体を受け止め、彼女を庇いながら地面を滑る。背中が焼き切れそうな痛みの中で必死に少女だけは守ろうと頭を抱え込んだ。
「ウーア! 無事か!」
やっと収まった衝撃に息つく間もなく無事を確かめた。腕の中でもがくように髪を掻き毟るウーアはひどく苦しそうだ。何があった。紅竜の攻撃は食らっていないはずだ。怪我も見当たらない。
「ウーア!」
うっすらと目を開けた少女はライゼの腕にすがりついて訴えかける。
「ライゼ……竜の、竜の目を見てはいけない……うああああ!」
また頭を抱えてしまった少女は、急に体重が軽くなった。否、勝手に宙に浮いていく。
「……わたし、は」
ウーアが腕を強く握っていた手が離れていく。彼女は泣いている。これはウーアの意思じゃない。
引き戻そうと掴んだ手も少女の身体をとどめることができずに、ライゼの手を離れてしまう。
「ウーア!!」
雨のように雫がぽたぽたと彼の頬に落ちた。少女はそのまま金の瞳を伏せて彼の傍を離れることしかできなかった。
球体の魔法結界に囚われた少女は、空中高くライゼの遥か頭上、竜の目の前に浮かんだ。




