2-10 いっしょに
刻が止まったかのような空白。
先に膝をついたのは竜だった。血を吐いた。突き立てた剣に縋りつきながらも、覆い被さるような影が背中から胸を貫通させた衝撃に意識を遠のかせる。
「どうして?」
“闇”は囁いた。
「どうして私のものにはならないの?」
黒剣で心臓を刺された彼女たちは空気が抜けるような音をさせながら影を噴出させていく。
「ステルラ!」
兄の呼びかけに、もう妹は答えなかった。
シャオムの身体を覆っていた“闇”が消えていく。真っ黒い血を吐き出した彼女は力なく倒れた。補填した腕ももうなくなって、黒く染まった肌の一部はぼろぼろと剥がれ落ちた。
ブルタールはそれを憐れみと憎しみの混じる目で見下ろしてから、ライゼの傍に膝をついた。同時にだだっ広い研究室がちらちらと揺れて視界が歪む。
今度こそ終わったのだろう。
「ライゼ!」
ブルタールが揺さぶる男の胸には真っ赤な血が滲んでいる。そこにあるのは複雑な想いだ。この竜の血が彼らの日常を壊した。怒りは沸いた。こんなやつが居なければ苦しみ抜いて死んだステルラの死後まで穢すことはなかった。
だがきっとこの竜も憐れなのだ。
何も知らない竜は真実を知って泣いていた。
知らないから関係ないと言ってしまえばいいのに、心を痛めて救おうとして、自分が死にかけている。
「馬鹿が!」
自分の上着を裂いたブルタールは血が滲むライゼの胸を押さえつけて縛った。生温かい感触に眉を寄せるが、呼吸は思ったより安定している。
「まさか本当に不死身なんじゃないだろうな」
気がつけば研究室だった部屋は町でも森でも塔でもなく、城のどこかの部屋に似た場所になっていた。『門』がある。一連の試練に決着がついたのだ。
結末は真実とシャオムの死。彼女も二度と動かぬ肉体でこの部屋に戻った。死臭に満ちた空間はもうここへ共にやってきた同志には戻れないことを現わすようだ。
「死んだか」
声はブルタールの兄のものだ。
「兄上はシャオムのことを知っていたのか」
「司祭一族のことは父上が伏せって実質的な王位を継いだ時に知らされた」
あとのことは知らぬと言わんばかりにクヴァールは肩を竦めた。それにシャオムの死は当然だと思っていたように、さも興味もなさそうに一瞥しただけだった。
いつもあんなに司祭を頼りにしているふうだったのに。腹の内がわからぬ兄はもう子供の頃とは全く違う兄なのだ。それが今になって弟の目には恐ろしく映った。
だけど兄はシャオムの切断された腕が部屋の隅に転がっているのを見つけると拾い上げ、そっと彼女の腹の上に置いて両手を合わせてやった。
その時に短剣がどこにいったのか気にする者はいなかった。
「ウーアは……?」
険悪な雰囲気の中で目を覚ましたライゼは僅かに軋む胸を押さえて起き上がる。戻ってきた部屋はだだっ広い研究室と同程度の広さの『門』があるだけの部屋だ。
なのに見回しても少女の姿がない。
なぜ戻ってきていない。
途中で脱落した? はぐれて知らないうちに死んだ?
そんなわけはない。
瞬間的に思ったのはただの直感で、理性を働かせるとするなら死んでもシャオムのように戻ってくるはずだ。切断した腕とて戻ったのだ。シャオムの変質したままの遺体から視線を逸らす。
それにはぐれたクヴァールも戻っている。
なぜウーアだけがいない。
そもそもウーアの過去も視せられなかったし、彼女の元へいこうと呼んでも飛べなかった。彼女はどこにいってしまったのだ。
「ウーア! どこにいる!」
兄弟二人を窺う。彼らはウーアに関心がない。見習い巫女としてフルゲオクルスに仕えていたという体裁を保っていたのなら、王族が巫女程度を気にするわけがない。
彼女が何か特別だと知っていたのはライゼだけなのだ。
だからちゃんと気にしていてやらなければならなかった。ライゼが呼んでやらねばいけなかった。知らぬからと人任せでいてはダメだった。
彼女はライゼのための記録者なのだと二言目には言っていたじゃないか。何もわからずとも共にいくと二人で決めたじゃないか。
「ウーア!!」
怪我のひどいライゼが声を張り上げて従者を呼び続けることに兄は呆れ、弟は心配している。
「たかが従者のひとりがいなくなったくらいで取り乱すのはいかがなものか、王よ」
「たかが……?」
ライゼが纏う雰囲気は普段はとても穏やかだ。争いも好きではないだろうと思わせるくらいには“闇”との戦闘で心を痛める。
そんな彼が一瞬で人を殺し兼ねない目をした。あまりの眼光に竜の金の瞳を錯覚すらする。
「俺はこの国を救いたい」
最初は記憶のため、成り行きでしかなかった。
でももう違う。国の悲劇を知った。温かい人たちが苦しんで、死んでいった。今もまだ苦しんでいる。彼らもそのひとりだ。
「それは民がいるからだ。なのにもうほとんどいない民のひとりを『たかが』と言うのは許せない。それに彼女は特別だ」
「ふん。貴様のせいでこうなったことを忘れるな。女ひとりと責務、どちらが重要か考えてみてはいかがか。ああ、竜殿は女のために神をも裏切ったんでしたな」
ぎり、と王は拳を握った。全てがライゼのせいである。そのことは否応なく彼を責める。
シャオムだってステルラだって死なずに済んだかもしれない。なのにライゼが殺した。多くの民を彼が意図していなかったとはいえ殺した。
救いたいと思うのはそのせいなのだろうか。
うなだれて動かなくなった王を嘲ったクヴァールは『門』へと向かう。この国の真の王は彼だ。守り、導くのは国王の役目である。凜とした背中がそう言っている。
ブルタールもライゼの肩に手を置いて、慰めるように首を振ると先へと促す。
彼女を置いていく。
ここは空間がねじ曲がっているから、進んだ先で会えるかもしれない。なかなかこないことに怒っているかもしれない。
時計を握り締めた。中身は相変わらず時計としての役割を果たさず逆回りしている。蓋をして握れば熱が籠る。彼女ならひとりで平気だ。大丈夫。
違う。ウーアは主人の命に背くことを迷っていた。共に、と言ったライゼのために悩んで、手を貸そうとしてくれていた。
置いてはいけない。彼女もまたライゼのせいで苦しんでいるひとりだ。
「ウーア! どこにいる! 一緒にいこう!」
ひとりは嫌だ。どうしてそんなことを強く思うのかわからない。でも彼は、もうひとりなのだ。
そして人間たちまで滅んでしまったら、本当にたったひとりきりになってしまったらあんまりじゃないか。名ばかりの孤独な王など滑稽だ。どんなに罵倒されようと竜は――ライゼは人間が好きだった。神にも抗い必死に生きて、竜すら畏れない。身勝手で愚かだけど、自由。そんな人間たちに触れてみたかった。そうだったんだ。
しん、としていた広間の『門』の正面の空間が歪んだ。白く淡い光に包まれる。床に接地している部分から天井に向かって徐々に姿が現われていく。
檻のような鉄格子だ。円形に囲う格子が上部で絞るように集約しているのは、まるで鳥籠。
まさしくそうなのだろう。鳥籠の床が光り輝くと少女の姿が浮かび上がった。床に倒れたまま動かない、銀の髪の。
「ウーア!!」
すぐに駆け寄った。格子に手をかけた瞬間、不快感が電流のように伝わり飛び退く。
「なんだこれは……閉じ込められてるのか? ウーア! 無事なのか!」
少女は身動ぎひとつしない。嫌な汗が噴き出す。
ライゼは剣を抜いた。
「おいお前、まさか! 無茶するな、傷が開くぞ!」
「構ってる場合じゃない!」
鉄格子が剣で斬れるのか。考える必要はなかった。黒剣を格子に軽く打つと、耳鳴りのような反響が起こった。反発している。黒剣を嫌がっている。
やれる。一歩下がり、真っ直ぐに剣を構え呼吸を整えた。息を止め踏み出す、一閃。
金属的な音はしなかった。剣が斬りつけた場所が断絶された。金色の檻だった格子が黒い影となり剣の介入に耐え兼ねて枯れる草のように萎びて消えた。
「ウーア!」
ライゼは床に倒れている少女を抱き起こした。ほんのりと温かい身体に安堵して少女の白い頬を撫でた。すると白い睫毛が震え、金色が開かれた。
「ウーア」
「ごめんなさい」
目覚めて彼を認識した瞬間に少女は視線を逸らした。
「何を謝る。無事で良かった。心配した」
「あなたを助けたかった。できなかった」
それは主命によるものなのか。檻に囚われていたせいか。
「いい。そんなの気にするな」
「でも」
少女の小さな手がライゼの血に濡れた胸に触れる。
「肉体維持機能修復」
ウーアの熱い手が怪我を癒していく。紡がれる魔法が温かい。
「……心配してくれるのは嬉しいけど、もう少し言い方はないのか」
「断絶されたる肉体に注ぎし混沌の刻は、かの地の祝福により復活を――」
「そうじゃなくて」
なぜ謎呪文を唱えたがるのか理解不能だが、まだよくわからないといった様子の少女にライゼは微笑んだ。
「生きていてくれて良かった」
「ライゼが」
「ウーアがだよ」
まんまるの目をさらに見開いてしばたかせた少女は、数秒考えてからこっくりと頷いた。
「立てるか」
「はい」
手を支えに立ち上がらせ、ふいにライゼはウーアの頭を撫でた。銀の髪が美しいのはいいのだが、丸出しなのはまずいのではないか。
「マント、なくした」
「そうみたいだな。まあ、もういいか。色々驚くことがあったんだ。お前の姿形くらいであいつらも驚かないだろう」
「うん。ライゼがいいならいい」
納得した二人が『門』へ向かうために振り向けば、兄弟二人は驚くほど唖然としていた。
「おい、その子……」
「細かいことは気にするな。俺の従者だ。竜の王のお付きだ。なんでもありだよな」
「細かいってお前、だって。なんで言い切って誤魔化そうとしてるんだよ」
じろりとブルタールがウーアを厳しい表情で睨みつけても彼女は全く気にした様子はない。ライゼもウーアが無事であったことを糧に落ち込む気持ちを切り換えていて「細かいこと」は頭の片隅に追いやった。
先へ進むために『門』へと臨む。そんなふうにいってしまおうとする後ろからついてきたウーアが、ふいにライゼの左手を握り締めた。ライゼにはそれがウーアだと見なくてもわかったし、驚きもしなかった。そうであるということを判然と受け止め、温かなぬくもりを握り締め、歩き出す。
一緒に。
そこにどんな意味があろうとも、そうであることが嬉しかった。
こんな様子の王と従者だ。兄弟も何かを言う気が削がれた。
続く試練に何が待っているかわからないのだ。次にまた誰かが死ぬかもしれない。
そうはさせない。
救わねばならない。
なぜなら彼は王なのだ。
シャオムを貫いた時に、強く、そうであることを『思い出して』いた。




